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2020/06/19

■コロナ感染症の捉え方のあまりの差に驚いています

長い愚痴なので、よほどお暇な方のみお読みください。

新型コロナウイルス感染症に対する捉え方が、人によってこんなにも違うのかと、改めて最近驚いています。それは同時に、政府や専門家への信頼感がこんなにも強いのかという驚きでもあります。

たしかに私も1月から3月にかけてはかなり不安がありましたが、4月にはいろいろと実態も見えてきましたし、専門家の発言や政府・自治体の意図もかなり明らかになってきましたので、普通に注意していれば、感染する恐れは、インフルエンザほどにもないと思うようになりました。

4月初めまでは、基本的にみんなの生活は大きくは変わらず、満員電車もつづいていましたが、感染者はほとんど出ていませんし、いまでさえ抗体検査での陽性率は1%以下なのであれば、国内にはパンデミックいう事実もなかったわけですが、にもかかわらず、状況は過剰に増幅され、不安感というよりも恐怖感が植えつけられました。

そして、いまなお、マスクと「ソーシャルディスタンス」、さらには移動自粛や3密回避がルールになっています。公共施設も閉鎖され、外食文化は壊され、夜の街やパチンコは批判の的にされています。
緊急避難的な初期対応がこんなに長く続く理由を考えないといけません。

ウイルス陰謀論がありますが、ディープステイト論はともかく、この動きを利用したさまざまな「陰謀」があることは間違いありません。しかし、「荒唐無稽な陰謀論」という埋め込まれた知識で、陰謀と聞くだけで思考停止する友人も少なくありません。陰謀のない社会などあるはずもなく、陰謀論アレルギーこそが真の危険なのですが。

全国民あてのマスクと10万円でほとんどの国民が懐柔されてしまったのも驚きです。
そもそも給付金というのは「奉公人に支給する給金」(日本国語大辞典)という意味ですが、その名前にいやなものを感じます。1億円を超す給金をもらった河合夫婦と同じ仲間のような気分もしてきて暗い気持ちにもなりますが、受け取ってしまった私自身(実際にはまだ受け取ってはいませんが)、いまやもう奉公人であることを胸を張って否定できないのが残念です。

いまの外出自粛や集会自粛の風潮は、まさに国政に関心を持つな、選挙に行くな、デモはするなというお達しのように聞こえますが、私の周りでさえ、その信仰はゆるぎないもののように存在しているのにあらためて唖然としています。この状況が窮屈だという声も聞こえてきますが、自分で窮屈を甘んじているだけのことに気づいてはいないのがなおさらおそろしい。窮屈だったらとび出せばいいだけの話ですが、縛られていなくても飛び出せない状況にあるわけです。それこそが400年近く前に「自発的隷従論」を書いたラ・ボエシの「隷従」という意味でしょう。

まさにフーコーの生政治が、人間を滅ぼしてしまったようです。
少し考えれば、いまの状況がいかにおかしいかはわかると思いますが、私の友人の多くは、そういう私の方がおかしいと思っているかもしれません。孤独感に襲われます。

私は、自然免疫力こそが大切だと思っていて、コロナが大きく話題になりだした2月から、睡眠と体力維持につとめるとともに、大量のウイルスは避けるとしても、少量のウイルスにはむしろ接触するのがいいのではないかと考えてきました。感染してくるウイルス量と自然免疫力のバランスで、新型ウイルスに対する自然免疫力も高めていこうというわけです。

ですから、むしろ生活スタイルはできるだけ変えないようにしていましたが、なかなかそうもいかずに、3月中旬あたりから湯島のサロンをお願いしていた人たちも延期したいというので、湯島のサロンは私がホスト役のスタイルで毎週続けてきました。
ZOOM対応の希望もあったのですが、私にとっては本末転倒というよりも、むしろそういう流れに抗うのがサロンなのですが、それはなかなか分かってはもらえないようです。

多くの人が、感染防止というよりも、逃避を選んだのと違って、私はむしろ予防に努め、起床時のうがいや外出から帰宅した時の手洗い・うがい、十分の睡眠と栄養バランス、さらには朝型生活への移行に努めていました。
感覚的には、5月にはすでに自然感染して抗体も出来ているのではないかと考えていましたが、それはどうも楽観的過ぎたようで、まだ抗体はできていないようです。しかし、適度に外出し、人にも会っていますから、自然免疫力は高まっているのではないかと思っています。

しかしどうも多くの人はまだ、感染をおそれて、政府の指導に従っているようです。そのさなかに行われる都知事選は、明らかに現職が有利です。選挙で風を起こすのであれば、まずはコロナへの不安を捨て去るところから始めなければいけにかもしれません。

社会を維持していくために不可欠とされる仕事に取り組む人たちは、外出自粛もテレワークもできずに、きちんとした情報も与えられないまま、生きるために感染の危険をおかしながら、誠実に働いているように思います。自宅でのうのうとテレワークと称しながらテレビに出ているタレントやコメンテーターを見ていると、彼らの仕事がいかに無駄なものであるかがわかります。私は2か月ほど、録画までして、いろいろとみてきましたが、その間、コメンテーターがどう変化してきたかもよく伝わってきます。今はもう全くといっていいほど見ていませんが、彼らもまた田崎さんと同じ仲間になってしまっているように思います。テレビは人を変えていくようです。

何となく孤独感が強まって、愚痴をこぼしたくなったのですが、愚痴が長くなってしまいました。すみません。
自らもまた世間の風潮に合わせているところがあることも実感していますし、10万円の給付金も断ることなく申請してしまいましたが、この愚痴はそういう自分に対する批判なのです。愚痴の矛先は自分なのです。

自発的隷従から抜け出ないといけません。怠惰な私には隷従が楽なのですが、言行不一致ではお天道様に嫌われかねません。
さてさて困ったことです。

 

 

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