■節子への挽歌4744:生きているということは奇跡的なこと
節子
テレビを見ていると不条理ともいえる多くの死が毎日報道されます。
泳ぎに行っての水死、行く途中や帰宅途中での交通事故死。
仕事途中での事故死や日常生活での不運な事故死。
犯罪に絡んだ殺人や身勝手な殺人も少なくない、
自殺者も決して少なくありません。
毎日、新型コロナ感染症での死者数が報道されますが、それ以外の死者数は桁がいくつも違います。
コロナでの死者数には関心を持っても、それ以外の死者数には思いも馳せないでいるのが現代社会かもしれません。
つまり、死者数の意味が全く違ってしまっているのです。
殺人や自殺や自らにかなり原因がある事故死の報道を見るために、人はなぜこんなに簡単に人を殺し自分を殺すのだろうと思います。
この感覚を強く持ち始めたのは、死を直前に闘病している節子と一緒にいるときに、知人が「いま自殺しようと思っているがなかなか死ねない」とメールを送ってきたときです。
その時には、生命を節子と変わってよ、と言いたかったですが、ただただ腹立たしかっただけです。彼が、節子と同じように、一生懸命に生きたいと思っていたことに気づいたのはしばらくしてからでした。
その後、死に関する報道に接するたびに、どうして人はこんなにも簡単に人を殺すのだろうという疑問とともに、生きているということは奇跡的なことなのだと思うようになってきました。
それにしても、「どうして人は人を殺せるのか」。
私には理解しがたい難問です。
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