■節子への挽歌4648:今日も朝から開墾作業
節子
今日も朝の畑作業、とても気持ちのいい朝でした。
昨日はがんばりすぎて、疲れ切ったので、今日はほどほどにしました。
50センチはある野草の茂みに入り、草刈りをしましたが、昨年、頑張って畑にしていたところなので、笹も刈り取りやすく、予想以上に作業は進みました。
そこでイチゴ畑の救出に取り組みました。
なんとか10株近くが復活しそうですが、新芽が伸びていないので、大きな実はなってはいません。そこで半坪程のイチゴ領地を確保し、新芽が伸びていけるようにしました。
そこで野草を抜いて、周りの笹を切りとり、四方に棒を立てました。
そういう作業をしながら、西部劇の牧場主が牧場の周りに柵をめぐらし、他者の侵入を防ぐ気持ちが少しわかりました。
映画では最初から立派な牧草地があって、ただそれを囲うだけのように思いますが、たぶん大きな努力によって牧草地は整地されたのです。
強欲な牧場主の気持ちも少し理解できる気がしました。
畑の開墾作業で面白いのは、こんなようないろんな想像が浮かんでくることです。
たとえば、今日、笹を刈り取ったところは昨年、篠笹と紫蘭から奪還して野菜を植えていたところです。半年以上放置していたためにまた元の木阿弥になってしまっていますが、中に入って刈り取り作業をすると明らかに昨年とは違うのです。
復活した篠笹はどこか弱々しく、簡単に刈り取れます。というか、見栄えは昨年よりもおおい繁った感じなのですが、根本はスカスカなのです。
一方、紫蘭は分散せずに一か所に集中する戦略をとっています。そして自らの周りに扱いやすいだろう野草を巻き込んでいる様子が感じられます。お互いに支え合うスタイルをとっています。
いずれも「見栄え」はいいのですが、実体は弱々しいのです。
もう一つは大きいミミズがたくさんいるということです。
畑にしたらきっといい畑になるでしょう。昨年春の努力の成果が出ています。
努力は必ず何かを生みだします。ただその成果を享受するのが努力者であるとは限らないのですが、お互いに支え合って生きている生物界、あるいは自然界で考えれば、当然のことなのでしょう。この話は地球温暖化問題をどう捉えるかにまで広がります。
ちなみに、50センチほどのやぶの中で作業していて、万一倒れたら発見が遅れるでしょう。その対策も考えておかなければいけないと改めて思いました。
昨年、我孫子で高齢者が畑作業で熱中症で亡くなったニュースがテレビで流れましたが、私ではないかと思った人が何人かいたことを後で知りました。
私もそのニュースを見たとき、自分ではないかと思ったほど、状況が似ていました。
注意しないといけません。
今日は昨日と違い適度なところで切り上げてきましたので、1日が有効に使えそうです。
暑い1日になりそうです。
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