■知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない
森友学園を巡る公文書改ざんに加担させられたとして自死した財務省職員の妻、赤木雅子さんの大阪地裁で意見陳述をテレビで観てから、新聞で全文を読みました。
日本の官僚にも、まだこういう人がいたのかと改めて思いました。
日本の官僚たちの変質は、1980年代から90年代にかけて、なまなましく私も体験していますから、まだこんな誠実な人がいたのかと感激したのです。
私の印象に強く残ったのは、「この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任」、そして「事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません」という言葉でした。
前者に関しては、私が以前からずっと言ってきたことです。
知った以上は無縁とは言えないと思っています。知っただけではなく、関わった人たちが財務省にはたくさんいるはずですが、誰からも大きな声が聞こえてきません。
他の官庁の官僚たちからも聞こえてこない。
私の考えでは、まったく無縁の官僚はほとんどいないはずですが、みんな自分の問題とは受け止めていないようなのが不思議です。自らを貶めているのでしょうか。
私の友人たちはもうみんな退役していますが、同窓会に参加して聞いてみたい気もしますが、もう過去の話なのでしょう。それに官僚の世界は、私が生きている世界とはまったく別のようなので、話が通じないかもしれません。
しかし、今回、気になったのは、「関わった者としての責任」ではありません。
知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない、という赤木さんの指摘です。
果たしてそうなのか。それこそ自閉的な「思い込み」ではないのか。
事実、赤木雅子さんは問題を「公的な場」に提示しました。たしかに、ここまで来るのは大変だったでしょう。赤木さんご自身がもし動いたら、抹殺された可能性もあるでしょう。そうやって「消されてしまった」事例も少なくないのかもしれません。
「知った事実」を「公開」することは誰にもできるはずです。しかし、赤木さんは「公開」しても取り上げられないと思っていたのかもしれません。つまり、新聞やテレビを信頼していなかったと言ってもいい。
こう考えてくると、日本には今や、信頼できる公的な情報空間がなくなってしまっているのかもしれません。これこそが大きな問題です。
ネット空間はどんどん広がっていますが、ほとんどが「私的所有空間」化してきていて、誰にでも公正に開放されている公共空間がなくなってきているとしたら、それを改めて創り出し育てていく必要があるのではないか。
それを育てるのは、パブリックではなく、コモンズでなければいけません。
公共空間としてのサロンが広く広がっていくことが大切です。
赤木さんのような人が、自らの命を断つ前に、話をしに来られるような場に、湯島のサロンをしていきたいと改めて思っています。
| 固定リンク
「社会時評」カテゴリの記事
- ■「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」(2024.09.20)
- ■世界がますます見えなくなってきています(2024.06.02)
- ■人間がいなくなった廃墟の中で生きていませんか(2024.05.09)
- ■共同親権が国会で議論されることの意味(2024.04.17)
- ■なぜみんな地域活動が嫌いになるのか(2024.04.04)
「生き方の話」カテゴリの記事
- ■「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」(2024.09.20)
- 〔身心力向上への取り組み1〕マイナスの思い込みマインドセットからの自己解放(2024.09.08)
- ■胆嚢摘出手術入院記録10:患者のQOLと病院の責任(2024.08.19)
- ■「おはよう」と「こんにわ」の違い(2024.08.19)
- ■急性膵炎入院報告〔番外編〕:安定・依存な生き方か自由・自立な生き方か(2024.06.30)
コメント