■そろそろ共依存の政治から抜け出ましょう
都知事選で感じた事や思ったことをテーマにしたサロンを2回開きました。
いろんな意見を聴かせてもらいましたが、参加者が山本太郎さんに好意的な人が多かったので異論をぶつけ合えずにちょっと残念でした。
投票前にフェイスブックで私が山本太郎さんへの支持を表明したところ、厳しい意見をもらいましたが、サロンでは残念ながらそうした反論には出合えませんでした。
フェイスブックでのコメントは、いずれも山本太郎さんへの非難的なものが多かったのに大きな違和感がありました。
選挙前に個人を非難するのは私の好みではないので、小池さんを非難するのも私にはフェアには感じません。選挙はマイナス面ではなく、プラス面で選んでいきたいと私は思っています。みんな自分がないので否定することが好きなのでしょう。さびしい話です。
なかには、山本太郎さんは具体的な政策がないなどという、とんでもないコメントもありました。その人はたぶんホームページサイトも読まず、スピーチも聴いていないのでしょう。山本太郎イメージがすでにあるのでしょう。
小池さんのカイロ大学卒業がどうのこうのと議論するのが好きな人が多いように、ともかく学歴主義の人が多いのには驚きます。大学も出ずに国会議員ができるのかという、学歴コンプレックスに侵されているのでしょう。そうした「政治家像」を見直し、臣民根性から抜けでなければいけません。
そういう人たちは、大学で覚えたプラスチックワードの羅列で世界が見えていると思っているのかもしれません。しかし、現実の世界は、もっと意味のある生きた生活用語で成り立っています。そういうことは大学では教えてくれませんので、自分で学ばなければなりません。大学で、ただただ教えられることを熱心に記憶しているだけでは、世界を見る自分の目は死んでいきます。知識に覆われてしまえば、現場に触れても、その現場が見えなくなってしまいかねません。
今回の都議選は、よほどのことが起きなければ小池さんの再選でした。
宇都宮さんの立候補の意味は、小池都政の問題を可視化することでした。
これまでの経験から考えて、宇都宮さんには「よほどのこと」を起こすことは考えられませんでした。
山本さんは、もしかしたら「よほどのこと」を起こし、これまでとは全く違った状況を生み出す可能性を秘めていました。
新しい風は、論理の積み重ねからは生まれませんが、追い込まれた状況の中では、情動的に非連続の風が、トリックスターによって引き起こされる可能性があります。
格差状況の深刻化とコロナ騒ぎによる抑え込みで、都民の生活状況はかなり追い込まれていて、もしかしたら大きな風が起きるかもしれないと私は期待したのです。
もちろんそこには、ファシズムのような危険性がありますが、新しい風とはそういうものです。現状を変えたいのであれば、そうした危険を背負い込まなければいけません。
問題は、「よほどのこと」が起きてもいいという覚悟を持つかどうかです。
その覚悟がないのであれば、結局は現状維持を受容しなければいけません。つまり小池都知事継続に愚痴を言いながら受け入れるということです。
愚痴を言い続けられる快感を選ぶ人が多いような気もしますが、もしそれを避けたいのであれば、せめてトリックスターによるコンヴィヴィアルな風起こしの邪魔をやるべきではありません。
それくらいの知恵は、現場で生きてきている真摯な人ならわかるはずです。
今回、宇都宮さんを支持した人たちを非難するつもりはありませんが、要するにそういう人たちが結局は正統的な選挙を守り、小池再選を支持したとも言えるでしょう。だからそういう人にとっては、この都議選を総括し反省する必要もないのでしょう。むしろ、「予想通りの結果になった」と満足していることでしょう。
現在のほぼすべての野党が、自民党と共依存しているように、要するに同じ土俵での政治を守ったわけです。それでは状況は変わりません。いや、たぶん意識の奥では、変えたくなかったのでしょうから、満足しているといってもよいでしょう。
友人がこんなメールをくれました。
(山本太郎さんには)いろいろ批判がありますね。特に、左陣営から。
いったいなぜ、そんなに批判されなくてはならないのか、
もちろん完璧ではないですが、彼の志に嘘はないと、私は思っています。
私も同感です。宇都宮さん支持者からの山本太郎批判は厳しいものでした。
そこに、宇都宮さんを支える人たち(宇都宮さんではありません)の本質が感じられます。
ちなみに山本太郎支持者は宇都宮さんを非難はしていなかったように思います。
山本太郎さんもその支持者も、政治の新しい流れを創りたかったのです。
政治家の政治、専門家の政治ではなく、生活者の政治、生きにくさの中を一生懸命に生きている人たちの政治を、です。
山本さんの政策には確かに矛盾したものも含まれていたかもしれませんが、その理念は明確でした。政策の実現可能性に対する姿勢も誠実でした。ですから、実際に政治に取りかかれば、理念によって政策もまた整理されていったでしょう。そうしたことへの寛容さを、山本さんはむしろ素直に出していたのです。つまり、教条主義的で上から目線ではなく、現実に立脚した共創的な生きた政治を目指していたのです。
山本太郎さんは、百合子山は高かったと言っていますが、高かったのは「百合子山」ではなく、そのすそ野に広がる政治家政治を信奉する「高学歴者村」の高さではなかったのかと思います。
未練がましくも、8月1日か2日に、政治の枠組みを話し合うサロンをもう一度やろうと思います。関心のある方はぜひご連絡ください。参加者が多い日を選びたいと思いますので。
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