■節子への挽歌4745:生きる意味
節子
昨日、生きていること自体が奇跡という思いを書きましたが、それを少し発展させると、生きる意味や目的にたどりつきます。
前にも書いたような気もしますが、改めて書いてみます。
私にとって節子は「生きる意味」を与えてくれる存在でした。
葬儀の時、隣人にそう話したことを思い出します。
奥さんが「生きる意味」なんて言えることに感動しますと言われたような記憶がありますが、しかし、ちょっと考えれば、これは当然ともいえることで、当時の素直な気持ちでした。
もし私が天涯孤独で、誰とも交流のない山奥か無人島で生きることになったとします。
私の生き続けるモチベーションはどうでしょうか。
いつかまた誰かに会えるという希望があればともかく、それが全く断ち切られたとすれば、たぶん生きる意味を失うでしょう。
生きている意味がないと言ってもいいでしょう。
将来誰かに会うことがあるかもしれないという思いがあれば、たぶんそれが生きる目標になります。
つまり「生きる意味」とは自分以外の人が与えてくれるのではないかと思います。
もしかしたら、それは必ずしも人間でないかもしれませんが、いずれにしろ「生きる意味」は自らの中にあるのではなく、他者にある。そう思います。
そうした「生きる意味」を与えてくれる人として「伴侶」を見つける。
私の場合、節子がその伴侶でしたが、伴侶が結婚相手とは限りません。
それに、伴侶が相互関係にあるわけでもありません。
恩師や親友、親子の場合もある。片思いのことは少なくないでしょう。
しかし、自分が生きていることに、意味を与えてくれる存在がなければ、人は生き続けることが難しいのではないかと思います。
人を殺してはならないのは、その人が生きる意味を与えている人の生を奪うからです。
これはもう少し敷衍しないとうまく伝わらないでしょうね。
もう少し書いてみようと思います。時々、になるとは思いますが。
| 固定リンク
「妻への挽歌20」カテゴリの記事
- ■節子への挽歌5354:「畑に行かない券」のプレゼント(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5353:81歳まできてしまいました(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5352:落ちてきたひな鳥(2022.05.27)
- ■節子への挽歌5351:畑に2回も行きました(2022.05.26)
- ■節子への挽歌5350:元気がだいぶ戻りました(2022.05.25)
コメント