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2020年7月

2020/07/31

■地域通貨活動の映画づくりのためのクラウドファンディングへの応援のお願い

 湯島のサロンでは、時々、地域通貨が話題になりますが、19年前から長野県上田市で地域通貨活動に取り組んでいる「蚕都(さんと)くらぶ・ま~ゆ」というのがあります。
http://mayu.lolipop.jp/santo/

私は2005年に信濃大町で開催された地域通貨の集まりに参加した時に、そこで蚕都くらぶ・ま~ゆの前田光俊さんにお会いしました。
とてもしっかりした活動をされていましたが、その後、私は妻の病気などあって、交流が途絶えていました。

その前田さんから、久しぶりにメールが来ました。
蚕都くらぶ・ま~ゆでは、千葉大学大学院生と一緒に、これまでの活動を振り返りつつ未来を展望するドキュメンタリー映画の制作を始めたそうです。
タイトルは『もうひとつの明日へ』。
住民一人ひとりが持続可能な社会を創る主人公であることを発信していきたいと前田さんは考えています。
すでにホームページはできています。
https://mayudocumentary.wixsite.com/website

映画づくりのための資金はクラウドファンディングでいま集めているところだそうです。
https://motion-gallery.net/projects/ma-yu2020
ついては、ぜひ応援してほしいと言うのです。

私も以前、いくつかの地域通貨に関わりましたが、前田さんたちの「まーゆ」はとても地に足着いたいい活動でした。
ぜひ多くの人に応援していただきたくて、紹介させてもらいます。

よろしくお願いいたします。
湯島でもまた地域通貨のサロンも開催を企画しています。

 

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■節子への挽歌4710:ちょっと時間が速くなってしまいついていけません

節子

また私の時間感覚がおかしくなってきています。
時々起こるのですが、ちょっとずれてしまう。
そのためまたこの数日、挽歌が書けずにいました。

その間、ちょっと奇妙な感覚に陥ったことがあり、私自身死を体験できたと思ったりしていました。というよりも、あれ、もしかしたら自分は死んでいるのではないかとふと思ったのです。残念ながら確認しようがないのでとりあえずいまの状況を続けるつもりですが。

そんなわけで、この4日間は私には2日間でしかなかったような気がしています。
気がついたらもう31日。
と言っても、こんなことはシェアはできないでしょう。
私の心の内部でおこっただけの話です。

コロナ騒ぎには影響されないつもりでも、湯島に出かける機会は減ってしまいました。
在宅が多くなったためにどうも時間感覚を維持できなくなってしまっているのかもしれません。
やはり適度に外出し、適度に人に会い、適度に刺激を受けておかないと、人は生命のリズムが保てない。これは私だけではないでしょう。今回のコロナ騒ぎで、高齢者の寿命は短くなってしまうかもしれません。
最近の私は、ほとんど外部からの刺激がなくなってしまっています。これでは老化は加速されかねません。

ともかくこの3日間の時間の進み方は異常です。
その速さにつていけていないのです。
困ったものです。

 

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■湯島サロン「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」のご案内

今回はちょっと専門的なタイトルのサロンのご案内ですが、サロン参加者のみなさんにはわかってもらえると思いますが、いつものようにカジュアルなサロンです。

国際労働機関(ILO)は、世界の労働者の労働条件と生活水準の改善を目的に掲げて加盟国の労働問題を扱う国際機関として、1919年に創設されました。労働者および兵士による蜂起に起因するロシア革命が、ソヴィエト政権という新しい国家を生みだした2年後です(1922年に多民族国家からなるソ連邦が成立します)。ILOは、現存する最古の国際機関であり、かつ政府・労働者・使用者の三者の代表からなる唯一の国際機関です。

その後の世界の歴史において、今日にいたるまでILOは大きな役割を果たしてきていますが、私たちにはなかなか見えにくい組織です。しかし、労働時間短縮などを通して、私たちの生活に大きな影響を与えてきていることは事実です。

労働時間だけではありません。最近話題の「働き方改革」に関していえば、もっとまともな「働き方改革」をILOはすでに2009年に提唱しています。残念ながら日本では逆方向に進み、おかしな「働き方改革」になってしまっているのですが。また、近年のILOはハラスメント防止に向けた取り組みに力を入れていますが、その一方で日本の閣僚や与党政治家からは突拍子もない発言が相次いでいます。

グローバリゼーションが急速に広がり、移民問題が世界を揺さぶりだしているいま、改めてILOの役割は大きくなっているように思います。そう思っていた時に、サロンに参加してくださった小野坂さんが大学院でILOの歴史研究に取り組んでいることを知りました。

そこで小野坂さんに、「新型コロナウイルスの感染拡大をめぐる国際機関の役割」や「新型コロナ騒ぎが問題を可視化してくれた労働問題」といった、いま世界で起こっているホットな話題も含めて、ILOをテーマにした講座型サロンをお願いすることにしました。国際機関とは一体何なのかを考える切り口になればと考えています。

そのテーマを導くための歴史の説明はなじみのない話も多いですが、結局のところ、どういった切り口に到達したのか、という話には、現在の労働環境を考える大きな示唆が含まれています。その上で現在の問題について、いつものように自由に話し合いたいと思います。だれでも歓迎の、気楽なサロンですので気軽にご参加ください。
「働き方」「新型コロナ」「世界の動き」に関心のある方であれば、きっと面白かったと言ってもらえるサロンになると思います。

それに小野坂さん自身、ちょっと興味ある存在ですので。

〇日時:2020年8月23日(日曜日)午後3時~5時
*開始時間がいつもと違うのでご注意ください。
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」
〇話題提供者:小野坂元さん(東京大学大学院学生)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

 

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2020/07/29

■節子への挽歌4709:死は、人を幸せにもする

節子

節子の友人の友澤さんから暑中見舞いが届きました。
友澤さんも伴侶を亡くされ、いまは一人で倉敷にお住まいです。
節子よりも少しだけ年上ですが、お元気そうです。
コロナにお気をつけてと書かれていました。

節子が亡くなった後、友澤さんはご夫妻でわが家まで来てくださいました。
節子と友澤さんとの共通の友人が北九州市にお住まいで、なぜか私も節子と一緒に小倉の駅前でみんなでお会いしたこともあります。
私はいつも節子の後ろで小さくなっていましたが。
節子ががん宣告を受けた後、節子は友人たちに会う旅を始めましたが、私も付き合いました。

友人たちと会っている時の節子はいつも幸せそうでした。
その笑顔を見ている時は、私もとても幸せでした。
死は、人を幸せにもするのです。

節子がいなくなってからも、友澤さんはいつも年賀状や暑中見舞いを下さいますが、手紙が苦手の私はいつも失礼を重ねています。
節子は手紙好きでしたので、その後を継ぐのは大変です。
しかし、私のぶしつけさのおかげで、最近は手紙もあまり来なくなりました。
昔は私も手紙好きだったのですが、手紙が書けなくなったのはいつからでしょうか。

友澤さんは節子が亡くなった後、節子からもらった手紙を1通だけ私に送ってきてくれました。
そう言えば、友人に手紙を書いている時の節子も幸せそうでした。
いつもゆっくりと書いていました。
ワープロで長い手紙を事務的に打っている私には、そんなに早く事務的に書いてしまうのは手紙ではないと言っていました。

私が年賀状を1000枚以上出していたころ、節子は100枚くらいしか書いていなかったのですが、私も節子もたぶん同じくらいの時間をかけていました。
ちなみに私も、かならず宛先に応じた一言を手書きで書いていたのですが、節子は11枚をゆっくりと書き上げては読み直していました。そして私も知っている相手がいると、私にも一言書くように回してきました。
そういう風景が毎年の年末の風景でした。

その風景がなくなって以来、私は手紙を書かなくなりました。

 

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■湯島サロン「21歳の私が今考えていること」のご案内

コロナ騒ぎで延期になっていた大学生の安藤令奈さんのサロンを開催します。
「若者からのメッセージ」サロンです。

前回案内時には、教育の仕組みなどから「21歳の私が望む未来」を語ってもらう予定でしたが、延期していた半年の間に、安藤さんにもいろんなことがあって、タイトルは「共創の渦を興し、地域からよりよい社会へ 〜コミュニティについて考える〜」となりました。
コミュニティは、湯島のサロンの根底にあるテーマですが、若者視点からのコミュニティ論を話してもらい、議論できればと思っています。

安藤さんは、四国の西条市で育ち、いまは東京で暮らしている大学生です。
私から見れば、「今様」であって「今様」でない、新鮮な若者です。
そんな彼女に、自由に語ってもらい、その後、彼女の問いかけを中心に、自由に話し合いたいと思います。

サロンの前に、安藤さんからのメッセージを参加者にはデータでお届けする予定です。
したがって、参加される方はあらかじめお申し込みください。

コミュニティというテーマにこだわらず、今時の若者は何を考えているのかという野次馬的な参加も歓迎します。世代を超えた話し合いから、お互いにいろんな示唆が得られるのではないかと思っています。
お盆の真っ只中ですが、今年はコロナ騒ぎで帰郷もままならない人も多いと思いますので、もしお時間が許せば、ぜひご参加ください。

〇日時:2020年8月16日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「21歳の私が今考えていること」
〇話題提供者:安藤令奈さん(21歳の大学生)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2020/07/28

■節子への挽歌4708:すごい本を読んでしまいました

節子

すごい本を読んでしまいました。
昨年、晶文社から出版された「急に具合が悪くなる」です。
宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡が、その内容です。
磯野さんは、先日、朝日新聞のインタビュー記事で知った医療人類学に取り組んでいる人ですが、磯野さんのFBで、この本を知ったのです。

ともかくとんでもなくすごい本だと、私は思いました。
磯野さんが書き送った書簡の相手は、九鬼周造の研究者の宮野真生子さんです。

2人が知り合ったのはつい最近のこと、そして2019年の4月の下旬から書簡のやり取りが始まりました。しかし、それは長くはつづかず、宮野さんから磯野さんへの201971日付けの書簡で終わっています。なぜならその週の土曜日に宮野さんは病院に緊急搬入され、亡くなったのです。
知り合った(そういう表現は適切ではないかもしれません)時には、すでに宮野さんは癌が進行していて、ホスピス探しをしていたそうです。

往復書簡は2か月ちょっとの期間に10回行われていますが、とてもそんな短期間のものとは思えない内容です。しかも、明らかにそれぞれの考えや関係が大きく変化しているのもよく伝わってきます。この2か月の間に、2人はそれぞれ数年を生きているような気がします。日付を見なければ、読者はそう思うでしょう。

生きるということは、あるいは人と付き合うということは、こういうことなのかと、教えられました。
同時に、こんなに深く、人は邂逅できるものなのだと感激しました。
魂のふれあいとはこういうことを言うのでしょう。
読んだ後、ちょっと動けないほどでした。

そして思い出したのが、「がん患者学」の柳原和子さんです。
この挽歌でも書いたことがありますが、柳原さんもまたがん患者でした。
テレビで見た柳原さんの発言を、私のホームページで取り上げたのを読んだ柳原さんがメールをくださり、以来ささやかなメールのやり取りをしました。
当時私には余裕がなく、そのつながりを私は深めることができないうちに、柳原さんは亡くなりました。
ずっと心残りになっていますが、なぜあの時に会いに行かなかったのか。

またちょうど今、私は死に直面している友人と関わっています。
彼は幸いにいま退院できたのですが、「癌だと急に具合が悪くなってしまうことがあるので、気を許さないで」と言い続けてきました。毎日、電話で連絡は取るようにしていますが、それとも重なってしまってもいるのです。

それにしても、この本はすごいです。

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■第1回益田サロン「病原体から考える生物と環境の関係」報告

病原体やウイルスの話をベースにした細菌学者の益田昭吾さんの定期的なサロンが始まりました。
1回目は、「生物と環境」をテーマに、参加者の問いかけに応ずる形で、話し合いが行われました。

サロンは、どうして益田さんは細菌学を専攻したのかという、いかにも湯島サロン的な質問から始まりましたが、話が進むうちに、細菌、ウイルス、ファージ、宿主、抗体、免疫などという専門用語も増えてきて、ついていくのが大変でした。それでもどんな質問でも、繰り返しの質問でもいいという益田さんの誘いかけで、テーマの難しさとは裏腹に、とてもカジュアルなサロンになったような気がします。

テーマに関しては、あらゆる生物は、環境へのパラサイト(寄生体)であるという、まさに核心を突く話から始まりました。
問題は、生物と環境との関係性です。
そして、細菌やウイルスの「常在性」や「病原性」について、主にジフテリア菌を材料に詳しく解説してくれました。
もしかしたら、このことこそが、いま話題の新型コロナを考える時にもポイントのひとつかもしれません。

基本的な話につなげながら、最近の新型コロナウイルス感染症の話もでました。
ウイルスや免疫などに関する基礎的な知識があるかどうかで、コロナ騒ぎにもただ不安を感ずるだけではなく、対処法を考えるヒントが得られます。
いつも益田さんのサロンを聞いていて思うのは、そのことです。言葉や数や現象におびえるだけでは、自分で対策を考えることもできません。

最後に、参加者から、いまの新型コロナウイルスにどう付き合ったらいいかという質問がありました。
益田さんの回答は、万一感染しても症状を起こさないようにすることが大切だというものでした。そして、そのためには、自分と環境との流れに注意することだと言われました。自然の流れを阻害する「異物」があると症状が起こってしまう。ただし、その「異物」とは何かはいまはまだわからない。

それに加えて、益田さんは新型コロナウイルスが常在性の方向に向かっていく可能性にも言及しました。もしそうなれば、このウイルスとの付き合い方も変えていかねばいけません。

新しい知見が次々と出てきていますので、新型コロナウイルスへの付き合い方も変えていかなくてはいけません。そのためにも、感染者数の増減だけに振り回されずに、ウイルスのことをもっと理解しなければいけないといつもながらに思いました。
私は益田さんのサロンに毎回参加させてもらっているおかげで、新型コロナウイルスにはむしろ親近感を強めています。

ちなみに、サロンでは、いまの経済のおかしさや人間の欲望の話、生命体の持つバランス維持機能(ホメオスタシス)、さらには人類のミューテーション(変異)というような話もちょっぴり出ました。
サロンをやると、次々と新しいテーマが出てきます。

2回目の益田サロンは「母性と父性」はどうかという提案も益田さんからありましたが、いずれにしても基軸には細菌学や病原体をベースにしながら、同時に今問題になっている新型コロナとの付き合い方を考えるサロンとして、1か月おきくらいに開始していく予定です。
こんな切り口での話を聞きたいという方がいたら、ご連絡ください。
益田さんと相談させてもらうようにします。

Masuda2007

 

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2020/07/27

■節子への挽歌4707:久しぶりに心にしみ込むようなやさしい風を感じています

節子

久しぶりに、春の風に触れているような気がします。
あまり元気がですに、リビングのソファーで半分寝ながらテレビを聞いていたのですが、それではいけないと思い、2階の倉庫のようになっている仕事部屋に来て、パソコンをチェックしていました。
頭がやけに重く、思考力があまりないので、メールを読んだり返信したりしていたのですが、開けておいた窓から、実にやさしい風が入ってくるのです。

さほど変わった風でもないのですが、なにか妙に心を解きほぐすような快さがあるのです。
こんな風は久しぶりだなと思ってしまっていました。
同時に、強い睡魔も襲ってきましたが、このまま眠ってしまうのがもったいなくて、なにかしたい気分が起こってきました。
そう言えば、2階の窓のところに毎年植えていた朝顔を今年は植えていませんでした。
庭に広がっている朝顔を持ってこようかと思います。

人は、あたたかな風で十分に幸せになるものです。
眠いですが、ちょっと動き出してみようと思います。
動けば元気が戻ってくるでしょう。

相変わらず、気の晴れないことが私を覆っているのですが。

 

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■節子への挽歌4706:かき氷が届きました

節子

昨日は疲れて早く寝たのですが、やはり深夜に目が覚めて、また眠れなくなりました。
最近は睡眠不足で、どうもすっきりしません。
特にやらなければならないことはないのだから、と思うのですが、外が明るくなるとつい起きてしまう。
頭が重くて、そのまま横になっていたい気持ちもありますが、むかしからそれができないのです。
いろんな世界が見えてきてしまう。
困ったものです。

昨日、サロンが終わりみんなが帰った後、少しだけ残って、退院した友人に様子をたしかめようと電話しました。やはり電話に出ない。諦めて帰路につきました。
58段の急な石段を降りたところで、電話がかかってきました。
友人かなと思ったら、そうではなく、サロンに参加していたMさんからでした。
氷イチゴを持っていくので、まだ帰らずにいてください、というのです。
湯島のオフィスの近くの三組坂上に最近できた「かき氷屋さん」が今日は行列していなかったので、寄ったついでに、私へのプレゼントで持っていくと言うのです。

へとへとでしたが、また58段の急な石段を上り、オフィスに戻りました。
少し待っていると、Mさんが見事なかき氷を届けてくれました。
一緒に食べるのかなと思ったら、私だけで食べて元気になって、と言って、届け終わったら帰ってしまいました。

ちょっと拍子抜けしましたが、食べようと思ってスプーンを入れたら、電話していた友人から折り返しの電話がありました。
携帯電話がベッドの下に落ちてしまい、それをとるのが大変だったというのです。
58段の急な石段を往復している間、彼は苦労して携帯電話を探していた。
その間、Mさんは、他人のためにかき氷を頼んで並んでいた。

3人とも、小学校時代の同級生なのです。
人生は実に様々です。

友人との電話は長電話でしたが、目の前のかき氷は溶けません。
時々、事務所に来る途中で、このかき氷を持ち運んでいる人に会うことがあるのですが、出前用のかき氷は溶けにくいのかもしれません。
私の経済感覚では、かき氷に1000円をかけるのはなじめないので、何となく罪の意識を持ちながら食べました。そのせいか、あんまりおいしくありませんでした。Mさんにはどういえばいいか悩みます。

しかし、どうしてこういう「かき氷」が行列ができるほどはやるのでしょうか。
そういうこと自体が、私には納得できないでいます。
美味しくはありませんでしたが、わざわざ届けてくれたMさんには感謝です。
彼女は、私がいま、ほとほと疲れているのを知っているのです。

最近、疲労がたまっているのを感じています。
疲労を癒すのは、ただ休めばいいわけではありません。
どうしたらいいか、それを考えるのもつかれます。
まあ成行きに任せるしかない。

疲労困憊のやる気の出ない1日が始まりました。

Kakigoori

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2020/07/26

■節子への挽歌4705:言葉と心身は同じであって、同じではない

節子

衝撃的な事件が起こりました。
ALS患者の51歳の女性が医師によって「安楽死」させられたのです。
時評編に書きましたが、この事件に関して、同じALS患者の方が、新聞社にこうメールしてきたそうです。

誤解して欲しくないのは、
彼女の意思表明は、生きたいと思ったからこそのものであること、
そして事実生きていたということです。

私も報道に接した時に最初に思ったのはこのことでした。
言葉と心身は同じであって、同じではないのです。

節子も一度だけ、もう終わりにしたいと言ったことがあります。
しっかりしたつながりがある人であれば、その言葉の意味をきちんと受け止められるでしょう。
しかし、闘病の辛さだけを見た人は、言葉でしか受け止められないかもしれません。

「安楽死」という言葉そのものが、誤解を与えますが、
そもそも生きるとか死ぬとかは、そして生きるということそのものが安楽ではないのです。

報道に接して以来、この事件が頭から離れません。
昨夜は4時に目が覚めてしまいました。
今日は寝不足で、つらい1日になりそうです。

 

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■ALS患者の言葉に深く耳を傾けたい

昨夜は4時に目が覚めてしまいました。
そして、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が薬物を投与されて殺害されたとされる事件のことが浮かんできて、もう眠られなくなってしまいました。
私には、実に簡単な事件のように思いますが(「殺人事件」です)、なぜかテレビの報道に接して以来、頭から離れません。

今朝、朝日新聞のトップにALS患者の増田さんのメールが紹介されていました。
何度も読み返しました。
そして、林優里さんのご冥福を祈りました。

増田さんのメッセージをぜひ皆さんにも読んでいただきたいです。
私が、一番共感したのは、次の文章です。

誤解して欲しくないのは、彼女の意思表明は、
生きたいと思ったからこそのものであること、
そして事実生きていたということです。

書きたいことは山のようにあります。
できれば湯島のサロンでも取り上げたいと思います。
でも今はまだその元気がでません。

ともかく、多くの人に増田さんのメールを読んでもらい、考えてもらいたいです。
退屈な「言葉」の問題にはしないでほしいですが。

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2020/07/25

■生活者としての目覚め

最近のマスク顔だらけの風景を見ていると、ヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」に登場する青果店の店主のことを思い出してしまいます。

共産党支配下のチェコで、「全世界の労働者よ、一つになれ!」という党のスローガンを店先に貼っていた店主のことです。彼は、別に主張があったわけではなく、そうしないと目立つからという理由で、スローガンを貼ったのですが、その行為こそが、社会の「ゲーム」を生みだし、ゲームのプレイヤーとなり、ゲームの継続を可能にし、つまりゲームを本物にした、とハヴェルは言います。
社会を成り立たせているのは、安倍首相のような権力者ではなく、そうした青果店の店主たちだとハヴェルは言います。

ハヴェルは、体制を変えるのは、野党や「反体制知識人」ではなく、そうした店主たちが、真実の生に目覚めて、スローガンを貼るのをやめれば、それで社会は変わっていく、いやそれ以外では変わらないと書いています。
実際に東欧は、そうして、「自発的の全体主義」から抜け出したのです。

与えられた「嘘の生」から抜けて、自らの尊厳を思い出して、「自らの生」を自由に生きる「生活者」になる。何も考えずに従うのではなく、おかしいと思ったら、自分で考えて行動する。裸の王様を見たら、「王様は裸だ!」と言えばいい。そうした人たちが、社会を変えたのです。
日本人は同調圧力に弱いなどと物知り顔に解説するのではなく、あるいは政府をこきおろすのではなく、自分はどうしたいのかを考えて、自分を生きればいい。

Go-Toトラベルがいいとか悪いとか東京都と国の政策が違うとか、そんなことはどうでもいい話で、大切なのには自分がしっかり考えて行動することです。そうすれば、新型コロナも、たくさんあるリスクのひとつでしかないことに気づくでしょう。マスクも、必要だと思う時にするようになるでしょう。

私には、いまの日本人は、北朝鮮の国民と同じように思えてなりません。
いやハヴェルが「力なき者たちの力」を書いた時代のソ連統治下のチェコと同じ。
だから、ハヴェルの書いた「力なき者たちの力」(人文書院 2200円)を多くの人たちに読んでほしいと思います。

チェコを民主化し、大統領になったハヴェルは、こう書いています。

政治的な力は、体制の変化を行なう点にあるのではなく、「ここと今」という、より良い生を賭けた日々の現実の戦いの中にある。

そして、ハヴェルはその戦いを実現したのです。
政治は国会議事堂や政党の中にあるのではありません。
いまだに「野党統一戦線」とか言っているようでは、何も変わりません。

立派なイデオロギーやビジョンよりも、いまここで直面している問題に誠実に直面して、自分で考え自分で納得した行動をとればいい。それこそが、「下からのイニシアティブ」が生まれてくる起点です。政治は「生活」から始まり、生活で終わるのです。
山本太郎さんは、そういう政治を目指しているように、私には思えます。
だから、日本の政治状況を変える唯一の希望に思えるのです。

私は「生活者」という言葉は、誰にでも通ずる言葉だと思って、説明も付けずに使っていましたが、複数の人たちから「生活者」ってなんだと質問されました。
どうも「生活者」という言葉は、まだなじみにくい言葉のようです。
消費者や労働者、生産者という言葉は、説明なしで通ずるのに不思議です。

それで81日に「生活の視点で政治や経済を考えるサロン」を開くことにしました。
私が考える生活者とは、自分の生活を大事に生きている人という程度のことなのですが、ハヴェルが言う、「真実の生」を求める「ディシデント」につながるところがあります。
もっとわかりやすく言うと、財務省の赤木さんの奥さんのような人です。

よかったらサロンにご参加ください。

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■節子への挽歌4704:彼岸なのにお墓になかなか行けません

節子

お彼岸なのですが、なかなかお墓に行けません。
困ったものですが、家の位牌にユリとメロンを供えました。
メロンは節子の郷里の高月から届いたものです。
ユリは、庭で咲いたカサブランカを供えたかったのですが、タイミングが外れてしまい、花屋さんで買ってきました。

退院した独り暮らしの友人に電話したほうがいいよと娘から言われました。
連休の間は医師も看護師も来てくれないかもしれないからです。
娘も自分が入院して、そういう気遣いができるようになったのかもしれません。
人は自分で体験しないと、なかなか痛みはわからないものです。

電話をしたら、今ちょうど、医師が来ているということでした。
医師や看護師は休日もなく、働いている。
生命にはカレンダーは無縁ですから、当然と言えば当然ですが。
まあ元気そうでした。
娘も退院後、リハビリで家の中を歩いていますが、まあ今のところ問題なしです。

友人から、医師が帰ったと電話がかかってきました。
今日は特別に来てくれたようです。
癌という病気は、突然に体調を急変することがあるから、できることはやっておくようにと言われたそうです。
そういわれても独り身なので、そう簡単にはできません。
やはり一度また行ったほうがよさそうです。

改めてインフォームド・コンセントの難しさも感じました。
医師の話と友人の話とが、まったく食い違っていたのは、いずれかが嘘を言っているわけではないでしょう。
そう思えるようになってきました。

 

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2020/07/24

■節子への挽歌4703:信頼できる友が一挙に大勢いなくなった気分

節子

本は読み終えましたが、畑には行きそびれました。
今度は児童虐待と離婚の相談ですが、コロナ騒ぎはいろんな問題を可視化してきているようです。

ところで相変わらずコロナ感染者は増えています。
そのせいか、相変わらずテレビは新型コロナ話題で持ちきりです。
日本の国民は、ほぼみんな主体的に考えることをしなくなり、消費者や労働者として、金銭経済の末端部品になってしまったようです。
生活がなくなったと言ってもいいでしょう。
久しぶりに電話をすると、コロナが心配であまり出かねないようにしているという人が多いのです。
今日も節子の滋賀の生家に電話しましたが、コロナが心配で家にいると言っていました。

しかし、その一方で補助金が出ると言って旅行を勧める政府の呼びかけで、旅行に出かける人もいます。
コロナへの不安よりも、どうも金銭が優先する人も増えているようです。
相変わらず補助金をもらう勧めも盛んです。

多くの人はもう権力者の言うがままになってしまったような感があります。
こんな社会でどう生きたらいいのでしょうか。
困ったものです。

そんな状況の中で、「力なき者たちの力」を読みました。
出来ることをやらないといけないと思いなおしました。
その本に、こんな文書が出ていました。

理論的な概念を具体的な人間の生活よりも上に見ている人たちには、人間の新たな隷属化という潜在的な危険性がある。

昨今の「反体制派」の「知識人」は、まさにそういう状況に陥っているような気がしました。
それが最近の私の一番の落ち込みの原因かもしれません。
信頼できる友が一挙に大勢いなくなった。
いやそれよりも、私もまた同じように、私でなくなってきているのかもしれません。

 

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■節子への挽歌4702:「力なき者たちの力」

節子

先日、湯島で「ただのおばさん」と自称する人のサロンをやりました。
娘の入院や友人の退院などでバタバタしていて、その報告が書けないでいたのですが、書けないおかげで、いろいろと考えていました。そのため、報告は実際の話し合いではないようなものになってしまいましたが(時評編に投稿しています)、改めてヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」が気になりだしました。

昨年翻訳出版された同書を私は今年初めのテレビの「100分で名著」で知ったのですが、まだ読んでいなかったのです。
それで図書館から借りてきて、読んでみました。
心が震えるほどに共感しました。
まだ読了はしていませんが、私の生き方が元気づけられたような勝手な受け止め方をしてしまいそうです。

私の人生は、「自分を生きる」ことを基軸にしてきています。
実に不確かで、迷いっぱなしですが、それでも一生懸命に自分にとっての「真実の生」「独立した生」をめざし、誰かに押し付けられた「嘘の生」や「依存した生」に陥らないようにしてきました。
そうした生を続けられたのは、節子のおかげかもしれません。
誰と人生を共にするか、あるいは、誰と人生を共にしないのか、で、人の人生は決まるのかもしれません。

今朝は太陽が出ています。
昨日の予報では雨だったような気もしますが、今日は畑に行けるかもしれません。
鳥のさえずりがにぎやかです。
「力なき者たちの力」を読んでよかったです。

しかし、本というのは、読むときの自分の状況で、印象が変わってくるものです。
実は、本に書かれていることを読んでいるのではなく、それを通して、その時の自分を読んでいるのかもしれません。
「力なき者たちの力」を読了したら、今度は畑に行って、自然を通して、もう一つの自分に会ってこようと思います。

 

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2020/07/23

■節子編挽歌4701:独り暮らしは6日で終わりました

 

節子

ユカが退院してきました。
診察検査は2週間後です。

今日もなかなか退院の許可が出ずに、病院でまた待つことになりましたが、病院はや針さまざまな人生があふれています。
いまはコロナ騒ぎで面会はできずに、1階のエントランスホールで退院患者の迎えや入院中の家族に頼まれた荷物を持ってきた人たちが数名いましたが、その言葉の端々から、さまざまなドラマが感じられます。

休日だったので、会計は緊急入院の入り口で済ませましたが、ここは何回も通ったところです。
母親の入院や節子の入院もありましたが、何よりも私自身が2回もお世話になったことがありますし、娘たちもお世話になりました。
そう思えば、わが家は慈恵医大にはお世話になりっぱなしです。
いつもと違い、今日は病院の内部から緊急入院入口に行ったので、緊急処置室などもよく見えました。
いろんなことが頭に浮かびました。

ユカは術後の養生に注意するようにと言われています。
念のために私も明日・明後日は在宅することにしました。
退院した友人もまあ今週は大丈夫でしょう。
独り生活は6日で終わりました。

しかし、つくづく私には独り暮らしは向いていないことがわかりました。
節子が心配していたわけです。

 

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■湯島サロン「コロナ騒ぎで考えたこと-「ただのおばさん」のメッセージ」報告

「コロナ騒ぎで考えたこと」シリーズの第2弾は、「ただのおばさん」編でした。
ちょっと私自身の生活事情から報告がすっかり遅くなってしまいました。

今回の話題提供者は、湯島のサロンでも時々お茶を点ててくださる井田里美さんです。
井田さんは、コロナ騒ぎの前から茶の湯を通して、社会との関わりを深めてきていますが、その過程で、さまざまな問題にぶつかり、それがきっかけで私との接点ができました。

「ただのおばさん」と自称していますが、生活の視点で社会と関わりを深めると、両者のずれに気づいてしまうという典型的な事例と言えるかもしれませんが、そこで「まあ社会とはこんなものか」と納得してしまうことのないのが、「ただのおばさん」のすごいところです。
話は全く違いますが、いま話題になっている財務省の赤木俊夫さんと雅子さんの違いをつい思い出してしまいます。

私は、この社会を変えていくのは、そうした「生活者」としてしっかりと生きている人たちではないかと思っていますが、残念ながら社会と生活の対話は、極めて難しいのが難点です。

サロンの報告が、おかしな方向になってしまいましたが、サロンでは、井田さんがコロナ騒ぎに惑わされずに生き方を大きくは変えずに済んだのは、「生活の杖」として「茶の湯」があったからだと言います。そのおかげで、社会の変化もよく見えたようです。
生活をするとは単に生きていることではなく、しっかりした自分と付き合うことなのだろうと思います、なにしろ何があっても結局は自分で責任をとらなければいけませんから、組織(社会)に身を任せていれば安心な生き方とは全く違います。
みんなどうしてこんなにも社会の風潮に自分を合わせていけるのかが、時に話題になりますが、もしかしたら「自分の生活」よりも「社会の一員」であることが行動の判断基準になっているからかもしれません。

サロンでは、茶の湯や利休に関心のある人もいて、話はともするとそちらに行きがちでしたが、生活と重なる形で生業的な事業に取り組んでいる人も複数参加していましたので、その視点からの話も出ました。
そういう人たちの視点から見ても、やはりコロナ騒ぎはいささか奇妙に見えているようです。

いろんな話題が出ましたが、井田さんとしては、茶道具を持って、いろんなところに出かけて行って、茶の湯を楽しみながら、自らの生き方や社会のあり方を話し合う場をつくっていきたいと思っているようです。
湯島でも改めて、井田さんの茶の湯の会を企画したいと思っています。

報告になっていない報告ですみません。

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2020/07/22

■節子への挽歌4700:思考力が少し戻ってきたような気がします

節子

昨日は入院している娘も退院した友人も、電話やメールが夕方まで通じませんでした。
それでちょっと、いやかなり心配していましたが、いずれも元気でした。
娘はずっと動けず、友人はどうも寝込んでしまっていたようです。

私自身が少し過敏になってしまっているようです。
困ったものです。
もう少しゆったりとしなければいけません。

もっとも生活自体は、ゆったりどころか弛緩しきっています。
昨日は食事も入浴もしましたが、一人だと何もしなくても過ごせます。
独り住まいで自分を律するのは大変なことです。
独り住まいしている友人たちに、改めて敬意を表したいです。
私にはあんまりできそうもない。

湯島のサロンで、また病原体のサロンをやるので、昔読んだ、多田富雄さんの「免疫・「自己」と「非自己」の科学」という本を読み直しました。
読みながら、「自己」と「非自己」と二元論で考えるのが間違っているのではないかという気がしてきました。

会社時代に、「自己」と「非自己」も意識しながら、会社のアイデンティティのプロジェクトに取り組んでいる時に、並行してずっと気になっていた言葉が「寛容」でした。
後輩と大阪の喫茶店で、「寛容」について議論したことがいつもどこかに引っかかっているのですが、ようやく、「自己・非自己」と「寛容」が結びついた感じです。
それはまた「越境」という、もう一つの関心事にもつながりそうです。

思考力が少し戻ってきたような気がします。
いらだちも少しおさまってきました。
今日は動けそうです。

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2020/07/21

■「隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性」の可視化を目指す本の紹介

濱中都己さんの「世にも恐ろしい損保犯罪の話」(平成出版 1300円)をご紹介します。

本書の出発点になった事件に関しては、私も濱中さんからお話をお聞きしながら、お役にたてていない反省があるのですが、湯島のサロンで改めて取り上げたいと思っています。

まずは出版社による本書の紹介文をお読みください。

本書は、日本のエリン・ブロコビッチとも言える、著者の執念の賜物です。 日本では、すでに既得権のある大企業、とりわけ損保業界に、はむかう人はいません。 母親の交通事故をきっかけに、国民健康保険を利用する形で交通事故の補償をするのはおかしいのではないかと著者が主張すると、不当逮捕・冤罪被害となってしまいました。しかも恫喝も続きます。 本書を読んで、不当な立場におかれている「弱者」について、ぜひ考えていただきたいです。

エリン・ブロコビッチ。
ジュリア・ロバーツ主演の映画「エリン・ブロコビッチ」を観た人も少なくないでしょう。
私も数回見ましたが、そう言われてみると、たしかに著者の濱中さんにはそういう雰囲気があります。偶然に出合ってしまった問題を掘り下げていくうちに、利権構造で固められ、不労所得に覆われている日本の社会にぶつかってしまい、どんどんと深のめりしている濱中さんには、むしろエリン・ブロコビッチ以上のパワーを感じます。

本書には、その濱中さんが、突然の母親の交通事故から、国民健康保険をむしばむ巨大損保会社の犯罪に巻き込まれ、怒りを強めていく過程が克明に描かれています。そうした「生活者」の怒りの対象はどんどん広がり、そして金融省までも含む既得権益による「社会的犯罪」に挑むことになっていくという、生活と深くかかわった告発の書です。

そこで示唆されているのは、単に損保業界の話にとどまりません。
たとえば、本書では特別民間法人の話が出てきますが、そこに現在の日本社会の本質が垣間見えています。すべて利権に絡め取られ、労働と収入は全く無縁になっているとさえ思いたくなる日本の経済社会の実相が、です。

しかし、ほとんどの人がそうした仕組みに組み込まれているために、おかしなことを「おかしい」とさえいえなくなっている。その仕組みを変えないといけないと、濱中さんは立ち上がっているわけです。まさに、物知り顔で事実を見過ごす人たちとは違う、「生活者」ならではの行動です。
そうした行動の結果、濱中さん自身が、「恫喝訴訟」とも言われる、威嚇目的のスラップ訴訟の対象にされるのですが、そこから日本の司法界の問題も見えてきます。
国民が安心して暮らせて行いけるための、せっかくの「保険」や「司法」という社会の仕組みが、それらの目的とは全く真反対の運用がされている現実も垣間見えてきます。

濱中さんは、単に問題提起しているだけではありません。身体をはって行動しています。たとえば、交通事故損保犯罪対策委員会を立ち上げたり、「反スラップ法制定」の請願活動を呼びかけたりしています。

本書の「あとがき」の一文を紹介します。

いままで国民の目から巧妙に隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性を可視化し、行政立法の内容等を行政訴訟の対象とすることによって不適切性や違法性を早期に是正することは国民の権利義務の正当性実現と救済にとっても極めて大きな意義を有します。

「隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性」の可視化。
濱中さんの活動がそのきっかけの一つになればと思い、私に何ができるかを考えていますが、まずは本書の紹介から始めることにしました。
濱中さんに頼んで湯島のサロンも開催したいと思っています。
またご案内させてもらいます。

 

 

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■節子への挽歌4699:一人で目覚めている人は決して少なくない

節子

前の挽歌を書いてアップした後、テレビ体操をしました。
そして一人の朝食をすませました。
娘がつくる青汁バナナジュース以外は、いつもと同じ朝食です。
久しぶりの一人の朝食をしながら、気づきました。
一人で目覚めている人は決して少なくないのだ、と。

昨日、退院した友人は今朝自宅で一人で目覚めるでしょう。
入院している娘は病院で一人。
友人の帰宅を手伝いに行ってくれた友人もひとり住まい。
その姉もひとりのはずです。
独り住まいの人はほかにもいます。

みんな、毎朝、ひとりで朝食です。
そんなことは考えたことがありませんでしたが、一人で目覚めている人は決して少なくないのです。

今日で3日間、私は一人でしたが、時々、娘がいるような気がしていました。
節子がいなくなって13年もたつ今も、どこかに節子がいるような気がしています。
一人という感覚が私にはあまりないのです。
いつも誰かといる、それが私の生き方でしたから。
しかし改めて考えてみると、独り住まいの人は決して少なくありません。

四国遍路の巡礼では「同行二人」と言われます。
いつも弘法大使と同行しているわけです。
いつも一人ではない、それこそが信仰かもしれません。
そういう意味では、私もまたいつも一人ではないのかもしれません。

そして、今朝もひとりで目覚めたと思った友人や娘も、たぶん一人ではないのでしょう。
でもみんな、一人で目覚めている。
そして、時に不安になる。

だからこそ、一人ではないことをもっとみんなが感じられる社会を目指していく意味がある。
モチベーションが下がっていたサロンへのモチベーションがまた少し回復しそうです。

 

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■節子への挽歌4698:4:44

節子

昨日は疲れて、夕食を何とか食べたものの、その後、入浴もせずに寝てしまいました。
そのおかげで早く目が覚めてしまい、テレビをつけたら、4時44分。
画面の左上に、4:44と表示されていました。

デジタル時計も寝ているところから見える場所に置いていますが、目が覚めるとよくその数字を見るのですが、占いではないのですが、一時期、その数字にはまっていたことがあります。
というのも、一時、よく「5:30」が多かったからです。
私の誕生日を表す数字ですが、何回かその数字に目が覚めることがつづいたのです。
それで目覚めの時計占いを気にするようになった時期があります。

最近、ベッドの位置を変えたので、そのデジタル時計が見えにくくなっています。
それにわが家の時計は、どれもこれも正確ではありません。
10分以上、進んだり遅れたりすると時間合わせをしますが、10分以内の誤差はむしろ歓迎しています。これは湯島の時計も同じです。時間とは、それくらいの感覚で付き合うことにしているのです。

4:44。
なんだか今朝は目醒めが悪い。
そのまま、しばらくテレビを見ていましたが、起きることにしました。

パソコンはいつでもつながっているので、メールチェックしたら、友人が無事帰宅したという連絡が入っていました。
娘からはまだ連絡なしでしたが。

同じ数字を見ても、その解釈はその時の気分でまったく違うものです。
しかし、今日は「4:44」であってほしくはありませんでした。
反転させなくてはいけません。

運気は、自分で呼び込むことはよくわかっているのですが、気が萎えていると、なかなかそれも難しい。
今朝は曇り空ですが、晴れてほしいです。

 

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2020/07/20

■医療関係者のストライキのメッセージをきちんと受け止めたい

今日は娘の手術の立ち会いで、大学病院で半日過ごしました。
手術は2時間でしたが、その前後、併せて5時間以上、病院にいました。

いろんなことが見えてきます。
コロナ騒ぎで、病院は大きな負担を強いられているのがよくわかります。
しかし、看護師もスタッフも、もちろん医師も、非常に誠実です。
医師は昼食を食べる暇なく、仕事をしているようです。
さすがにナースステーションは昼食時少し人数が減っていましたが、患者担当の人は昼食もなく頑張っていました。私も昼食を食べずに待合室にいたので、それが実感できました。

そのうえ、みんなとても気遣い合う姿勢が強く、看護師だけでなく、たとえばストレッチャーを運ぶスタッフや待合室の掃除に来る人など、みんな実に親切です。
エレベーター内では声をかけないようにと掲示が出ていましたので、私も声掛けは最小限にしましたが、それなりに声をかけてもらえましたし、それなりに声をかけさせてもらいました。もっとも、みんな私よりも疲れているはずなので。私にはお礼を言うしかできませんでしたが。

帰宅してテレビを見ていたら、病院の看護師のストライキが報道されていました。
コロナ騒ぎで病院が収益悪化し、ボーナスが削減されたりしているようです。
これを見て唖然としました。

たぶん金銭的な問題ではないでしょう。
医療関係者への評価や、もしかしたら私たち患者や患者家族の姿勢が問題なのかもしれません。社会の目も、問題かもしれません。
もし本当に新型コロナが心配なのであれば、そして医療崩壊を本当に心配するのであれば、病院の経営収益の問題などにしてはいけないはずです。

コロナ対策特別税として、全国民が毎月一定額を負担するようにしたらどうでしょうか。
経済が回らなくては困るとみんないいますが、病院はどうなのか。
昨今のバブルに近いような消費の報道には、私は違和感があります。
まずは医療関係者に温泉に行って休んでもらいたい気分です。

病院のスタッフ業務には、資格がなくてもできる活動も少なくありません。
そういう活動をするボランティアを受け入れるのもいいでしょう。
私にも入り口で体温を計ったり、消毒をしてもらうようなことなら、週10時間くらいであれば、引き受けられそうです。

ニュースで医療関係者のストライキが、ボーナスとの関係で報道されているのに、やりきれない気がします。
報道関係者はもう少ししっかりと現実を見てほしいです。
そこまで報道はお金に毒されてしまっているのでしょうか。

今日、お世話になった慈恵医大柏病院の守衛さんをはじめとした、すべてのみなさんに感謝します。

 

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■節子への挽歌4697:だれも死からは免れることはできない

節子

今日は朝の7時半から午後1時近くまで病院で過ごしました。
ユカの手術でした。
無事、終わりましたが、さすがに疲れました。
最近はまた病院と縁が増えてきました。

待合室では、ほぼ私だけでしたが、時々、誰かがやってきて、電話したりしていましたが、11時ころに姉妹2人がやってきて、ながく話し込んでいました。
妹さんがどうも午後、手術のようです。
ユカの後の手術かもしれません。
明るく話していましたが、かなり深刻な内容でした。
妹さんはまだ独身のようです。
しかも姉の方も、もしかしたら同じ病気の疑いがあるのかもしれないような口調でした。
今日手術予定の妹さんの方が、時々、「怖い」という言葉を出していました。
まだ最終的な診断が出ていないようです。
宮沢賢治の「雨にも負けずの一節を思いだしましたが、さすがに声はかけられませんでした。

終わったら温泉に行こうという話も聞こえてきましたが、コロナだからだめかもしれないとも聞こえてきました。
2人にとっては、しかし、コロナなどはさほど問題ではないでしょう。
もっと身近な具体的な不安があるからです。

持っていった本も最初の2時間で読み終えてしまったんで、後半は退屈していました。
途中で、病院内の見学を試みましたが、コロナの関係でほとんどが入れません。
それで待合室でほとんど過ごしていましたが、いろいろと考えることが多かったです。
とりわけ思ったのは、やはり「生きること」のはかなさともろさです。

今日はまた、入院していた友人の退院日です。
私の同級生姉妹が行ってくれていますが、どうなっているでしょうか。
彼は、自分が「死から免れた」と昨日電話で喜んでいました。
しかし、だれもみな、死からは免れることはできません。
それに気づくことが、すべての出発点だなと、改めて思いました。

疲れ切って帰宅。
久しぶりの晴れ間なので畑に行きたかったのですが、その元気が出ません。
新潟の金田さんから恒例の黒崎の茶豆が届きましたが、電話する元気が出ません。

困ったものです。

 

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2020/07/19

■節子への挽歌4696:人と話す機会が減りました

節子

コロナ騒ぎの影響もあって、最近は人に会う機会が減りました。
多い時には毎週数十人に会っていた時もありますが、最近はサロンを別にすれば数人です。サロンでは毎回10人くらいの人と会話しますが、対面しての話とはだいぶ違います。

人と話すことが少ないということは、異質なことが入り込んでこないということでもあります。だから退屈してしまうのかもしれません。
人と会わないとわずらわしさからも解放されるはずですが、そうとは限りません。
最近はネットを通した他者との(一方的な)交流もあります。

直接に対面して話し合うのとネットでの間接的な交流とは全く違います。
後者の場合、「言葉」や「文字」での交流なので、なかなか情感が入りません。
言い換えれば、ある部分だけが受け取り手の情感にゆだねられて伝わるのです。
わずらわしさだけが伝わってくる場合もあります。
実際に会って話していれば、決して誤解されないようなことでも誤解が起こることもある。

ですから、ネットでの交流が増えると、むしろ人嫌いになりかねません。
人と直接会っているとどこかで相手の良い面が見つけられますが、それが難しくなるのです。

ネットでの人との付き合いの比率が増えると、私の場合はどうもストレスが高まるようです。
最近ちょっとまたストレスフルです。
今日は湯島でサロンですが、誰かに八つ当たりしなければいいのですが。

 

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2020/07/18

■節子への挽歌4695:娘の入院

節子

ユカが入院しました。
したがって、これからしばらくは一人での生活です。
食事に関しては、1週間ほどは準備していってくれましたので、餓死はしないでしょうが、それ以上長引くとどうなりますことか。

病院には付き添いませんでしたが、友人の病院にはいくのに娘の入院には付き添わないのかとユカから言われました。
もちろんユカが来なくていいと言ったからなのですが。
来週の月曜日は手術ですので、その日は行きます。
病院に行ったユカからは、コロナで病室にも入れないので、来ないで正解だったとメールが来ました。

これからしばらく一人かと思うと、なんだか気が抜けます。
あいかわらず課題は山積なのですが、ますますやる気が起きなさそうです。
ちなみに正午になっても食事をする気分になりません。
一人で生きていくことに、私は全く慣れていないのです。

最近、時々、死への不安を感ずることがあります。
といっても、死ぬことへの不安ではなく、死なないことへの不安です。

先日も、友人を見舞ったときに、早く逝く人は幸せだと思いました。
今回、娘は大丈夫でしょうが、しかし、何が起こるかはわかりません。
そういう思いをするだけでも、長生きはしたくないものです。
節子を見送った時のような思いは2度としたくはありません。

今回は1週間ほどの一人生活です。
次女家族も近くにいるので、そう孤独ではありません。
その気になれば、会える友人もいます。
食べるものがなくなったら、ご馳走してくれる友人もいるでしょう。

しかし、何となく、長生きして一人残された疑似体験のような気がしています。
最近、いろんな意味で気が弱くなっているのかもしれません。
一番の問題は、生活力がないことかもしれません。
節子はいつもそれを心配していました。

長生きは、決して幸せにはつながりません。
困ったものです。

 

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2020/07/17

■企業経営関係の本を2冊、紹介させてもらいます

久しぶりに企業経営関係の本を2冊、紹介させてもらいます。
「カイゼン4.0-企業にイノベーションを起こす」と「トヨタチーフエンジニアの仕事」です。書名からのイメージとは違い、企業関係者だけではなく、さまざまな立場の人にも示唆に富む内容なので、紹介させてもらうことにしました。

いずれも個人を起点に置いて企業経営に取り組んできた体験をまとめたものです。
それぞれの著者とは親しくお付き合いさせてもらっていますが、そのお人柄と誠実な仕事ぶりから生まれた、信頼できる実践的な経営書です。

ポストコロナ時代の経営を考えるための示唆が得られるだけではなく、仕事とは何か、経営とは何か、そして働くとは何かを問い直す視座も得られると思います。

まずは、企業を現場から変えていこうという活動に長年取り組まれている柿内幸夫さんの新著です。
『カイゼン4.0-スタンフォード発 企業にイノベーションを起こす』(柿内幸夫 サニー・プラス 1500円)

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柿内さんの著作は以前にも紹介させてもらいましたが、今回は柿内さんが実際に取り組んだ事例をふんだんに紹介しながら、これまでの実践知を改めて、体系的にまとめています。
「カイゼン」活動と言えば、モノづくり現場でのコスト削減や生産性の向上というイメージが強いと思いますが、柿内さんの目指す「カイゼン」は、企業にイノベーションを起こす活動です。ですから本書の書名も、『カイゼン4.0-スタンフォード発 企業にイノベーションを起こす』とされています。

柿内さんは、こう書いています。

カイゼンという日本発の技術は、お金がかからないシンプルな技術であり、正しく運用すると生産性や品質はもちろんのこと、新商品や新マーケットをも生み出してしまうすごい不思議な技術なのです。そしてこれは日本にしかできない特別な技術です。ですから正しいカイゼンができていない会社が多い今の日本の中小製造業の状況は、とてももったいないと思っています。
私はカイゼン指導が専門のコンサルタントです。そして私の指導先ではそのすごいことが普通に起きています。

本書でも紹介されていますが、まさに「すごいこと」を、柿内さんはいろんな会社で引き起こしています。
しかも、現場のカイゼンにはとどまりません。会社そのものが大きく変わるばかりでなく、異分野のヒット商品が生まれたり、新しいマーケットが発掘されたりすることもあるそうです。

柿内さんは全組織協働型の経営改革活動と言っていますが、その原動力は会社を支えている全員の力ですので、大きな資金投入など不要です。
魔法のような話ですが、その取り組み方法はきわめて簡単なのです。
ポイントは、社長など経営トップと現場で働く人々が同じ目線に立って、一体となって取り組むことですが、それをどうやって進めるか、そして経営とは何か(経営者の役割とは何か)が、本書には具体的に書かれています。

とても読みやすい本ですので、会社の経営に関わっている方にはお勧めです。
会社だけではなく、NPOや行政の方にもおすすめです。

つづいて、トヨタ出身の北川尚人さんの新著です。
『トヨタチーフエンジニアの仕事』(北川尚人 講談社α新書 880円)
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トヨタの経営と言えば、原価低減や品質管理に優れたトヨタ生産方式がすぐに頭に浮かびますが、もう一つの「トヨタの強さ」は次々とヒット商品を生み出すトヨタ製品開発方式であり、その中心的役割を果たすチーフエンジニア(CE)制度です。

長年トヨタで、チーフエンジニアとして、新車を開発してきた北川尚人さんは、これからの成熟した経済社会にあっては、この製品開発システムこそが企業の活力の根源だろうと考えています。
「現在、世界を席巻する巨大IT企業GAFAはトヨタのCE制度を徹底的にベンチマークし、プロダクトマネジャー制度として導入し、大きな成果に繋げていることは意外と知られていない。プロダクトマネジャー制度の源流、本家はじつはトヨタのCE制度だ」と北川さんは言います。
つまり、モノづくり企業にとどまらず、トヨタのCE制度にはこれからの企業経営の活力の源泉のヒントがあるというわけです。

北川さんは、トヨタで10年間、チーフエンジニアとして数多くの新車の開発に取り組んできました。そうした自らの実践を通して蓄積してきた体験知を、わかりやすくまとめたのが本書です。
本書の中心は、北川さんの体験から生まれたCE17条(言い換えれば、ヒット商品開発のポイント)の紹介です。その第1条は、「車の企画開発は情熱だ、CEは寝ても覚めても独創商品の実現を思い続けよ」です。これだけ読むと、北川さんはただの猛烈社員のように思うかもしれませんが、そうではありません。それに続く17条を読んでもらうと、北川さんの「働くことの哲学」あるいは「生きる哲学」がわかってもらえるでしょう。

「一人でも多くの人を幸せにする乗り物を開発したい」というのが北川さんの夢だったそうですが、それは言いかえれば、「自動車メーカーの人間として何とかできないのか」と考えつづけることでした。そのために北川さんは、仕事のかたわら、まちづくりに関わったり、老年学を学んだり、障害者施設を訪問したりしていました。会社の中にいるだけでは、新しい製品は見つかりません。
本書には、そうした北川さんの夢への取り組みが具体的に紹介されています。

時代は大きく変わり、「HOW」から「WHAT」へと社会が求めるものも変わってきている。WHATを生み出し続けられる価値創造の仕組みこそが、これからの企業の活力につながっていく、と北川さんは言います。
トヨタが創り上げてきたCEのシステムは、これからの時代、メーカーだけではなくサービス分野を含むさまざまな企業にとって役に立つだろうと考えた北川さんが、自らの実践知を惜しげなく公開した本書には、力を失ってきている日本の企業を活性化するヒントがたくさんあるように思います。

製品開発のためのテキストとしても参考になるでしょうが、むしろこれからの働き方を考えるような読み方も面白いのではないかと思います。

機会があれば、おふたりにも湯島でサロンをやってもらいたいと思っています。

 

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■問題の捉え方

東京でのコロナ感染者が増えています。
その一方で、観光支援のための助成金制度が動き出しています。
あまりにちぐはぐな感じで、みんな振り回されているようです。

私の生活スタイルは変わっていません。
県外移動自粛は意に介していませんが、3月以降は生活圏からの移動は避けています。
電車には以前どおり乗っていますが、友人以外の人との会食は避けています(一度だけ結果的に受けてしまいましたが)。
病院に入院している友人にも面会に行きますし、エアタッチのようなばかげた仕草はしません。
湯島のサロンのスタイルもほとんど変えていません(換気には気を付けていますが)。

私が気になっているのは、感染者数ではなく、感染後の症状と重症化した人の条件です。
残念ながらそれがほとんど報告されていません。
検査結果の陽性率は上昇していますが、市中への感染者の広がりは当然のことだろうと思いますので、まったく心配していません。
しかし、感染した場合、どうなるのか、あるいはどうしたらいいのかの情報が相変わらず出てきません。
さらには、どう感染したらいいかの情報も見当たりません。

問題の捉え方が間違っているような気がしてなりません。
感染予防策をいくら繰り返しても、何も変わらない。
大切なのは、予防策からそろそろ卒業したいものです。

 

 

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■節子への挽歌4694:恩送りできることへの感謝

節子

相変わらず夢をよく見ます。
先日、見た夢を思い出して書き残しておこうと思ったのに、すぐにそれをすっかり忘れてしまい、相変わらず、見た夢の内容はすぐに忘れて、夢を見たという感覚だけが残る状況ですが。

昨夜は、久しぶりに熟睡しました。
目覚めたときの夢の感覚は、昔、保谷市の社宅で一緒に住んでいた会社の先輩たちのことでした。
新たにできた新しい借り上げ社宅は9家族の小さなアパートでしたが、私たちにとっては、初めての、そして最後の社宅住まいでした。
入居はみんな一緒だったと思いますが、私たちが一番若かったこともあって、みんなからはとてもよくしてもらいました。
会社生活も、また東京生活も、あまり慣れていない節子も、みなさんからとてもよくしてもらったはずです。

特に一方ならぬお世話になった人もいます。
亀井さんという、たぶん一番年上だった方です。
次女の出産時に、深夜に節子を産院まで車で送っていってもらったのですが、いま考えると冷や汗が出るような、非常識なお願いをしてしまったのです。
お子さんのない辻さんにもとてもお世話になりました。

同じ会社員とはいえ、仕事の面で直接接点があった人は一人もいません。
ですが、出社時間は同じですから、社宅から駅まで一緒だったことも多かったのです。
節子はちょうど次女を出産したこともあって、子育てが大変だった時期ですが、みなさんのおかげで、たぶん無事乗り越えられたのでしょう。
当時は、私はまだ会社にばかり目が行っていて、子育ての大変さを理解していなかっただろうと思います。

夢は、とてもあったかいものでした。
目を覚ましてから、いつものように少し考えました。
そして、私たちは本当にたくさんの人たちに支えられてきていることに改めて感謝しました。

みんな本当に親切にしてくれました。
それが私の人間観を育ててくれたのです。
節子も、たぶんたくさんの人に支えられてきたに違いありません。

にもかかわらず、私たちはそのお世話になった人たちへの「お返し」はできずにいます。
社宅を出て、しかも私が会社を辞めた後の、お付き合いはなくなりました。
節子は、その後もたぶん手紙でのやり取りはあったと思いますが、いまはそれもなくなりました。

人のつながりは、やはり大きなつながりに支えられていると改めて思います。
当時の先輩からもらった「恩」を、「恩送り」していけることに感謝します。

 

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2020/07/16

■知っているのになぜ隠すのか

最近は新型コロナ関係の報道番組はあまり見ていないのですが、今日は久しぶりに少しだけ羽鳥さんのモーニングショーを見ました。
岡田さんと玉川さんと羽鳥さんの茶番としかいえないやり取りがありました。
今朝、ノートにアップしたことにつながるのですが、以前から不快に思っていたことなので、書くことにしました。

話題は、なぜPCR検査が広がらないのかということです。
それに関して、岡田さんが「PCR検査をやりたくない人が政府にいる」というような発言をしたのですが、それに対して羽鳥さんが「それ誰ですか?」と質問しました。
岡田さんは、その人の名前は「電波にはのせられないですよ」と笑いながら答えました。

こういうやり取りは、テレビではよくあります。
物知り顔にいろいろと話し、でもその人の名前は言えないという人は少なくありません。
すぐにも思い出すのは、貴乃花の母親です。
有名な評論家や政治解説者にもいます。

そういう発言をするような人は、私にはまったく信頼できません。
そういう一言を聞いてしまうと、その人への信頼を持てなくなります。
嘘や隠し事が、私は生理的にだめなのです。

今朝、前の記事に書いたように、「知った者の責任」をとれないような人は、まともな社会人ではないと思うからです。
しかも、自分だけは知っているということに優越感を持つような勘違いをしているのですから、救いようがありません。
知っていて、しかも知っていることを公言したのならば、最後まで話すべきでしょう。
話す気がないのなら、せめて知っていることを話すべきではありません。
人に話せないことは、知らないことと同じだからです。

「このことは墓場まで持っていく」という言葉が、好意的に使われることがありますが、私にはそれはとんでもない無責任な生き方です。要は、問題から逃げるだけの卑劣でみじめな生き方でしかありません。偉そうに公言する言葉ではないでしょう。

もし名前を公開したら、どうなるのでしょうか。
もう2度と情報が取れなくなるとか、当事者に迷惑がかかるとか、いろいろと理由はあるでしょうが、たぶんどんな理由も正当化はされないでしょう。

「知った者の責任」は大きいです。
「知った者」は、知り得る立場にあることの意味を認識しなければいけません。
そして、「知る」ということは、「知るべきして知る」のであり、それにはきちんと意味があるのです。自分だけで秘蔵してはいけません。
赤木さんのメッセージをしっかりと受け止めてほしいです。

そういう人がもう少し増えていたら、この半年のコロナ騒ぎはかなり違ったはずです。

 

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■節子への挽歌4693:自分と他者、家族と友人

節子

友人や知人も大変なのですが、わが家もそれなりに大変です。
同居している娘のユカがいま病院に通っていますが、今度は1週間ほど手術入院することになりました。
それで入院中の私の食材を買いに行くというので、私もついていきました。
1週間くらいどうにでもなるでしょうが、簡単に調理できるものを買い集めてきました。

手術なので、何があるかわからないので、近くに住んでいる次女母子と一緒に食事でもしようと思っていたのですが、孫が今朝から発熱し幼稚園も休ませたそうです。
この時期、万一のこともありますので、会食も中止しました。
次女は次女でいろいろと大変なのです。

私自身も高血圧のせいかどうも体調がよくありません。
いろんなストレスが重なっているせいかもしれません。
いや、梅雨の気圧のせいかもしれません。
いやいや、フェイスブックに書かれる友人知人のコメントのせいかもしれません。
なまじ「友人」だと思っているからか、書かれているコメントにがっかりすることが多すぎるのです。それも、あまりにも、です。

前の記事を書きながら思っていたことですが、私には「友人」など本当はいないのかもしれません。あまりに世界が違う気がします。
いなければいいなと最近つくづく思うこともあります。

今日、退院だと言ってきた友人の主治医から電話がありました。
退院は月曜日だそうです。
今日退院だと思って、いろいろと手配していたのに、困ったものです。
本人に電話したのにつながらない。

主治医は、医師の責任もあって、最悪の場合を踏まえて話しますので、聞いている方はかなりのストレスです。
私のように、死を素直に受け入れられるようなものでも、かなりこたえます。
本人に言いたいですが、そう簡単ではありませんし、友人たちにもうまく伝えないと誤解されかねません。
そうでなくとも、先日は私の報告で友人同士でトラブルが起こってしまった。
そんなことにまで気配りをする元気はいまはありません。

家族と友人とが助けを求めた場合、どちらを優先すべきか。
この問題は、自分と他者とに置き換えれば答えは明らかです。
優先すべきは他者であって自分ではない。
だとすれば、家族よりも友人の方を助けるべきでしょうが、なかなかそうも割り切れません。
やはり、友人はいない方が平安な暮らしができますね。

今日は、つくづくそう思いつづけています。

 

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■知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない

森友学園を巡る公文書改ざんに加担させられたとして自死した財務省職員の妻、赤木雅子さんの大阪地裁で意見陳述をテレビで観てから、新聞で全文を読みました。
日本の官僚にも、まだこういう人がいたのかと改めて思いました。
日本の官僚たちの変質は、1980年代から90年代にかけて、なまなましく私も体験していますから、まだこんな誠実な人がいたのかと感激したのです。

私の印象に強く残ったのは、「この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任」、そして「事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません」という言葉でした。

前者に関しては、私が以前からずっと言ってきたことです。
知った以上は無縁とは言えないと思っています。知っただけではなく、関わった人たちが財務省にはたくさんいるはずですが、誰からも大きな声が聞こえてきません。
他の官庁の官僚たちからも聞こえてこない。
私の考えでは、まったく無縁の官僚はほとんどいないはずですが、みんな自分の問題とは受け止めていないようなのが不思議です。自らを貶めているのでしょうか。

私の友人たちはもうみんな退役していますが、同窓会に参加して聞いてみたい気もしますが、もう過去の話なのでしょう。それに官僚の世界は、私が生きている世界とはまったく別のようなので、話が通じないかもしれません。

しかし、今回、気になったのは、「関わった者としての責任」ではありません。
知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない、という赤木さんの指摘です。
果たしてそうなのか。それこそ自閉的な「思い込み」ではないのか。

事実、赤木雅子さんは問題を「公的な場」に提示しました。たしかに、ここまで来るのは大変だったでしょう。赤木さんご自身がもし動いたら、抹殺された可能性もあるでしょう。そうやって「消されてしまった」事例も少なくないのかもしれません。
「知った事実」を「公開」することは誰にもできるはずです。しかし、赤木さんは「公開」しても取り上げられないと思っていたのかもしれません。つまり、新聞やテレビを信頼していなかったと言ってもいい。

こう考えてくると、日本には今や、信頼できる公的な情報空間がなくなってしまっているのかもしれません。これこそが大きな問題です。

ネット空間はどんどん広がっていますが、ほとんどが「私的所有空間」化してきていて、誰にでも公正に開放されている公共空間がなくなってきているとしたら、それを改めて創り出し育てていく必要があるのではないか。
それを育てるのは、パブリックではなく、コモンズでなければいけません。

公共空間としてのサロンが広く広がっていくことが大切です。

赤木さんのような人が、自らの命を断つ前に、話をしに来られるような場に、湯島のサロンをしていきたいと改めて思っています。

 

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■節子への挽歌4692:「去る人は追わず、来る人は拒まず」

節子

先日見舞いに行った友人が退院できることになりました。
昨日電話をもらいましたが、複雑な思いはありますが、まずは喜ぶことにしました。
今週末は私が動けないので、別の友人が行ってくれると言うので安心しました。

小学校時代の同級会では、卒業後、「ぽんゆう会」というのを創って、20歳前後にはいろんな活動をしていました。機関誌などもつくっていましたが、そのおかげで、いまもなおつながりが維持されているのです。
一昨年前は、湯島でのミニクラス会もやっていました。

ソクラテスは、人は誰でも羊を何頭所有しているかと聞かれた場合には、たやすく答えることができるのに、友人に関しては、何人持っているかを名前をあげて答えることができないのは驚くべきことだ、それほどに人々は友人のことを軽く見ているのだと言ったそうです。

友人とはだれかという定義によもよりますが、羊はいつも羊ですが、友人は状況によって変わります。
成功すれば友人だと言って寄ってくる人は多く、失敗すると去っていく友人も多いです。
ペテロやパウロですら、キリストを知らないと言ったほどです。
このことは私の関心事の一つです。

湯島は、「去る人は追わず、来る人は拒まず」を理念にしています。
それを私が意識したのは、節子がテレビに出ていた人を見て、「あの人は来なくなったわね」とふともらした一言でした。
湯島には困った時にしか来ない人は少なくありませんでしたが、そういう人はだんだん付き合いがなくなります。
人は実に哀しい存在なのです。
であれば、私たちはそういう生き方をしたくないと思ったわけです。

友人とは一体何なのか。
ソクラテスが毒杯を飲むときに、一緒にいた人たちは友人だったのか。
友人なら毒杯を飲むのを止めるのか止めないのか。

私の友人は誰なのか。
これも難しい問題です。
幼馴染は、しかし、そんなことを超えています。
友人なのかどうかもはっきりしませんが、まあなぜか自然と心身が動いてしまうのです。

退院がうまくいくといいのですが。
主治医からはかなり厳しい話も聞かされているので、喜んでばかりもいられないのです。
話すわけにもいきませんし。

 

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2020/07/15

■節子への挽歌4691:とんでもなく高血圧

節子

歯医者さんの定期検診で、先週から歯医者さんに通いだしています。
歯医者さんでは、毎回、最初と最後に血圧を測りますが、私はあまりにも高いのです。
前回はあまりにも高く測定不能、ちょっと大きな血圧計に替えてなんとか測定できましたが、今回も繰り返しやってなんとか測定できました。
下が120台、上が230台。あまりの高さにみんな驚きます。
困ったものです。

降圧剤はいまはきちんと飲んでいるのですが、効果が出てきません。
歯医者さんの血圧計とはいつも相性がよくないのですが、自宅で測ってもかなり高いのです。
コロナ騒ぎで、降圧剤も飲みだしているのですが、なかなか改善されません。
そのためか、最近はどうも読書が苦手になってきています。

体調の悪さは、血圧だけではありません。
目の調子もよくありません。
白内障が進んでいるのかもしれません。
どうもすっきりしないのです。

身体の老化現象には抗えません。
慣れていかねばなりません。

 

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■4690:コロナが人のつながりをどんどん疎遠にしている

節子

相変わらず新型コロナ感染者が増えていて、マスク姿もますます増えてきています。
世間の目があまりにもコロナに向けられているのがとても不安です。
そういえば、節子の姉もちょっと体調を崩しているのですが、そのための手術の日程が、コロナの関係でだいぶ先になったそうです。

コロナ騒ぎで、入院中の家族にも面会できないとか、福祉施設に入っている家族にもなかなか会えないとか、そういう話もよく聞きます。
コロナが、人とのつながりをどんどん疎遠なものにしていることの恐ろしさはあまり意識されていないようですが、そのことがどんな社会をもたらすのかが、私には予想もつきません。

昨日、友人を見舞いに行きましたが、受付でいろいろと訊かれました。
病院側も、もしコロナ感染でも起こってしまったら、大変ですから、慎重にならざるを得ないでしょう。
私の場合は、「もしかしたらこれが最後かもしれない」という医師の取り計らいで最初は会えたのですが、一度、会ってしまうと2回目からは説得しやすいのです。
個室だったことも会いやすい条件でしたが、せっかく見舞いに来ても、会えない場合もあるようです。

コロナ感染よりも、もっと守るべき大切なものがあるのではないのか。
極端に言えば、ヒトとしての生命よりも、人間として生きていくためにもっと大切なものはあるのではないか、病院に行くたびにそう思います。

新潟の金田さんから電話がありました。
福島原発事故のために福島から新潟に避難している人たちがまだ新潟にも少なくないようですが、そうした人たちは、このコロナ騒ぎでいろんな影響を受けているそうです。
その相談を少し受けたのですが、たぶん問題は「人のつながり」をどう守っていくかです。

コロナ騒ぎでは、「生命か経済か」とよく言われますが、それをつなぐ鍵は「人のつながり」ではないかと思います。
こういう時だからこそ、人との接触をもっと密にしていきたいと、私は思うのですが、それが許されないことにこそ、私は不安とおそれを感じます。

 

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2020/07/14

■節子への挽歌4689:病人見舞い

節子

入院中の小学校時代の友人が当面の危機状況を脱して、一時帰宅できそうになってきました。
ただし独り身なので、帰宅後が大変です。
それで主治医に会いに行きました。

状況がかなり見えてきました。
チームを作って取り組んでくれているようで安心しました。
と同時に、私にできることはここまでだなということも見えてきました。

医師と会った後、病室に見舞いに行きました。
偶然にも、連絡していた小学校時代の仲間も2人来ていました。
幼馴染に会うと、病人も勘違いするようで、元気が戻ってきていました。

いろいろとありすぎて、疲労困憊の3時間でした。

先に病室を出た友人たちと外の喫茶店で会ったのですが、私はうっかりして胸に「面会許可証」の名札を付けたままでした。
帰りに受付で返すのを忘れてしまっていました。
困ったものです。

死に対する受け止め方はさまざまです。
私は、私と同世代以上の人の死は、哀しさはほぼありません。
ですから明るく語ってしまうのですが、どうもそういう人ばかりではありません。
それに死は残念ながらお金とも絡んできます。
死ぬ時にはお金を持っていない方がいいなと、今回も改めて感じました。
そんなことも含めて、今回は疲れ切りました。

友人が帰宅して症状が安定したら、小学校時代の仲間に声をかけて、合同生前葬をやるのもいいかなと思っています。
まあみんな病気持ちなので、集まる人は少ないでしょうが、私も含めて、まあそう遠くない先に葬儀をやる可能性がありますので、ここはまとめてやってしまえば、いいかなと思いついたのです。

「合同生前葬」という言葉にどう反応するか、ちょっと心配ですが。

 

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■節子への挽歌4688:死ぬためには生きたいと思わないといけない

節子

メダカの子どもが生まれました。
急いで水槽を大人用と子ども用にわけました。
よく見ないと見つけられないほどの大きさですが、なんとか10匹くらいを子ども用の水槽に移しました。

以前、歯医者さんにもらった観葉植物も、挿し木をした親木は枯れてしまいましたが、そこから新しい株が育ってきています。
株分けしたのですが、いずれも元気です。

こうやって自然は常に前に向かって成長しています。
いつも思うのは、新しい世代はみんな美しいのです。

今年はあまり新緑を楽しむことはありませんでしたが、野草との闘いはかなりやりました。
刈り取りこそすれ、そうした野草はみんなとても美しく、気持ちがいいのです。
たくさんの英気ももらっているはずです。

子どもたちも、死にゆく親たちにも力を与えてくれるのです。
子どもを産んだ親メダカは、たぶん間もなく死んでいくでしょう。
そうやって社会は生き続けてきたのです。

昨日、入院中の友人と電話で話しました。
彼は、死ぬ前に一度、家に帰る気になったと言いました。
よかったです。
生きる気がなければ、死ぬことだってできないからです。

彼は独り身なので、帰宅しても大変ですが、どういう仕組みを作ればいいか考えなければいけません。
でもまあ、そう長いこともないでしょうから、工夫はできるでしょう。
彼ももちろんそう考えています。
今日、私も病院に行って、主治医と話す予定です。

死ぬことは何ともないのですが、死に方はそれなりに難しい。
最近のコロナ騒ぎで、死に方さえ拘束されているのがやりきれません。
そうした風潮に、何か風穴が明けられるといいのですが。
彼は、修の葬式に出ないでよくなったのでよかったと電話で話しましたが、仲間内であれば、先に行くのが幸せに決まっています。

メダカの子どもを見ていると、死はやはり生のことなのだと、何となく感じられます。
そして、死ぬためにも生きる意思がなければいけないと、気づきました。

 

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2020/07/13

■そろそろ共依存の政治から抜け出ましょう

都知事選で感じた事や思ったことをテーマにしたサロンを2回開きました。

いろんな意見を聴かせてもらいましたが、参加者が山本太郎さんに好意的な人が多かったので異論をぶつけ合えずにちょっと残念でした。
投票前にフェイスブックで私が山本太郎さんへの支持を表明したところ、厳しい意見をもらいましたが、サロンでは残念ながらそうした反論には出合えませんでした。

フェイスブックでのコメントは、いずれも山本太郎さんへの非難的なものが多かったのに大きな違和感がありました。
選挙前に個人を非難するのは私の好みではないので、小池さんを非難するのも私にはフェアには感じません。選挙はマイナス面ではなく、プラス面で選んでいきたいと私は思っています。みんな自分がないので否定することが好きなのでしょう。さびしい話です。

なかには、山本太郎さんは具体的な政策がないなどという、とんでもないコメントもありました。その人はたぶんホームページサイトも読まず、スピーチも聴いていないのでしょう。山本太郎イメージがすでにあるのでしょう。
小池さんのカイロ大学卒業がどうのこうのと議論するのが好きな人が多いように、ともかく学歴主義の人が多いのには驚きます。大学も出ずに国会議員ができるのかという、学歴コンプレックスに侵されているのでしょう。そうした「政治家像」を見直し、臣民根性から抜けでなければいけません。

そういう人たちは、大学で覚えたプラスチックワードの羅列で世界が見えていると思っているのかもしれません。しかし、現実の世界は、もっと意味のある生きた生活用語で成り立っています。そういうことは大学では教えてくれませんので、自分で学ばなければなりません。大学で、ただただ教えられることを熱心に記憶しているだけでは、世界を見る自分の目は死んでいきます。知識に覆われてしまえば、現場に触れても、その現場が見えなくなってしまいかねません。

今回の都議選は、よほどのことが起きなければ小池さんの再選でした。
宇都宮さんの立候補の意味は、小池都政の問題を可視化することでした。
これまでの経験から考えて、宇都宮さんには「よほどのこと」を起こすことは考えられませんでした。

山本さんは、もしかしたら「よほどのこと」を起こし、これまでとは全く違った状況を生み出す可能性を秘めていました。
新しい風は、論理の積み重ねからは生まれませんが、追い込まれた状況の中では、情動的に非連続の風が、トリックスターによって引き起こされる可能性があります。

格差状況の深刻化とコロナ騒ぎによる抑え込みで、都民の生活状況はかなり追い込まれていて、もしかしたら大きな風が起きるかもしれないと私は期待したのです。
もちろんそこには、ファシズムのような危険性がありますが、新しい風とはそういうものです。現状を変えたいのであれば、そうした危険を背負い込まなければいけません。

問題は、「よほどのこと」が起きてもいいという覚悟を持つかどうかです。
その覚悟がないのであれば、結局は現状維持を受容しなければいけません。つまり小池都知事継続に愚痴を言いながら受け入れるということです。
愚痴を言い続けられる快感を選ぶ人が多いような気もしますが、もしそれを避けたいのであれば、せめてトリックスターによるコンヴィヴィアルな風起こしの邪魔をやるべきではありません。
それくらいの知恵は、現場で生きてきている真摯な人ならわかるはずです。

今回、宇都宮さんを支持した人たちを非難するつもりはありませんが、要するにそういう人たちが結局は正統的な選挙を守り、小池再選を支持したとも言えるでしょう。だからそういう人にとっては、この都議選を総括し反省する必要もないのでしょう。むしろ、「予想通りの結果になった」と満足していることでしょう。

現在のほぼすべての野党が、自民党と共依存しているように、要するに同じ土俵での政治を守ったわけです。それでは状況は変わりません。いや、たぶん意識の奥では、変えたくなかったのでしょうから、満足しているといってもよいでしょう。

友人がこんなメールをくれました。

(山本太郎さんには)いろいろ批判がありますね。特に、左陣営から。
いったいなぜ、そんなに批判されなくてはならないのか、
もちろん完璧ではないですが、彼の志に嘘はないと、私は思っています。

私も同感です。宇都宮さん支持者からの山本太郎批判は厳しいものでした。
そこに、宇都宮さんを支える人たち(宇都宮さんではありません)の本質が感じられます。

ちなみに山本太郎支持者は宇都宮さんを非難はしていなかったように思います。
山本太郎さんもその支持者も、政治の新しい流れを創りたかったのです。
政治家の政治、専門家の政治ではなく、生活者の政治、生きにくさの中を一生懸命に生きている人たちの政治を、です。

山本さんの政策には確かに矛盾したものも含まれていたかもしれませんが、その理念は明確でした。政策の実現可能性に対する姿勢も誠実でした。ですから、実際に政治に取りかかれば、理念によって政策もまた整理されていったでしょう。そうしたことへの寛容さを、山本さんはむしろ素直に出していたのです。つまり、教条主義的で上から目線ではなく、現実に立脚した共創的な生きた政治を目指していたのです。

山本太郎さんは、百合子山は高かったと言っていますが、高かったのは「百合子山」ではなく、そのすそ野に広がる政治家政治を信奉する「高学歴者村」の高さではなかったのかと思います。

未練がましくも、81日か2日に、政治の枠組みを話し合うサロンをもう一度やろうと思います。関心のある方はぜひご連絡ください。参加者が多い日を選びたいと思いますので。

 

 

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■湯島サロン「都知事選で感じたこと、考えたこと」報告

「都知事選で感じたこと、考えたこと」を自由に話し合うサロンを2回、開催しました。
1回目は10人、2回目は9人。連続して参加した人は私を含めて2人でした。
残念なのは山本太郎さんに好意的な人が多く、山本太郎さんを非難していた参加者がいなかったことです。そういう人たちが今回の都議選を無意味なものにしたと私は思っているので、そういう人と話したかったのですが、実現できませんでした。

話し合いの内容は一切省略します。
書き出すと際限がなく、私自身の意見も書きたくなりそうだからです。

しかし私には、参加者の話はいずれもとても示唆に富む話でした。
無責任に頭だけでやり取りする話ではなく、自らの投票行動を踏まえての話が多いので、心に響きます。

選挙に関して話し合うことはあまりないので参加したという人がいました。
そういえば、選挙終了後に、選挙結果を話し合う場はそう多くないかもしれません。
今回は、投票日前にもサロンをしましたが、そうしたことの意味を感じました。

折角の選挙が行われるのであれば、その前後に、選挙権者としてもっと話し合う文化を育てていくことが大切だと思いました。
よく「投票したい人がいない」などという人がいますが、そうした他人のせいにして政治(投票するという市民の責務)から逃げている人をいる限り、みんなにとっての住みやすい社会には向わないでしょう。

参加者のひとりは、学校も休みだったので中高生を含めて、毎日、政治論議で家庭がにぎわったという話をしてくれました。そういう家庭が増えれば、状況は変わるでしょう。
都知事選に関心を初めて持って、投票にも行ったという人がいたのも実にうれしかったです。

今回の立候補者で、政策を具体的に考え公開していたのは、山本太郎さんだけだったと思いますが、フェイスブックなどを読んでいると、残念ながら山本太郎さんのスピーチを聴くこともなく、山本太郎さんをこき下ろした人が少なくないように思います。
私もそういう人からメールも含めていろいろと厳しいコメントをもらいましたが、ネット上の話し合いの無意味さを改めて感じました。

これからは選挙のたびに、投票日前後のサロンをやろうと思います。そうした動きが各地で広がるといいなと思います。共感した人がいたら、ぜひお願いしたいです。
いずれにしろ今回、山本太郎さんのスピーチをきちんと聞いた人は、たぶん次回も投票に行くでしょう。誰に投票するかどうかは別にして。

ひとつだけ書かせてもらえれば、今回の選挙は「政治軸」の枠組みと「政治家」像の問い直しが関わっていたと思いますが、それがあまり意識されていなかったことを改めて思い知らされました。
サロンでは、それに関連して、「お上論」が話題になりましたが、「お上による政治」の下での「臣民」意識から抜け出せない人がまだまだ多いのかもしれません。

それに関して、近々サロンをさせてもらおうと思います。
もう国会を舞台にした政治権力争いの政党政治から解放されたいと思いますが、まだ古い枠組みで考えている人がほとんどなのが、とても残念です。

今回の都議選で見えてきたことがたくさんあります。
それを忘れないようにしたいです。

 

 Togisen20200711

Togisen20200712

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■節子への挽歌4687:本を読んでいるのは誰だ

節子

厚い雲に覆われた、静かな朝です。
私の周辺にも、幾重にも雲がかかっているようで、昨夜もあまり眠れず、夜中に本を読んでいました。
たまたま枕元に合った野矢茂樹さんの「論理哲学論考を読む」という文庫本です。

「論理哲学論考」はウィトゲンシュタインの本で、私には歯が立ちませんが、サロンで言葉の問題が時々出るので、ソシュールやウィトゲンシュタインのことを少し思い出しておこうと何冊かを枕元に置いてあるのです。
この本は買った時には読み始めたKも知れませんが、すぐに挫折し、その後は一回も開いたことのない本です。
たまたま開いたページに、「なぜ死は人生の出来事ではないのか」という見出しが眼に入ってきました。
あまりも今の心境につながっている。
読み始めてみました。

死は人生のできごとではない。
ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。

なんとなく心身に入ってきました。
野矢さんによれば、「死は人生のできごとではない」というのがウィトゲンシユタインの死についての基本的主張だったそうです。
野矢さんは、そういうウィトゲンシユタインに、「あなたの論理空間に、あなた自身の死は含まれているのでしょうか」と問いたいと書いています。そして、その答えは、たぶん否定だろうとも書いています。なにしろ死は人生のできごとではないとウィトゲンシユタインは考えているからです。

では、とさらに野矢さんはつづけます。
「ではたとえばソクラテスの死やラッセルの死は論理空間に含まれているのでしょうか」と尋ねたいが、これに対しては肯定的な答えを期待したい。死が私の人生のできごとではないというのはあくまでも私の死についてであり、他人の死ではない。他人の死はもう死んでいる人であれば現実の事実として、まだ生きている人であれば可能的な事実として、論理空間に含まれている。では、「私は百年後には死んでいるだろう」という命題はどうなのだろうか。

という風に、どんどん話は進んでいくのですか、その話の展開に素直についていけます。
そうやって読んでいたのですが、再び急に睡魔が襲ってきて眠ってしまいました。
目が覚めていままた読み直してみたのですが、素直に読み進めません。

10年以上前に読んだ時にはすぐに退屈したのに、昨夜は素直に読めたのか。
半分眠りながら読んだ時には共感できたのに、目が覚めて読み直したら、なぜ読み進めないのか。

本を読んでいる自分とはいったい誰なのか。
これはちょっと興味深いことのような気がします。

さて今日も問題山積の1日です。

 

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2020/07/12

■節子への挽歌4686:楽しい「死別」を目指す

節子

節子も知っているMさんと話しました。
Mさんは、今年(正確には来年の1月まで)、自分は死ぬだろうと思う。
そうあっけらかんと言いました。
今年の初めから、そういう感じがしているのだそうです。

しかし、それに続いてこうも言うのです。
でも、修よりは先に死ねない。修の死に方を見てから死にたいので。
ということは、私が今年死ぬということです。

私の死に方をなぜ見たいのかわかりませんが、せめて死ぬ時くらいはみんなに予告して、生前葬をやりたいとは思っています。
早いうちにやってもいいのですが、実は何人かに話してしまいましたが、つい最近、少し死ぬのを遅らせることにしました。
その矢先に、この話です。
困ったものです。

共通の友人が、たぶん今年死ぬでしょう。
そう先の話ではありません。
なぜかそれに巻き込まれてしまい、彼をどうするかという話をしている時でした。
いや話はややこしい。

まずは共通の友人を明るく送らなければいけません。
笑いながら死んでしまうような仕組みができないものか。
横で聞いていたら、とんでもない話をしていると驚かれたかもしれません。

この歳になると、これからたくさんの友人と死別に会うことになります。
もし「死別」が悲しいことであるならば、早く逝った方がいいでしょう。
でも早く逝けるかどうかは自分では決められません。
とすれば、「死別」は楽しいものにしたいものです。
もちろん自分のことも含めてです。

それにしても、といつも思います。
長生きはあんまり幸せな話ではありません。
最近、生きているだけで疲れてしまうようになってしまっています。
死に方まで考える余裕はだんだんなくなりそうです。

やはり、死ぬのを遅らせる計画は見直した方がいいかもしれません。
しかし、今年ということになると、ちょっと早すぎると思う人もいるでしょう。
まあ、しかし、まずは一人を見送らねばいけません。
先を越されたのが、いささか残念です。

 

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2020/07/11

■節子への挽歌4685:メダカがまたやってきました

節子

最近のわが家はどうもメダカと相性がよくありません。
室内で飼っているメダカがどうもうまく育たないのです。
この冬を乗り越えた4匹のメダカが、春に全滅しました。
理由が思い当りませんが、これで何度目でしょうか。

先日、近くの坂谷さんがまたメダカを持ってきてくれました。
とても大きいメダカです。
危険分散のために、2つの水槽にわけてしばらく様子を見ることにしました。
ガラス水槽と陶器の容器です。
いずれも以前は長くメダカが育っていたものです。
今度はうまくいくといいのですが。

以前は湯島でもメダカを飼っていましたが、最近はあまり行かないので、世話ができないので、やめています。
水槽に入っているメダカを見ていると飽きません。
できれば湯島でも飼いたいのですが、そのためには週に半分は湯島に行かなくてはいけませんので、ちょっと無理です。

室内のメダカは良いとして、庭の池の魚はどうなっているでしょうか。
これも一時、全滅しました。
その後、2度ほど金魚やメダカを入れましたが、どうもうまく増えませんでした。
もしかしたらネコやガマガエルにやられた可能性もあります。

その後、ネットも張ったのですが、この半年は放置しっぱなしですので、水草とまわりの野草があまりにも繁茂していて、いまはやぶの中で池の中の様子が見えません。
近いうちに掃除をしようと思いますが、いつかのようにまた大きなガマガエルと遭遇するかと思うと気が乗りません。

この池は、私の還暦祝いに節子と娘たちが造ってくれたのですが、私以外は池が嫌いなのです。
だから手入れは一切しないのです。
間もなくこの池も埋められるかもしれません。

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2020/07/10

■節子への挽歌4684:琉球朝顔が咲き出しています

節子

雨のためにまたしばらく畑に行けていません。
なかなか花壇作りに取り組めないのですが、畑の道沿いのフェンスは、琉球朝顔が満開です。
畑の方にもツルが伸びていて、放っておくと畑を覆いだしかねません。

庭の琉球朝顔も数日前から咲き出しています。
最近は、節子の献花台も花がなくなっていましたが、いまは毎朝、琉球朝顔が咲いてくれています。
これから秋の終わりまで花を咲かせてくれるのですが、あまりに広がっていくので、娘たちからは不評です。
この花はちょっと生命力がありすぎるので、たぶん節子好みでもないでしょう。

庭も花が咲き誇っているはずですが、私の手入れ不足で、あんまり華やかではありません。むしろますます枯れる花が多く、色目があまりないのです。
当分は、琉球朝顔で満足していこうと思います。

Asagao20200710

 

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2020/07/09

■節子への挽歌4683:仮住まい状況

節子

ユカとジュンがリフォームのためにショールームにユニットバスとシステムキチンの打ち合わせをしに、ショールームに行くので付き合いました。
私は特にいかなくてもいいだろうと思っていましたが、一応、誘われましたので、まあ気分転換も兼ねて同行したのです。

いまのわが家の浴室は、広くて、窓もあって快適です。
今度は次女夫婦と同居するので、その浴室は次女家族に譲り、私と長女は2回に移るので、2階にも浴室を創ることにしたのです。
造作の関係で、2階のお風呂は窓がつくれません。広さもちょっと狭くなります。
今度の浴室を見せてもらいましたが、今まで広い浴室に慣れていたので、かなり圧迫感があります。

次女たちは、しかし逆に、いまのわが家の浴室は広すぎるので狭くする予定です。広いままでいいじゃないかと思うのですが、広いことのメリットはあんまり感じていないようです。結婚前はこの広い風呂に入っていたのですが、現在の浴室が狭いので、それをベースに考えてしまうようです。
まあ結果的にはいずれも同じ大きさの浴室になりそうです。

ことほど左様に、人は自らが置かれている状況を踏まえて、考えるものです。

リフォームのために、私も一時期、書庫をこわし、書類や雑誌書籍の整理に取り組みだしました。かなり整理しましたが、途中で止まってしまっています。だから書庫も書斎も寝室も、いまはまだめちゃくちゃの状況です。
書庫に合った書棚の本は段ボールなどに詰めてしまったので、どこにあるかもうわかりません。昨日は「ベン・ハー」を運よく見つけられましたが、今日は雑誌「流砂」のバックナンバーを探しましたが、見つかりませんでした。

なんだか「仮住まい」しているような感じです。
それもあって、どうも気分が落ち着かないのかもしれません。

 

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■節子への挽歌4682:「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」

節子

友人の余命宣告の話を、親しい仲間たちに伝えました。
その一人は、自らもがんと闘病している人なので、躊躇しましたが、連絡先に入れてしまいました。その人から、全員に返信で、こんなことが送られてきました。

平家物語にあるように、人生は苦難と病の連続、どんなに、気高い方でも死んで行く。
人生、一生、ただ一度の命です。「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」が**さんにもたらせますよう、祈念しております。合掌

それを読んだ別の友人が、その投稿者にこうメールしました。

何というメールを、だすんですか?!せっかく皆んなで**を元気づけようしているのに!考えろよ、すこし!

それを受けて、最初の投稿者が謝罪のメールをみんなに出していました。

とても悲しい気分になりました。
悲しい気分になったのは、最初の投稿者のメールではありません。
むしろ最初のメールは私の気持ちにも通じています。
彼は、十分に考えて考えて、「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」を本当に念じたのです。そして、その言葉は、闘病中の自分にも向けられているのです。

それに対して、「考えろよ、すこし!」と声を荒げることに悲しさを感じたのです。
最初の投稿者はたぶん心を砕かれたのではないかと思います。

それで、2番目の投稿者を傷つけることになると思いながらも、最初の投稿者に共感すると投稿しました。
みんな善意なのかもしれませんが、こうやって人は傷つけあっているのでしょう。
それがとても寂しく悲しく、なぜか腹立たしいのです。

その肝心の主役の**さんから電話がありました。
聞けばあんまり調子は良くないと言いますが、電話ができるまでに回復してきたとも言えます。食事も少しずつとれるようになって、退院も考え出しているような感じでした。
数日前に会った時とは大違いです。
ホッとしましたが、気は許せません。

ともかく退院を目指して、しかし急がずにまずは体力を回復するようにと言いました。
たぶん当人よりも私の方が、いま置かれている状況は見えているでしょう。
医師から聞いた話を、私風に編集して彼にまた話しました。

死ぬのはいつでもできますが、その前に「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」のお別れ会をやってやろうと思います。
死ぬのはそれからにしてもらおうと思っています。
どうせそう遠くないうちに、みんな死ぬのですから、もっとあっけらかんと死をとらえたいものです。

ところで、「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」っていったいなんでしょうか。
それを最後の話題にするのもいいかもしれません。

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2020/07/08

■節子への挽歌4681:ラストが真逆の映画「ベン・ハー」

節子

西日本は大雨で、川の氾濫が各地で発生しています。
自然の力には人は抗えないようです。
テレビ映像で、猛威を振るう水の流れを見ていると改めて自分の抱えている問題などどうでもいいのではないかと思ってしまいます。

そんななか、さらに不謹慎にもテレビで録画していた映画「ベン・ハー」を見てしまいました。1950年代の大ヒットした作品ではなく、2016年に制作された映画です。
「ベン・ハー」はほかにも映画化されていますが、見応えがあったのはこの2本だけです。

2016年の作品は、大ヒットした同名の映画を観ている人を前提に創られているような気がしますが、最後が反対になっています。
主人公のベン・ハーと敵役のメッサラが和解し許し合うのです。それどころではありません。「家族」になるのです。
そのあたりは、いかにもと言うちゃちな作りになっていますが、憎悪にあふれている現在の社会状況のなかで、ちょっとホッとするところもあります。

原作はどうなっているのだろうか、と気になりました。
たしか、本があるはずだと探したら、古い文庫本が出てきました。
「ベン・ハー」の作者のルー・ウォレスは、西部劇時代を生きた人で、州知事にもなっています。そういう人が書いた作品なので、大学生の頃、興味を持って本は買っていたのはなぜか覚えているのですが、読んだ形跡がありません。どうも読んでいないようです。
気になって、ベン・ハーとメッサラの最後の関係を探してみましたが、よくわかりません。でもどうやら別々の道に分かれていくようです。

まあそんなことはどうでもいいのですが、3月にコロナ騒ぎが始まってから、どうも「どうでもいいこと」ばかりやっている毎日のような気がしてなりません。

自然災害の中で、死ぬか生きるかに直面している人が大勢いる中で、こんな生活をしていていいのか。
そんなことを考えると、ますます気が晴れません。
自分がどんどん暗くなっていくのがわかります。

やはり最近は人に会うのが少なくなっているのがよくありません。
以前は、いろんな人に会いすぎて、何もできないでいましたが、いまは人に会わないのでやることがなくなっているのかもしれません。
自分を動機付けることに苦労しています。

 

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■節子への挽歌4680:コロナも大雨も「自然と人間の関係」の表れ

節子

寝苦しい夜でした。そういえば、こういう夜が昔つづいていたような気もします。
夜が嫌いになったのは、あの頃からだったでしょうか。

夜が明るくなったのも、あの頃からでした。
昔は真っ暗でなければ眠れなかったのに、いまは少し明るい方が眠れるのです。
それに、夜が意外と明るいことにも気づきました。

九州がまた大雨で大変です。
死者も出ています。
人がこんなに簡単に死んでしまう。
死者数を聞いても、自分のこととはつなげないで聞き流す。
それなのに、コロナの死者にはみんなどうして強い関心を持つのだろうか。

娘にそう話したら、自然災害と違って、コロナは自分で予防できるからだと言われました。娘は、私がマスクをしないで電車に乗るのに呆れています。
しかし、娘の意見には私はあんまり納得できなません。
自然災害も予防できるし、コロナも大雨も「自然と人間の関係」から生まれている。
自然の中に、私たち自身が入っていることを忘れているのではないかと思うのです。
ちなみに、娘は土いじりが好きではなく、私の畑作業もめったに手伝ってくれません。
困ったものです。

風が今朝も強く、風の叫びが聞こえるようです。
これがもしかしたら、「言葉の誕生」につながっているのかもしれません。
風が叫び、人が叫んで、人間になった。
この歳になると、叫びたい気分よりも、叫べない気分のほうが強くなってしまいます。

それにしても、どうして新型コロナウイルスがこんなに騒がれているのか、本当に理解できません。
人間は、やはり叫びたがっているのでしょうか。

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2020/07/07

■節子への挽歌4679:「葬儀委員長?」

節子

闘病中の友人が多いためもあって、どうも気が晴れません。
得も言われぬ不安感が全身を覆っていて、時々、ふっと意識を失う感じがあります。
そのうえ、葬儀委員長を頼むなどと直接言われるとおかしくなりそうです。
友人から、もう10日も持たないだろう、葬儀委員長を頼むよ、と言われてしまいました。

「葬儀委員長」、私にはいやな言葉です。
私の葬儀委員長をだれがやるかで、以前、私の友人たちが話していたのを思い出します。
私には、そういう発想がないのがやはり理解されていないようです。
「葬儀」に「委員長」は不要です。
そもそもそういう発想が私には理解できないのです。
ただただ明るく見送ってやればいい。

私がもし死んだとき、だれが哀しむか。
たぶん、いまはもう哀しむ人はいません。
人の死を哀しむのは、生活の大切な一部である年下の人が亡くなった時だけです。
私のような年になると、たぶん死はとても自然のものですから、哀しさも全く違うものになるでしょう。たぶん正常に受け止められるはずです。涙は出ても、たぶん哀しくはないでしょう。
本当の哀しさを知っている人にとっては、という意味ですが。

友人の死は、たぶん私にとっては、あまり哀しくないでしょう。
私たちの歳になれば、もう十分に生きたと言っていい。
死を日常として、すなおに受け入れたいというのが私のいまの信条です。
葬儀委員長を託すようなことはしないでほしいと思っていましたが、実際に言われてしまうと、たじろがざるを得ない。
もちろん引受けませんでした。
その前に約束を果たせよと言っておきました。

いささか頭が混乱してしまった1日でした。
人はやはり、自分で死ぬ日を決めるのかもしれません。

 

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■第1回益田サロン「病原体から考える生物と環境の関係」のご案内

湯島のサロンで、病原体やウイルスの話をしていただいている細菌学者の益田昭吾さんの定期的なサロンをスタートします。
3月に企画し、案内も出していましたが、コロナウイルス騒ぎで延期になっていました。

益田さんのサロンに参加されたことのある人はご存知でしょうが、益田さんは「病原体も我々と同じ生物である」という姿勢で、長年、病原体の研究に取り組まれています。
ちくま新書で、「病原体から見た人間」も出版されていますが、病原体のことを知ることで、私たちの生き方や社会のあり方に関する大きなヒントが得られるというのが益田さんのお考えです。
3月には、連続講座型のサロンを考えていましたが、もっとやわらかい感じで、毎回、その時々の社会問題なども考慮しながら、益田さんに話題提供してもらおうと思います。
一方的な講座ではなく、参加者との対話スタイルを基本にしたサロンですので、参加者の関心にも柔軟に対応してもらえると思います。

第1回は、「生物と環境」というテーマで、いわば病原体という生物に関する全体像を話してもらいます。病気を起こす微生物を病原体と呼ぶそうですが、そうした病原体も本来の環境とは平和裡に共存していること、病気は環境が本来の環境ではない場合に限って起こる現象であること、などがわかると、病原体への親近感も生まれ、コロナウイルスへの見方も変わるかもしれません。新型コロナウイルスが人間を本来の宿主にできるかどうかなども話題になるかもしれません。

細菌学とは直接関係はありませんが、益田さんはものづくりとか記号論などにも関心が深いので、そんな分野にも展開していくかもしれません。時には細菌学から全く離れたようなサロンもあるかもしれませんが、あくまでも「益田さんの世界観」を軸にしたサロン展開を考えています。
新しいサロンのスタイルのモデルになればと思っています。

できるだけ継続参加をお願いしたいですが、湯島のサロンは無理をしないのが基本ですので、参加できる時の参加で大丈夫です。
いつものように、気楽にご参加ください。

〇日時:2020年7月26日(日曜日)午後2~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇テーマ:「病原体から考える生物と環境の関係」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

 

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2020/07/06

■湯島サロン「新型コロナウイルスとともに考えたこと-若者からのメッセージ」報告

コロナ騒ぎの影響で、生き方を変えさせられたり、自ら問い直して生き方を変えたりしている人も少なくないと思いますが、そうしたことから生き方や社会のあり方を話し合おうというシリーズの1回目です。
今回の話題提供者は、大学3年(経済学部)の川端修平さん。

東京でのコロナウイルス感染者が増えだしていますが、このサロンへの参加申込も直前になって急増したため、参加申込のみなさんには状況をお知らせしたのですが、辞退者はわずかで、結果的には20人を超してしまいました。若者のメッセージを聴きたいという人が多いのに改めて驚きました。聴く機会は意外とないのかもしれません。

川端さんは、フェイスブックやツイッターなどで、そうしたことを発信していましたが、どうもそれへの反応がいささか否定的だったようで、それもあって今回はネット経由ではなく、直接対面で話し合えるサロンという場を選んでくれました。
参加者にはあらかじめ、川端さんが書いた論考を配布し、読んできてもらいました。
彼の論考に関心のある人は私(qzy00757@nifty.com)の連絡いただければデータで送ります。

川端さんの話を一言で要約すると、「生きる」と「生活」と「働く」と「経済」と「人間」が一体であることに思い至り、それを実践しだしているということです。
具体的に言えば、住んでいる地元にいる時間が増え、時間ができたので畑をやりだし、そのおかげで地元の異世代の人との交流が始まり、地元の良さも見えてきたというのです。そして、目の前の活きた現実の中で生きているという感覚が強まり、言葉や規範や風潮の世界から解放されるとともに、自分も含めて、同調圧力や規範意識に苦しむ人が多いことに改めて気づいたそうです。

そこから、経済のあり方にも思いが深まり(川端さんは経済学の学生です)、誰かから助けを求められた時に「そのままでいていい」という言葉を説得力をもって話せるようになりたいと思うようになったそうです。
どうも以前に発信した時には、この「そのままでいていい」という言葉がうまく伝わらなかったのかもしれません。川端さんの思いは、だれも無理をせずに自分を生きていけば生きていけるはずだし、それでこそ社会がうまくいくのではないかということです。
それは、「新しい経済の捉え方」であり、みんながありのままに生きていけば、社会全体もうまくいくことを証明したいという考えに至り、そうしたことを卒論での研究テーマにしようと考えているそうです。

川端さんの話を踏まえて話し合いにはいりました。
20代から70代まで、しかも立場もさまざまな人たちの話し合いでは、さまざまな話題が出ました。生と死の話、言葉と思いのずれ、家族関係の大切さ(大きな影響力)、弱い立場の人たちの就職の難しさの話、雇用労働と協同労働の話、土との触れ合いや農作物のシェアの話から贈与経済の話、お金や対価や格差の話、非難と優しさの話などなど、いずれもそれだけでサロンをやりたくなるような話題がたくさん出ました。

川端さんよりちょっと年上で苦労したあげくに同じような生き方に行きついた人が参加してくれていたのですが、その人は苦労もせずにそういう心境に達したことに驚きを感じたようです。また、こういう若者が出てきたことがうれしいという発言が中高年世代数人からありました。

サロン終了後、「若い人とそれを囲む年配者が対等にワイワイガヤガヤと話すサロンは素晴らしい」というメールもいただきました。湯島のサロンでは、どんな人も同じ一人の人間として発言することを大切にしているのです。若い世代の発言の鋭さに驚いたというメールも届きました。

こういう若者が「普通」なのかどうかという話題も出ましたが、今回参加した大学生は2人でしたが、いずれもちょっと特別の存在かもしれません。しかし、湯島のサロンのような自由な空間で話してもらえば、ほとんどの若者の話に、中高年世代はきっと驚愕するでしょう。私はそうした経験を何回もしています。
川端さんが言うように、「そのままでいていい」という生き方に目覚めればみんなそれぞれの鋭さを輝かせだすと私は確信しています。
自己肯定感が大切だと力説していた中高年者もいましたが、多くの人がいま失っているのは、自己肯定感であり、他者肯定感かもしれません。

参加者も多かったので、十分に発言できなかった方も多かったと思います。
今回出されたテーマは、サロンで折に触れて、話し合いたいと思っています。

川端さんからも後でうれしいメールをもらいました。
昨日のサロンで僕の中にもなにか変化が生じたようだというのです。
聞く人ではなく話す人が一番変わっていくというのが湯島のサロンの考えのひとつです。だからみんなに話し手になってもらいたいと思っています。

このシリーズは継続します。いまおふたりの方にお願いしていますが、話したいという方がいたらご連絡ください。

Kawabatasalon20200705

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■節子への挽歌4678:死に方の問題

節子

入院中の友人の主治医からの電話はありませんでした。
状況が急変したら電話するということになっていました。
まずは切り抜けられたようです。
それで、彼の友人知人に状況を報告しました。
まったく知らなかった人もいるでしょうから、驚いたかもしれません。

この話をフェイスブックに書いたら、みんなも心配してくれて、奇跡が起こるのを祈ってくれた人も少なくありません。
感謝しなければいけません。
人の祈りは必ず効果を生みだすでしょう。

山を越えたのはよかったけれど、この先が心配ですねと連絡してきてくれた人もいます。
しかし、先はあまり心配していません。
この歳になると(彼も同年齢です)死は全く問題なく、死に方だけが問題なのです。
特に、突然の死は耐えられません。

一時期、PPK(ピンピンコロリ)という言葉が流行りましたが、私には実に迷惑な死に方だと思っています。
突然の死は本人には苦痛がないかもしれませんが、遺された人への衝撃ははかりしれません。
それに本人にとっても、身体的にはともかく、あまりにも無念なことでしょう。
別れには、ある程度の時間が大切です。

彼との現世での付き合いも、あと1か月程度かもしれません。
先に行く方はいいですが、こういう場合、いつも残る方が気持ちがなかなか整理できないものです。
最後まで笑って話し合えるようにしたいと思っています。

 

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■節子への挽歌4677:孤独感

節子

都知事選挙には風は起こらずに、常識的な結果になりました。
風が起こることを念じていたのですが、都民はコロナ騒ぎで都知事選どころではなかったようです。

私の予想が違ったのは、山本さんよりも宇都宮さんが得票数が高かったことです。私にとっては、宇都宮さんも小池さんも同じ、「向こう側」の人ですが、私の周りも「向こう側の人」がどうも多いようなので、それが論証されたということでしょう。
同じ土俵で権力争いをしている時代ではないと思っているのですが、そう思っている人は少ないのかもしれません。
そうした「土俵」に入るために、みんな学校に行き、就職し、「正しい知識」を身に着けることで精いっぱいなのでしょう。

一昨日、私は感動的な言葉を聴きました。
大学3年生の女性が、ある集まりで、大学で「正しい知識を教えられてきたが、自分で考えることを忘れてきた」と言うような発言をしたのです。
知識は得るほどに思考が定型化されていきかねません。

「正しい知識」の「正しい」とはだれが判断した正しさなのか。
おそらくほとんどが社会を牛耳っている人たちの視点です。
自分にとっての正しさは人によって違いますから、教えることも学ぶこともできません。
学べることや教えることができるのは、「考えること」の大切さとその仕方です。

今日、都知事選のあまりの失望で何もやる気が起きずに、大昔の映画「クォ・ヴァデス」をテレビで観ました。
ネロがローマを焼き払いキリスト教徒を虐殺した話です。
ネロがローマを焼き払った気持ちが理解できるような気もしました。

東京都はあまりに機能的に完成してきています。
そろそろ不合理な存在である人間は不要になってきているのでしょうか。

昨夜から「孤独感」に襲われています。
節子に慰めてもらいたいです。

 

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■都知事選の結果に思うこと

都知事選が終わりました。
一晩開けて、改めて失望感がわいてきました。

新しい風は起こりませんでした。
政治状況を変えるには、新しい風が不可欠です。
論理や戦略では状況は変わりません。

状況を変えるのは呪縛された「知性」ではなく、新しい「知性」です。
状況が変わるときには、これまでの知性や権力やメディアは重しになります。
今回、それを改めて確認しました。
終わった知性やシステムが、これほどに社会を支配しているかと思い知らされました。
彼らは重しになりこそすれ、新しい風は起こさないでしょう。

もし新しい風が起こるとすれば、知の周辺からであり、山を動かすのは山を支えている無数の生活者です。
今回は、その風を起こすトリックスター役が山本太郎さんでした。
これまでの政党政治の殻を破る可能性がありましたが、コロナとマスコミの力が風が起こるのを防ぎました。

みんな現状継続を選びました。
たしかに現状を維持すれば、ほどほどの安定は得られるかもしれません。
しかし、私にはもっとたしかな「安定」がほしかった。
生きている「安定」が。

 

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2020/07/05

■節子への挽歌4676:被災ぶりの背広と靴で疲れました

節子

昨日は半年ぶりに背広を着て、靴と靴下をはいて、出かけました。
会場がお茶の水女子大学だったのと企業研修の要素もあるあるプログラムに、一応、話し手側として参加したのです。

最近はずっと裸足でサンダルでしたので、とても歩きにくかったのですが、さらに靴下のゴムが劣化していて、歩いていると靴下が下りてきてしまうので、大変でした。
歩いていると靴下がだんだん下りて、靴の中にまで入っていくのです。
靴下のほうがきちんと私を理解して、裸足に協力するようになっているようです。
靴下から理解されるのはうれしいですが、とても歩きにくく、いつもの数倍も疲れました。

やはり靴下と靴は疲れます。
ちなみに、私以外の人はみんなカジュアルで、なんだか私だけ場違いでした。
やはり自らに合った、素直な生き方をしないといけません。

背広も問題でした。
着心地が実に悪いだけでなく、なんだか大きいのです。
ユカからも、ちょっとおかしいね、と言われましたが、身体が縮んでしまったのかもしれません。

先日、鈴木さんがポール・ジョンソン『ソクラテス~われらが時代の人』を読んで、ソクラテスと私の共通点が見つかったといって10項目教えてくれました。
そのなかに、「靴を持たず、衣服も少なかったが、本は好きだった」というのがありました。
靴も衣服も持っていないわけではないのですが、長いこと買っていないだけなのです。

ユカからは洗濯のたびに捨てられるのですが、靴下はほとんどはかないので、古いのがまだあるのです。衣服はみんな畑仕事の作業衣にすると言って残していますが、時々、間違えてそれを着てしまい、恥をかいています。
困ったものです。

 

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2020/07/04

■節子への挽歌4675:夜には人は彼岸と深くつながっている

節子

寝苦しい夜でした。
入院中の友人の事態が急変したら医師から電話があることになっているのですが、それが何となく影響して、熟睡できませんでした。
死に関してはかなり解脱しているように思っていたのですが、まだまだだめのようです。

今朝も目が早く覚めてしまい、寝ているよりも起きて何かをやったほうがいいと思って、起きてしまいました。
そう言えば、夜がとても怖かった時期もありました。
夜には、人は彼岸と深くつながっているような気がします。
病院の個室で、彼は眠れたでしょうか。

そう言えば、私も8日間、入院していたことがあります。親知らず歯を抜いた時です。
抜歯で8日間の入院はあんまり納得できなかったのですが、どこもおかしくなかったので、退屈しきっていました。
病院の都合で、1日か2日だけ個室に入りました。
この時は、夜眠れずに、深夜の病院を徘徊したりしていました。
夜の病院は不思議な雰囲気です。

さらにそう言えば、「病院で死ぬこと」という本があります。
内容は覚えていませんが、話題になった本で、いまも書棚のどこかにあるでしょう。
・・・・

という風に、思いがどんどん広がってしまいます。
だから起きたのですが、パソコンに向かって挽歌を書いていると、さらに思いは広がりそうです。
ちょっと早いですが、テレビ体操でもすることにします。
そしてコーヒーでも手作りしましょう。

ちなみに夜の電話は嫌いなので、私の携帯電話は毎日7時ころに切るようにしていますが、今日からまたそうしようと思います。
それで熟睡できるかもしれません。

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2020/07/03

■節子への挽歌4674:なぜ嘘をつくのか

節子

知らない人から携帯に電話がかかってきました。
いつもは出ないのですが、不吉な予感がして、電話に出ました。

予感は当たりました。
病院の医師から、先週見舞いに行った友人が昨日緊急入院したというのです。
昨日電話で病院で点滴してもらったらと伝えたところだったのですが、どうも点滴のまま、入院になったようです。

医師が言うには、癌がかなり進行しているようです。
本人から聞いていた話とは全く違っていました。

友人からは癌のほうは収まっているが他の部署にいろんな弊害が起きてきていると聞いていたのです。
私もどうも様子がおかしいので、来週、彼と一緒に病院に行こうとしていたのですが、間に合わなかったようです。

なぜ友人は嘘をついていたのか。
なぜ私はそれを見抜けなかったのか。
悔やまれます。

午後の予定をすべてキャンセルして、病院に行きました。
詳しい説明を受けました。
最後の延命手術などはどう考えますか、と訊かれました。
実は電話でもそう聞かれ、それで事態の緊急性を知って、飛んできたわけです。
彼には妹がいるのですが、なぜか私も選ばれてしまったのです。

いまはコロナウイルスの関係でお見舞いは禁止になっていますが、担当医がこれが最後になるかもしれないということで、特別に会えるように取り計らってくれました。
私だけで会いました。

会ってみると、意外と元気そうでした。
もう家には戻れないかもしれない、修と会うのもこれが最後かな、覚悟はできた、と言いました。
しかし、笑いながらなので、たぶんまだ完全には受け入れていないでしょう。

彼がなぜ嘘をついたのか。
医師は、嘘ではなく、私(医師)の説明を受け止められなかったのかもしれないと言いました。友人にとっては、癌は安定していると思い込みたかったために、理解しなかったのではないかと話してくれました。

家に戻ることを目標にして、明るく過ごすのが最高の治療法だと私も伝えました。
奇跡が起こるかもしれません。
起こるはずのない時に起こるのが奇跡ですから。

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■節子への挽歌4673:口の悪さは性格の悪さの表れ

節子

今朝もかゆくて早朝に目が覚めてしまいました。
それで畑に草刈りに行っていました。
収穫は90リットル。と言ってもこれは野菜ではなく、刈り取った野草の量です。
タイミング遅れで、野菜の苗はもうあまり売っていないので、畑と言っても、ほとんど何も植えてはいないのです。

最近、自分の性格の悪さを自認せざるを得なくなってきています。
今朝も朝食でユカに厳しく指摘されました。
それで少し反省しただけでも、最近の事例がいくつか思い浮かびます。
昨日も2組の人に会いましたが、いずれの人たちも印象が悪かったかもしれません。

前から指摘されていることですが、私の話し方がどうも否定的なのだそうです。
私の話し方が支持的だと言ってくれた人もいますが、いずれにしろ「言い方」が悪く、そこに「性格の悪さ」が現れているのかもしれません。

ユカは決めつけが多いというのですが、そうかもしれません。
自分では柔軟な受けとめこそが大事と思っていますが、実際は逆なことも多いようです。
時々、直そうとはするのですが、直りません。
困ったものです。

口の悪さは、自分でもかなり意識しています。
というかむしろわかりやすさのためにできるだけストレートに言う癖があります。
それに思ったことがすぐ口に出てしまうという未熟さがあります。
言葉に発した後、すぐに後悔したことはこれまで何回もあります。

こんなことをやっていると、そのうち、友人はいなくなるかもしれませんが、まあその頃は私もきっといなくなるころだろうからちょうどいいかもしれません。

性格の悪さも口の悪さも、そう簡単に直るものではないようです。

今日は、朝から畑で大汗をかいてきたので、お天道様がいい1日にしてくれるでしょう。

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2020/07/02

■こういう時だからこそ読んでほしい本があります

企業の社長という激務のかたわら、社会への働きかけを目指した著作活動にも積極的に取り組んでいる一条真也さんが100冊目の本「心ゆたかな社会」を現代書林から出版しました。これからの社会ビジョンと私たちの生き方を考える示唆が盛り込まれた本です。
新型コロナで社会のあり方が改めて問われているいま、まさに時宜を得た出版だといえます。多くの人に読んでいただきたいと思い、紹介させてもらうことにしました。

15年前、一条さんは、ドラッカーの遺作『ネクストソサエティ』の問いかけに応じたアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/book-kiroku.htm#1jou3

しかし、最近の日本は、一条さんのビジョンとは反対に、心を失った「ハートレス・ソサエティ」になってきていることを一条さんは活動の現場で実感しているようです。さらに、コロナ騒ぎで、人と人とのつながりさえもが難しくなってきている。だからこそ、「心ゆたかな社会」としてのハートフル・ソサエティを改めて目指すべきだと考え、前著を全面改稿した『ハートフル・ソサエティ2020』として本書を出版したのです。

ハートフル・ソサエティとは、「あらゆる人々が幸福になろうとし、思いやり、感謝、感動、癒し、そして共感といったものが何よりも価値を持つ社会」だと一条さんは定義しています。平たく言えば、「人と人が温もりを感じる社会」です。

最近の日本の社会は、どこかぎすぎすしていて、楽しくありません。フェイスブックのやり取りでも、ネガティブな意見や人の足を引っ張るものが多く、「温もり」どころか「寂しさ」に襲われることも多いです。そこで、「人と人が温もりを感じる社会」を目指して生きている私としては、本書を多くの人に読んでほしいと思い立ったわけです。

社会のビジョンは、これまでもさまざまな人たちが語っていますが、そういう人たちのビジョンや思いが、とてもわかりやすく整理・解説されているのも本書の特色です。この一冊を読めば、社会について語られた主要な考えに触れられます。
しかも、一条さんらしく、たとえば、「超人化」「相互扶助」「ホスピタリティ」「花鳥風月」「生老病死」といった視点から議論が整理されていて、それを読んでいるうちに自然と一条さんの「ハートフル・ソサエティ」の世界に引き込まれていきます。

つづいて、その社会の根底ともなる哲学や芸術、宗教が語られ、「共感から心の共同体へ」というビジョンへと導かれていきます。宗教嫌いの人にはぜひ読んでほしいところです。宗教を語らずに社会を語ることはできないでしょう。

最近、社会の全体像が見えにくくなっていますが、本書を読むと、社会というものが捉えやすくなると思います。少なくとも、社会と自分の生き方を考えるヒントが見つけられるはずですし、「心ゆたかな」とは一体何なのかを考える材料もたくさんもらえると思います。

一条さんの個人的な夢が語られているのも親近感がもてます。一条さんにとって「ハートフル・ソサエティ」の象徴の一つは月のようです。ご自分でも書いていますが、一条さんはルナティック(月狂い)なのです。
ちなみに、私はフェイスブックも時々書いていますが、お天道様信仰者ですので、私にとってのハートフル・ソサエティの主役はお天道様です。
まあそんなことはどうでもいいですが、一条さんの提唱するハートフル・ソサエティをベースに、自分にとってのハートフル・ソサエティを構想してみるのも面白いでしょう。

いつか一条さんに湯島でサロンをやってもらえるように頼んでみようと思っています。
九州にお住まいなのでなかなかお会いする機会も得られないのですが。
もし読まれたら、ぜひ感想を聞かせてください。

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■節子への挽歌4672:昨日はさまざまな「攻撃」に耐えました

節子

昨日はさまざまな「攻撃」を受けて、疲れてしまった1日でした。
最初の「攻撃」はフェイスブックの記事へのコメントでした。
中途半端な誹謗中傷のコメントはスルーできますが、誠実な、それもかなり難しいコメントですので、対応しなければいけません。
しかもコメントしてくださった人の大半は信頼する友人たちです。

なかには、事実も確認せずに、適当に「思い」を放出したようなコメントもありますが、それにも一応応えました。そうしたいい加減なコメントの人は、私の少しだけ意地の悪い反論に答えを返してくることはありませんが、誠実なコメントを書いた人は、私の反論や回答にも、またていねいに対応してきます。ですから際限がないのです。

私の記事をめぐって、論争も起こりました。放置すると「炎上」にもなりかねないので、折り合いを見て、「そろそろ打ち上げにしますか」と割り込みました。2人からは「ありがとうございます」とコメントが書かれましたが、その後もまだ少しくすぶっています。困ったものです。

次の攻撃は、メールできました。
私は個人間の閉じられた言説空間というのが嫌いなのですが、これもまた対応せざるを得ません。

次に襲ってきたのが、身体の「かゆさ」です。
昨日と一昨日、畑で少し頑張ったのですが、やぶの中で作業していたため、どうも野草にかぶれたようです。
朝は、ネット「攻撃」に対応していたため気になりませんでしたが、テレビを見ていたら、全身に痒みが「攻撃」してきました。
かゆみどめを塗りまくりましたが、痒みはどんどん広がります。
困ったものです。

午後はかなりげんなりしながら、パソコンは避けて、テレビに逃げていました。
テレビで放映された「フライトゲーム」と録画していたテレビドラマ「BG」。
いずれも面白く、痒みもネット論争も忘れていました。

夕方、またパソコンに戻ったら、まだコメントはつづいていました。
そのうえ、メールではまったく新しい「問いかけ」が2通、届いていました。
それも簡単には応えられない内容です。

フェイスブックのコメントに対応するのが精いっぱいでした。
パソコンの前にいると際限がなさそうなので、早めに打ち切って、眠ることにしました。
しかし、痒さでなかなか眠られずに、昨夜もまた寝不足です。

今朝、パソコンを開いたら、ネット「攻撃」は収まっていました。
ただし、身体の痒さ攻撃はまだ続いています。

いささか憂鬱な1日が始まりました。

 

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2020/07/01

■新しい政治の風への祈り

まさかと思っていた友人たちから、厳しい山本太郎批判が届いています。
そう言えば、山本太郎支持を公言した時から、なんでそんなに入れ込むのかわからないと言われていました。
今回の都知事選をどう捉えるかは、人よって違うでしょうが。私にとっては、未来への帰路に思えてなりません。

山本太郎不支持はともかく落選運動はしてほしくない気がしますが、他の立候補者の落選運動に取り組んでいる友人もいますので、一概には否定できません。
相手を落とし込むような活動は、私にはできませんが。

私は今でも山本太郎さんの当選を確信していますが、風が起こる兆しが聞こえてきません。
もし今回何も変わらなければ、次の国会議員選挙でも何も変わらないような気がしています。なぜこんなにみんな冷ややかなのか。

ある人が、長いメールを送ってきてくれました。最後にこう書かれていました。「どのような言い訳をつけても、世界でも裕福な日本にいる限り政治離れは変わらないのでわ。したがって、自分の身は自分で守るが最善といえる時代に見えます」。長い付き合いのある、私よりも20歳ほど若い、組織には属していないプロビジネスマンです。彼なら、自分の身は自分で守れるでしょう。しかし、世間には守れない人も多いのです。それに、自分だけ守ることは、たぶん「守る」ことにはならないでしょう。
先日、サロンの仲間のひとりから、残された時間はもうそんなにないと言われました。たしかにそうかもしれません

都民の人たちが誰を選ぶかで、私の未来も決まりそうです。
自らの運命を他者にゆだねてしまうような、とても不安な気持ちです。

まだ山本さんのスピーチを聴いてない人があれば、ぜひ聴いてほしいです。
そして今回は小異にこだわらず、「政治家の政治から生活者の政治へ」「嘘の政治から嘘のない政治へ」という一点に絞って、判断していただきたいです。
毎日、念じています。

 

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■節子への挽歌4671:ネット対応に追われていました

節子

今日はFBやネットがちょっとにぎやかでした。
山本太郎さんに私があまりに入れ込んでいるためか、批判がいろいろと届いています。
山本太郎さんが「愛のある政治」と言っていることに共感する主旨の投稿をしたら、此れも手厳しくしかられました。
そうしたコメントに対応していたら、あっという間に午前中が終わってしまいました。

FBだけではなく、メールやメッセンジャーでもコメントが届くので、3つの画面で並行して対応していたので、疲れました。
しかし、世間と付き合うということはそういうことでしょう。
一度意見を表明して、それへの反論があったら、きちんと回答しなければいけません。
そういう姿勢を続けていると、やはりネットは面倒になってきて、やめたくなるのですが、やめてしまったら、そこで終わりです。
そうはしたくないので、問いかけには誠実に対応しています。

元気づけられるメールには、「ありがとう」で終わりますが、異論反論にはきちんと対応しなければいけません。
しかし、異論反論への回答は正直あまり気持ちのよいものではありません。
なんでこんなこともわからないのだ、と内心思うことのほうが多いのです。
その時の私は、たぶん相手と同じ立場になってしまっているのでしょう。
相手も、そう思っているかもしれないのです。

それにしても、私の生き方はあんまり理解されていないようです。
その証拠に、私の書いたことがなかなか伝わらないのです。
今朝は、表現には気を付けてと言われましたが、どこをどう気をつければいいのか、わからないので、そのまま、そう返信しましたが、まだ返信が来ません。困ったものです。

もっとも、みんな「悪意」があって反対してくるのではありません。
私のために言ってきてくれるのでしょうが、そう素直に受け取れないのが人間の弱さです。
やはり同感だとか賛成だと言ってきてくれる人のほうが好きになってしまいます。
困ったものです。

そこを超えなければ、いけません。
人はやはり弱い存在です。

 

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■ふるさと納税制度の主旨はなんだったのか

ふるさと納税制度には私は反対でしたし、いまも反対です。
創設のときから、これは税金の商品化を進め、税金の意味をおかしくするものだと思っていました。

しかし、財政に対する国民主権意識を高める上では一時的な効果はあるかとささやかな期待もしていましたが、返礼が地域の特産品ではなく、商品券のようなものになったり、還元率が3割になったりするようになれば、これはもう税制度をこわす方向に行くだろうと思っていました。
ですから総務省が、泉佐野市の還元率の高い「ふるさと納税」制度をふるさと納税の対象から外したことは当然のことだと考えていました。
そんなことのために仕事をする自治体行政は解散してほしいとさえ思いましたし、市長の行為は違法ではないかとさえ思っていました。

大阪高裁は、総務省を支持しましたが、泉佐野市の控訴を受けて行われた最高裁は、昨日、逆転判決を出し、泉佐野市の制度はふるさと納税に対象になるとしました。

国民の税金の3割が納税者に私的に還元され、しかもそのための費用もかかるのですから、どう考えても納得できません。いまのバブルなふるさと納税を巡っては、おかしな事件も起こっています。まさに行政もお金まみれになってしまっている気さえします。
アメリカの行政革命から始まったニューパブリックマネジメントは、そんなことを目指していたのではないでしょう。そんなはずはないと思いたいですが、いまから考えれば、それが目的だったのかもしれません。つまり市場至上主義による「汎市場化」の一貫だったとも考えられます。

法(制度)の趣旨を理解せずに、法の条文でしか判断できない裁判官と制度の悪用(私物化)に知恵を働かす自治体首長に、怒りを感じます。
税金というのはいったいなんなのか。
ふるさと納税制度は、本旨に戻り、泉佐野市もまじめな自治行政に取り組んでほしいです。

 

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■共感と差別

山本太郎さんを支持した投稿をFBに書いたのを契機に、FB上でレイシズムに関する論争まで起こしてしまいました。それを読みながら考えたことを書いてみました。

レイシズムは、人種差別主義と訳していいでしょうが、その起点にあるのは、人間に優劣をつける発想だと思います。私には一番なじめない意識です。
しかし、私の心身にも、そういう発想が全くないとは言えません。
人間は、共感すると同時に、差別することが埋め込まれているのかもしれません。

私の子どものころ、日本にはレイシズムが横行していました。白人を崇拝し、朝鮮人や中国人をばかにする空気がまだ残っていました。子どもの世界にも、そういう風潮(弱者を差別する風潮)があったような気がします。そもそも学歴主義は、そういう文化から生まれたとも言えます。

レイシズム論争とは別に、私が信頼していた知人が、山本太郎さんを暗に指して「輩」という表現を使いましたが、これはまさにレイシズムにつながる発想です。本人はさほど意識していないと思いますが、だからこそとても残念でなりません。

こういうことは湯島のサロンでも時に起こります。とりわけ「権力者」に対して、差別的な表現がなされたり呼び捨てにされたりすることがあります。権力者の名前は一種の「記号」ですから、呼び捨ては許されるのかもしれません。ある人からは、じゃあ、トランプさんと言わなければいけないのかと反論されたこともあります。呼び捨てが問題なのではなく、個人名を言う時に込められる感情の問題なのかもしれません。そう考えると、私も同罪かもしれません。FBへの私の投稿記事にも、差別意識が出ているかもしれません。たしかに、悪意をこめながら書いていることがないとは言えません。

人種ではありませんが、障害を持つ人や生活困窮者にも、同じような視線を感ずることもあります。私が特に気になるのは、そういう人たちを観察的に見て、一見、同情的な姿勢をとる人です。そういう人は、自分は別の世界にいると無意識に位置づけているように思います。これは私にはレイシズムにつながる発想のような気がします。
サロンでのあまりの発言には注意を喚起しますが、私自身も時にそういう表現を使っていないとは言えません。

Black lives matter運動が世界中に波及していますが、日本でなぜ高まらないのかは、レイシズム意識が日本人には心身に埋め込まれてしまっているからかもしれません。つまり、レイシズムであることを意識できない人がとても多いような気がします。そのため、ヘイトスピーチも、どこかで見逃してしまっているような気がします。

昨日、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された70代の男性の賠償請求裁判の判決が東京地裁で出されました。賠償請求は退けられ、旧優生保護法の違憲性への判断は出されませんでした。これがいまの日本の実情かもしれません。

私の中にある、こうした差別主義意識を克服したいと思っていますが、私の周りに山のようにある、そうした意識や無意識と付き合うだけで、へとへとになります。
人と付き合いは、本当に疲れます。

差別する付き合いから共感する付き合いへと、生きる主軸を変えなければいけません。

 

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