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2020/07/13

■節子への挽歌4687:本を読んでいるのは誰だ

節子

厚い雲に覆われた、静かな朝です。
私の周辺にも、幾重にも雲がかかっているようで、昨夜もあまり眠れず、夜中に本を読んでいました。
たまたま枕元に合った野矢茂樹さんの「論理哲学論考を読む」という文庫本です。

「論理哲学論考」はウィトゲンシュタインの本で、私には歯が立ちませんが、サロンで言葉の問題が時々出るので、ソシュールやウィトゲンシュタインのことを少し思い出しておこうと何冊かを枕元に置いてあるのです。
この本は買った時には読み始めたKも知れませんが、すぐに挫折し、その後は一回も開いたことのない本です。
たまたま開いたページに、「なぜ死は人生の出来事ではないのか」という見出しが眼に入ってきました。
あまりも今の心境につながっている。
読み始めてみました。

死は人生のできごとではない。
ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。

なんとなく心身に入ってきました。
野矢さんによれば、「死は人生のできごとではない」というのがウィトゲンシユタインの死についての基本的主張だったそうです。
野矢さんは、そういうウィトゲンシユタインに、「あなたの論理空間に、あなた自身の死は含まれているのでしょうか」と問いたいと書いています。そして、その答えは、たぶん否定だろうとも書いています。なにしろ死は人生のできごとではないとウィトゲンシユタインは考えているからです。

では、とさらに野矢さんはつづけます。
「ではたとえばソクラテスの死やラッセルの死は論理空間に含まれているのでしょうか」と尋ねたいが、これに対しては肯定的な答えを期待したい。死が私の人生のできごとではないというのはあくまでも私の死についてであり、他人の死ではない。他人の死はもう死んでいる人であれば現実の事実として、まだ生きている人であれば可能的な事実として、論理空間に含まれている。では、「私は百年後には死んでいるだろう」という命題はどうなのだろうか。

という風に、どんどん話は進んでいくのですか、その話の展開に素直についていけます。
そうやって読んでいたのですが、再び急に睡魔が襲ってきて眠ってしまいました。
目が覚めていままた読み直してみたのですが、素直に読み進めません。

10年以上前に読んだ時にはすぐに退屈したのに、昨夜は素直に読めたのか。
半分眠りながら読んだ時には共感できたのに、目が覚めて読み直したら、なぜ読み進めないのか。

本を読んでいる自分とはいったい誰なのか。
これはちょっと興味深いことのような気がします。

さて今日も問題山積の1日です。

 

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