■節子への挽歌4692:「去る人は追わず、来る人は拒まず」
節子
先日見舞いに行った友人が退院できることになりました。
昨日電話をもらいましたが、複雑な思いはありますが、まずは喜ぶことにしました。
今週末は私が動けないので、別の友人が行ってくれると言うので安心しました。
小学校時代の同級会では、卒業後、「ぽんゆう会」というのを創って、20歳前後にはいろんな活動をしていました。機関誌などもつくっていましたが、そのおかげで、いまもなおつながりが維持されているのです。
一昨年前は、湯島でのミニクラス会もやっていました。
ソクラテスは、人は誰でも羊を何頭所有しているかと聞かれた場合には、たやすく答えることができるのに、友人に関しては、何人持っているかを名前をあげて答えることができないのは驚くべきことだ、それほどに人々は友人のことを軽く見ているのだと言ったそうです。
友人とはだれかという定義によもよりますが、羊はいつも羊ですが、友人は状況によって変わります。
成功すれば友人だと言って寄ってくる人は多く、失敗すると去っていく友人も多いです。
ペテロやパウロですら、キリストを知らないと言ったほどです。
このことは私の関心事の一つです。
湯島は、「去る人は追わず、来る人は拒まず」を理念にしています。
それを私が意識したのは、節子がテレビに出ていた人を見て、「あの人は来なくなったわね」とふともらした一言でした。
湯島には困った時にしか来ない人は少なくありませんでしたが、そういう人はだんだん付き合いがなくなります。
人は実に哀しい存在なのです。
であれば、私たちはそういう生き方をしたくないと思ったわけです。
友人とは一体何なのか。
ソクラテスが毒杯を飲むときに、一緒にいた人たちは友人だったのか。
友人なら毒杯を飲むのを止めるのか止めないのか。
私の友人は誰なのか。
これも難しい問題です。
幼馴染は、しかし、そんなことを超えています。
友人なのかどうかもはっきりしませんが、まあなぜか自然と心身が動いてしまうのです。
退院がうまくいくといいのですが。
主治医からはかなり厳しい話も聞かされているので、喜んでばかりもいられないのです。
話すわけにもいきませんし。
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