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2020/08/02

■湯島サロン「生活の視点で政治や経済を考える」報告

湯島のサロンは、できるだけ一人称自動詞で、しかも生活用語で話したいと思っていますが、それは結構難しく、とりわけ政治や経済の話になると専門用語で何となく語られてしまうことも少なくありません。
そこで今回は、改めて「生活」「生活者」をキーワードにしたサロンをやってみました。
しばらく私自身が問題提起するサロンをやっていなかったので、今回は私が話しながら問いかけるスタイルをとらせてもらいました。

最初にまず、「生活者」ってなんだろうか、という問いかけから始めました。
消費者、労働者、生産者、教育者、公務員、失業者などという言葉はよく使われますが、「生活者」という言葉はあまり使われないようです。
ちなみに、「年金生活者」という言葉はありますが、その言葉を使う人はむしろ「年金」に重点を置いていますので、まだ金銭にこだわっていて、私の考える「生活者」ではありません。

いずれにしろ、私たちは自分を「○○者」と呼ぶのは難しいほど、いろんな「自分」をもっていて、そのそれぞれの状況において、判断基準を変えています。
たとえば、森友問題で自殺を強いられた赤木俊夫さんの場合はどうだったでしょうか。
赤木さんはなぜ自殺に追いやられたのか。
そんな話から始めさせてもらいました。

たしかに私たちにはたくさんの生活局面があり、それに応じてさまざまな判断基準を使い分けながら生きています。
しかし、よく考えてみると、すべての根底にはじぶんの「生活」があります。
状況に合わせすぎて、自分の「生活」や「考え」をおろそかにしていることはないのか、そして結局は、それが個人の生活を邪魔する社会につながっているのではないか。つまり、個人の生活と社会との関係が逆転しているのではないか。それが今回のサロンで私が一番問いたかったことです。
最近のマスク騒動で日本人は「同調圧力」に弱いと言う人が多いですが、同調圧力を育てているのは、誰でもない、自分なのではないか、というわけです。少なくとも私は同調圧力などという幻想のせいにしたくはありません。

自分の生活に行動の基準を置く人を、私は「生活者」と呼んでいます。
では「生活」とは何かということになりますが、他人(たとえば組織とか慣習)が作り出した考えではなく、自らが生み出した考えの中で生きることと捉えています。

そもそも、人々は、豊かな自然のなかで、しかし限られた資源を生かして、お互いに支え合いながら生活していました。生活の基盤は、コモンズ(自然と仲間)なのではないか、と私は考えています。この「仲間」には過去の人間や未来の人間はもちろんですが、人間以外の存在も入ります。
そうした中で、生きやすさを考えて、みんなで育ててきたのが「倫理」です。
そして、それに基づいて、政治や経済の仕組みが育てられ、みんなの「社会契約」で国家までつくられた。
経済とはもともと、経世済民、世を治め民をたすけるためのものであり、政治とは倫理を実現する仁政だったのではないか。
そうした状況の中では、「貧しさ」は決して惨めなものではなく、むしろ思いやりや支え合いを生みだしていました。映画「三丁目の夕日」の世界です。

生活にとって大切なことはなんですか、という問いかけもさせてもらいました。
意外だったのは「お金」と答えた人は一人もいませんでした。
いろいろとだされましたが、私は「安心して快適に暮らせること」と「人間として成長していく喜び」だと思っています。

ですから、経済も政治も、その2つを目指すものであってほしいと思いますし、逆に言えば、その2つを目指さないものは、私にとっては、経済でも政治でもありません。
私が「経済成長」に全く関心がないのは、それが経済などとは無縁のものだと思っているからです。「政局騒ぎ」も私にとっては「政治」ではありません。

「生活を豊かにする経済」「生活を豊かにする政治」は、いまや「経済を豊かにする生活」「政治に従う(奉仕する)生活」に向かわせる装置になってしまいました。
制度や仕組み、組織やルールはすべて生活を快適にするためのものだったはずなのに、制度や仕組み、組織やルールが生活を律しだしているのではないか。
そして今や、私たちの「価値観」までも大きく変えだしています。
「働く」とは何か、「学ぶ」とは何か。
湯島のサロンは、「生産性」がない集まりとビジネスマンからはよく言われますが、そもそも「生産性」ってなんなのか。

3番目の問いかけは、「あなたにとって一番大事な財産は何ですか」でした。
すべての存在が金銭価値化されつつある今、私たちの生活を支えてくれていた自然や仲間(私はこれをコモンズと呼んでいます)との結びつきを失った人間は、金銭に依存せざるを得なくなっています。
そうしたなかでは、「頼り」になるのはお金だけかもしれません。

そして、最近は、お金がないことを「貧しい」というようになってしまった。
そうした「貧しさ」は、支え合いや思いやりを生みださずに、惨めさと不安につながっていきます。

とまあこういう話を、参加者と対話しながら進めた後で、最後の問いかけは、「さて、どう生きましょうか」ということでした。
私の目指す生き方は、少しだけ話させてもらったつもりです。

話は時々、横道にも入りましたが、こんな感じで、それぞれが自らの生活につながる形で、経済や政治を考えるきっかけになればと思ったのですが、どうだったでしょうか。
自分の「生活」を、いまよりもちょっとだけでも大事にしてくれる人が増えると、たぶん社会は良くなると思っています。

言うまでもありませんが、自分の生活を大事にするということは、他者の生活も大事にするということです。「自分のため」と「社会のため」とは利害相反するものではなく、宮澤賢治が言っていたように重なっていると生き方こそが、私の考える「生活」です。
決してわたし主義者でも閉じたコミュニティ主義者でもありません。念のため。

いつも以上に、自説中心の長い報告になってしまいました。

Seikatu1 Seikatu2

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