■節子への挽歌4679:「葬儀委員長?」
節子
闘病中の友人が多いためもあって、どうも気が晴れません。
得も言われぬ不安感が全身を覆っていて、時々、ふっと意識を失う感じがあります。
そのうえ、葬儀委員長を頼むなどと直接言われるとおかしくなりそうです。
友人から、もう10日も持たないだろう、葬儀委員長を頼むよ、と言われてしまいました。
「葬儀委員長」、私にはいやな言葉です。
私の葬儀委員長をだれがやるかで、以前、私の友人たちが話していたのを思い出します。
私には、そういう発想がないのがやはり理解されていないようです。
「葬儀」に「委員長」は不要です。
そもそもそういう発想が私には理解できないのです。
ただただ明るく見送ってやればいい。
私がもし死んだとき、だれが哀しむか。
たぶん、いまはもう哀しむ人はいません。
人の死を哀しむのは、生活の大切な一部である年下の人が亡くなった時だけです。
私のような年になると、たぶん死はとても自然のものですから、哀しさも全く違うものになるでしょう。たぶん正常に受け止められるはずです。涙は出ても、たぶん哀しくはないでしょう。
本当の哀しさを知っている人にとっては、という意味ですが。
友人の死は、たぶん私にとっては、あまり哀しくないでしょう。
私たちの歳になれば、もう十分に生きたと言っていい。
死を日常として、すなおに受け入れたいというのが私のいまの信条です。
葬儀委員長を託すようなことはしないでほしいと思っていましたが、実際に言われてしまうと、たじろがざるを得ない。
もちろん引受けませんでした。
その前に約束を果たせよと言っておきました。
いささか頭が混乱してしまった1日でした。
人はやはり、自分で死ぬ日を決めるのかもしれません。
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