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2020/08/27

■湯島サロン「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」報告

小野坂さんの「国際労働機関(ILO)と新型コロナウイルス」は、さまざまな問題提起が示唆される刺激的なサロンになりました。
小野坂さんのお話の概要は、当日配布された資料にていねいに書かれていますので、関心のある方はご連絡いただければお届けします。ぜひお読みいただければうれしいです。
ここでは、私の関心に沿ったきわめて断片的・主観的な報告にさせてもらいます。

小野坂さんはまず歴史編として、ILOの成り立ちや変遷に関して、簡潔にわかりやすく、しかし具体的な事例も含めながら紹介してくれました。つづいて、現代編に移り、新型コロナウイルスの話題を切り口に国際機関としてのILOの役割や課題を話してくれました。

ILO創設の契機になったのは、はじめての「総力戦」として、「労働者」を動員することになった第一次世界大戦です。その背景にあるのは「労資」の対立と「国民国家システム」の存立の危機です。平和を目指して世界の労働者の労働条件と生活水準の改善こそが世界の永続につながるという理念でつくられたのがILOでした。小野坂さんの話もそこから始まりました。

産業革命によって、「労働」の様相は一変しました。そして児童や女性も、工業的な生産現場に労働力として取り込まれることになりますが、そこからさまざまな問題が発生します。
ILOが最初に取り組んだのは労働条件、とりわけ労働時間の規制です。そして第二次世界大戦後は労働よりも労働者(人権)という視点が強まっていき、さらに21世紀に入り「人間らしい生活」への関心が高まってきます。そうした流れの中で、生活保障や公衆衛生の問題も視野に入ってくるわけです。

しかし改めてILOの通史の話を聞いていると、そこに流れる大きな方向を感じます。
私にはそれが、人々をどんどんと賃金労働者に変えていく流れのように感じました。言い換えれば、金銭資本主義を支えるという役割です。
最後のほうで、小野坂さんは移民や「家事労働者」の話をしてくれましたが、ILOの歴史を見ると対象にする労働者の範囲がどんどんと広がってきている先に、家事労働者があるようにも感じます。
そしてそこにこそ、ILOの限界があるのかもしれません。

小野坂さんは、ILOの役割として「国民国家システムの延命」という話もされました。そもそもILOは労働者代表、使用者(資本家)代表、政府代表という三者構成でガバナンスしていますが、実際には労資(労使)という民間と政府という国家の対立構造が創立当初から埋め込まれていますので、基本にあるのは国家システム基準です。
これに関して、インターナショナルかグローバルかという議論も少しありました。「世界連邦構想」と「国民国家を基本とした国際世界構想」との対比がそこから出てきますが、現在のところ、国家を超えた世界構想は現実味がなくなってきています。国際機関は、国家が使い込むサブシステムになってきていると言ってもいいでしょう。
しかし、小野坂さんは、ILOとNGOの連携や他の国際機関との協働などを引き合いに出しながら、新しい可能性を示唆してくれました。特に私が興味を感じたのは、宗教(サロンでは上海YWCAの活動が紹介されました)の役割が示唆されたことです。
問題は、国際機関をだれがガバナンスするかだと思いますが、小野坂さんは国際機関やNGOが、さまざまな状況変化に合わせて自己変革していく先に、新しい構造を見ているのかもしれません。
いずれにしろ、国際機関とは何なのかという本質的な問いかけを私は感じました。

ILOは、International Labor Organizationの略ですが、レーバー(労働)という表現がどうもなじめないという指摘が参加者からありました。創設当時の世界情勢の中で選ばれた言葉でしょうが、100年を経た今となっては、たしかに活動のシンボルワードとしては問題があるかもしれません。

それに関連して、参加者から「労働(仕事)と生活(くらし)を切り離さないでとらえることが大切」だという指摘がありました。ILOは労働基準と生活基準のいずれをも課題にしていますが、それらをもっと統合的にとらえる必要があるという指摘です。
たしかにそう思いますが、私はそもそも生活(くらし)とは仕事をすることだと考えていますので、「労働(仕事)」と「生活(くらし)」を二元的の捉えること自体に問題の本質があると考えています。二元的に捉えると、たとえば「ワークライフバランス」を考えればわかりますが、両者に目的-手段関係が発生します。ワークとライフを対置するところからは流れを反転させることは難しいでしょう。

国民国家システムを延命するために国際機関を育てていく方向はシステム(制度)を基軸にした発想ですが、その枠を超えて、システムと人間の対立構図で考えると違ったビジョンが見えてきます。労働運動の捉え方も変わってくるでしょう。
小野坂さんの話にも出てきましたが、ILOは労働者とは直接につながるルートもあります。日本でも労組がILOに相談して、国家の労働法を変えていった事例もあります。日本の労働実態に対するILO勧告の報道を記憶している人もあるでしょう。
私自身はそこに新しい世界を垣間見ますが、だからこそILOのガバナンスが気になります。「個人の生活」に起点を置いて考えると新しい風景が見えてくるように思います。

小野坂さんは、現代編として新型コロナウイルス感染症も話題にしてくれましたが、そこで「ソーシャルディスタンス」という言葉に疑問を呈したのが印象的でした。
ILOが現在重視しているテーマに「ディーセントワーク」(人間らしく働く仕事)というテーマがありますが、そこで重視されているのがソーシャルダイアローグ(社会対話)です。
ディスタンスとダイアローグは次元の違う話ですが、私にはとても象徴的なビジョンの違いに思えてなりません。

勝手な報告になってしまい、小野坂さんの主旨からずれてしまったかもしれません。
小野坂さんの話をきちんと読まれたい方は、私宛(qzy00757@nifty.com)に連絡いただければ、小野坂さんのペーパーをお届けします。

最後に私の好きな言葉を紹介させてもらいます。
21世紀初頭にILOの事務局長を務めたファン・ソマビアの言葉です。

個人が尊厳を、
家族が安定を、
社会が平和を求める心の中心にあるのは、
ディーセントワークである。

Ilosalon

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