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2020/06/15

■湯島サロン「益田先生の『看子の日記』を話し合う」報告

益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)の小説『看子の日記』を話題にした、自由な談話形式サロンは10人のサロンになりました。

最初に各人から感想や関心事が出されました。
登場人物の名前も含めて、いろいろな仕掛けが込められている短編ですので、文芸作品としての議論もないわけではありませんでしたが、昨今の状況もあって、やはりみんなの関心は作品のテーマに向けられました。

みんなから出された関心を踏まえて、「比喩の誤謬」「自己・非自己」「アポトーシスとネクローシス」「自我と時間」「環境の捉え方」など、これまでの益田サロンでもよく話題になったテーマが、視点を変えて掘り下げられました。
益田さんは、質問に対しては一緒に考えながら話してくれるので、表層的な知識としての理解だけでなく、自分の問題とつなげながら考えられるのが魅力です。
専門的な切り口から入りながら、いつの間にか、なぜ人は孤独なのかとか、生きるとは我を忘れる事なのか、などというような具体的な話にまで広がっているのです。
もちろん最近の新型コロナウイルスに引き付けた話もありました。

益田さんは、人は「○○は××のようだ」という比喩を使いながら世界を広げているが、大切なのは、その××が借り物ではなく、自分が実際に触れたことであることが大切だと言います。サロンの参加者は、背景も立場もさまざまですので、同じ××でも、人によって大きく違うこともあります。だから時に行き違いもありますが、それがまた思考を深める契機になるのです。

今回は、「自己・非自己」の話が私にはとても面白かったです。
人の生誕に伴う「自己」の継承、あるいは「自己」の括り方、そこからアポトーシス(生命維持のための意図された細胞死)や毒性を持った破傷風菌が自らの生命を断って寄生生物を殺傷し仲間に潤沢な栄養を生みだし仲間の繁栄を図る破傷風菌の「自己」の捉え方、そこから個人や社会や国家のアイデンティティ(自己)の問題、さらには「自己」を超えた「関係性」の捉え方、など、話題は尽きません。

自我と時間の問題も面白かったです。
益田さんは、自我には現在しかないと言い切ります。
「我を忘れる」と「我に返る」という2つの言葉を出して、私たちはふだん、「我を忘れて生きている」が、「我に返って」自我になれば、現在という時間しかないというのです。

今回のサロンに初めて参加した大学院生が、そういえば、勉強は我を忘れないとやってられないというような話をしました。おそらく会社における仕事もそうかもしれません。
ということは、私たちはほとんどの時間を「我を忘れて」生きているのかもしれません。
改めて「自己」とは一体何なのか。

そこから「孤独の起源」の話になりました。
益田さんは、脳の発達が身体を孤独にしたと言います。身体は脳にとっての一次環境ですが、さらにその脳のなかに、「欲望」というものが成長しだすと、その脳が今度は欲望の環境になってしまい、…というように話が複雑になっていきます。
正確に伝える自信がないので、これに関してはまた別途益田サロンをやってもらおうと思いますが、最近のコロナ騒ぎもこうしたことに関連があるようです。

こんな感じでいろいろと示唆に富む話が多かったのですが、やはり3月頃に企画していたように、益田さんの書いた新書「病原体から見た人間」をテキストにした連続講義型病原体サロンやりたいと思いました。
病原体や感染症から見えてくることはたくさんありそうです。
『看子の日記』は副読本にして、参加者が書き込むスタイルはできないかと益田さんは考えているようです。

ちなみに、『看子の日記』には、いろいろなテーマや論点がちりばめられていますが、もし読みたい方がいたらご連絡ください。データで送らせてもらうようにします。

Kanko200607

 

 

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