■節子への挽歌4594:看取れない悲劇
節子
新型コロナで悲しい事件がいろいろと起きていますが、とりわけ悲しいのは、終末期の看取りができないということが起こっていることです。
コロナ感染した人の場合は、葬儀まで制約されるようですが、別の病気で入院していた人への家族面会禁止が起こっているようです。
今朝の朝日新聞のトップ記事の見出しは「終末期 病院で看取れない」で、書き出しはこうです。
きっかけは、4月13日午後8時すぎに社会部に届いた1通のメールだった。
「白血病で余命数カ月の宣告を受け、入院しています。コロナのために家族面会は禁止になり、最期の時も看取(みと)ることはできないと言われました」
この人は、病院と相談し、退院し、結局、家庭で最期を迎えたので家族に見送られたそうですが、「コロナに感染しなくても、最期さえ家族と会えない人がいる。それを世の中に知ってほしいと」と新聞社に訴えたそうです。
とても悲しい話です。
むかしの「殉死」という風習を思い出してしまいましたが、愛する人を看取れないことは個人にとっては耐え難いことでしょう。
仮に感染する可能性があるとしても、それが自分だけのことであれば、だれもがきっと看取りたいと思うでしょう。
それができない仕組みは、やはりおかしい。
病人を隔離するというルールは、やはり非人道的なような気がします。
そうした非人道的なことがいろいろと起きている。
言い換えれば、生物学的な生命は守られても、人間的ないのちは守られていないのではないかと思えてなりません。
人間的ないのちは守るためには、時には生物的生命を犠牲にすることもあるのではないか。
そういう気がしてなりません。
しかし、人は最後には結局、自らの「生命」を優先してしまうものでしょうか。
そうではないと私は思いますが、そういう人がもし増えているのであれば、実に悲しいことです。
コロナウイルスによって、私たちは今、生きるとは何かを問われているように思いますが、感染には注意しなければいけませんが、それよりももっと大切なことがあることを忘れたくありません。
改めて「看取り」の大切さを考えさせられています。
昨年、この問題に取り組んで、実際の仕組みづくりにも取り掛かかっていたのですが、予想外のトラブルでストップしてしまいました。
もう一度取り組むだけの気力が出てくればいいのですが。
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