■節子への挽歌4682:「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」
節子
友人の余命宣告の話を、親しい仲間たちに伝えました。
その一人は、自らもがんと闘病している人なので、躊躇しましたが、連絡先に入れてしまいました。その人から、全員に返信で、こんなことが送られてきました。
平家物語にあるように、人生は苦難と病の連続、どんなに、気高い方でも死んで行く。
人生、一生、ただ一度の命です。「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」が**さんにもたらせますよう、祈念しております。合掌
それを読んだ別の友人が、その投稿者にこうメールしました。
何というメールを、だすんですか?!せっかく皆んなで**を元気づけようしているのに!考えろよ、すこし!
それを受けて、最初の投稿者が謝罪のメールをみんなに出していました。
とても悲しい気分になりました。
悲しい気分になったのは、最初の投稿者のメールではありません。
むしろ最初のメールは私の気持ちにも通じています。
彼は、十分に考えて考えて、「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」を本当に念じたのです。そして、その言葉は、闘病中の自分にも向けられているのです。
それに対して、「考えろよ、すこし!」と声を荒げることに悲しさを感じたのです。
最初の投稿者はたぶん心を砕かれたのではないかと思います。
それで、2番目の投稿者を傷つけることになると思いながらも、最初の投稿者に共感すると投稿しました。
みんな善意なのかもしれませんが、こうやって人は傷つけあっているのでしょう。
それがとても寂しく悲しく、なぜか腹立たしいのです。
その肝心の主役の**さんから電話がありました。
聞けばあんまり調子は良くないと言いますが、電話ができるまでに回復してきたとも言えます。食事も少しずつとれるようになって、退院も考え出しているような感じでした。
数日前に会った時とは大違いです。
ホッとしましたが、気は許せません。
ともかく退院を目指して、しかし急がずにまずは体力を回復するようにと言いました。
たぶん当人よりも私の方が、いま置かれている状況は見えているでしょう。
医師から聞いた話を、私風に編集して彼にまた話しました。
死ぬのはいつでもできますが、その前に「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」のお別れ会をやってやろうと思います。
死ぬのはそれからにしてもらおうと思っています。
どうせそう遠くないうちに、みんな死ぬのですから、もっとあっけらかんと死をとらえたいものです。
ところで、「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」っていったいなんでしょうか。
それを最後の話題にするのもいいかもしれません。
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