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2020/06/13

■節子への挽歌4643:「どのように生きるか」という問い

節子

一昨日、関東も梅雨入り宣言がありました。
今日も梅雨空です。
これでしばらくまた畑に行けませんので、その先が心配です。
先日買ってきた野菜の苗もまだ植えていないのです。

昨日は久しぶりに満員電車に乗りました。
満員と言っても身体を押し合うほどの満員ではありませんが、まあ「満員」です。
以前と違うのは全員マスクをしていることです。

昨日は、相談があるとあるグループに呼び出されたのです。
私もずっと気になっていたグループなのですが、話を聞くとかなり心配な状況です。
コロナ騒ぎによって問題が顕在化したともいえますが、コロナが引き起こしているのは感染症ばかりではないのでしょう。
しかし話を聞いて、もしかしたら発想を転じたら、まさに禍いを転じて福と為すになるかもしれないという気がしました。

こういう事例は、いろんなところで起こっているのでしょう。
ただ当事者は、発想を変えられないので、禍の中に見える福が見えてこない。
事態をどうしても「禍」として受け止めてしまう。

あざなえる縄のような禍福を、どう生きていくかにこそ、生きる意味があるのかもしれません。
昨日書いた人類学者ティム・インゴルドの本の初めにこんな文章がありました。

私たちはどのように生きるべきか? おそらく、その問いを考えることこそが、私たちを人間にする。他の動物には、この問いは浮かばないだろう。

実は私も、この問いを意識したことはほとんどないのですが、それに続く文章になれば納得できます。

生きることとは、どのように生きるかを決めることであり、つまりどの瞬間にもいくつもの異なる方向へと枝を伸ばす潜在的な力をもっているのだが、(中略)私たちは生き方を絶えず即興的につくり出していかねばならない。

しかし私たちは、独りでではなくて、他の人たちとともに、そうする。縄の撚り糸のように、いくつもの生が絡まり合い、重なり合う。いくつもの生は、伸びては結ばれる交互のサイクルをともに繰り返しながら、互いに応じ合う。

こう書かれると、それはまさに私のこれまでの生き方そのままです。
もっともいまから考えれば、私の選んだ道、あるいは即興的に創りあげてきた人生は、あまり賢くはありませんでした。たぶん「どのように生きるか」という問いの意識が弱かったのです。

昨日、相談を受けた人たちの解決策は私には明らかで、実は2年前にもアドバイスしたことがあります。しかし当時はまだ事態がさほど深刻化していなかったので、アドバイスはアドバイスで終わってしまっていたのです。
今度はしかし動き出すでしょう。
良い方向に向かうことを祈るばかりです。

さて梅雨入りしました。
この状況も良い方向に持っていかなければいけません。

私の信条は、「現在が最高」「結果はいつも最高」と思うことです。
その心情を最近忘れていることに気づきました。
困ったものです。

コロナ騒ぎの蔓延も、鬱陶しい梅雨空も、次々やってくる難問も、みんな私の人生を豊かにしてくれる「福の神」なのだと気づかねばいけません。
なかなかそう思えない自分から抜け出ないといけません。

 

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