■節子への挽歌4600:どうも退屈で仕方がありません
節子
時評編に書きましたが、宇治の高林さんが戦時体験の後編を小冊子にしました。
もう一冊、書いているというので、今度のテーマは何かときたら、父上の記録だそうです。コロナ騒ぎのおかげで、認知症予防ゲームの指導などから解放され、時間ができたのでしょう。いい時間を過ごされているようです。
コロナ騒ぎで多くに人が在宅生活になっています。
在宅生活を楽しんでいる人もいれば、退屈している人もいるでしょう。
過去と現在と未来、という時間が深くつながっていることも、改めて今回実感できます。
いろんな人が声をかけてくれると喜んでいる友人がいます。
それはこれまでの生き方の結果です。
現在という時間は、過去がつくってくれるのです。
やっと時間が取れたので、やろうとしていたことの準備ができると喜んでいる友人がいます。未来の生き方が見えているので、突然与えられた時間の価値が生まれたわけです。未来もまた、現在という時間をつくってくれます。
過去と未来と現在がみんな深くつながっていることを実感すれば、生き方は変わっていくでしょう。
もし現在が退屈だとしたら、それはたぶん退屈な過去を生きてきたのであり、退屈な未来しか見えていないのでしょう。
そう思うのですが、この数日、どうも退屈です。
私の人生は思ったほど内容もなく、退屈だったようです。
自分ではそれなりに面白かったような気もしていたのですが、どうもそうではなかったようです。
まあそれもこれも、節子が途中でいなくなったからかもしれません。
あの時に、きっと私の人生は終わっていたのでしょう。
そう考えないと、この数日間の退屈さは理解できません。
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