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2020/08/18

■第9回万葉集サロン「歌から会話へ 東歌を中心にその2」報告

「歌から会話へ」という大きな変化を、万葉集の東歌を中心に読み解いていく万葉集サロンの2回目は、前回の復習から入りました。
取り上げられたのは、東歌の次の歌です。

多摩川に 晒す手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき

前半3句で序詞(じょことば)として「た」の世界を歌い、後半2句で「わ」の思いを直截に言葉にする。
つまり前半の「歌」で、共同幻想的な世界を生み出し、それを背景にして、タブーとされていた「事挙げ」を回避しながら自らの思い(「わ」)を一気に発してしまう。

枕詞や掛詞にも言及しながら、神との会話から人同士の会話(コミュニケーション)が生まれ、さらにはそこから「自己意識」も芽生えてくることをこの歌で学び、そこからいくつかの東歌などを読みながら、言霊に支配されていた言葉を人が自分のものとしていくドラマを垣間見るような壮大な話をしてくれました。

しかも、「歌」から「会話」が生まれただけではなく、歌もまた新しい世界をつくりだしていく。「た」の世界と「わ」の世界がそれぞれに分離し、叙景歌、抒情歌として発展していくという、歌の展開に関しても、いくつかの歌を使って紹介してくれました。

案内文で、升田さんは「人間と対峙する言葉が「生き物」のように柔軟に変容するところに、社会や文化の進展があるのかも知れない。そのありようが見られるのも万葉集の面白さの一つであろう」と書いていましたが、まさにその面白さを少し体感させてもらった気がします。

しかし話が壮大すぎて、なかなか消化するのは難しかった気もします。
わくわくする気分は味わったのですが、十分の消化できずに、升田さんのお話を簡潔に紹介できないのが残念です。
できれば次回もこの話を繰り返していければと思っていますので、関心を持たれた人はぜひ次回参加してください。

升田さんの万葉集サロンは、単に歌を読んでいくだけではなく、歌から当時の社会や文化を考えていくものですから、一味違った万葉集サロンになっています。

いずれにしろとても示唆に富むサロンでした。

報告はここまで。
以下はサロンとは直接つながりませんが、今回のサロンを聞きながら考えていたことを2つだけ紹介させてもらいます。

サロンでは直接の話題になりませんでしたが、「音楽」と「言語」の起源は深くつながっています。音楽は歌につながりますが、ネアンデルタール人は歌でのコミュニケーションはしていたが、言語でのコミュニケーションはしていなかったともいわれます。
音楽と言語を生み出した原型言語として「ミュージランゲージ」という概念を持ち出す人もいますが、「歌」と「言」の関係を万葉集の歌から読み解いていくことは、とてもワクワクします。日本語というちょっと個性的な言語がなぜ生まれたのか、ということを考えるヒントもあるように思います。

また言霊や言挙げに関連して、升田さんは「神の言葉を直接伝えることはできないので、言葉を運ぶ存在を置く」という話もされましたが、これは右脳は神の言葉を伝え、左脳は人の言葉を生み出すというジュリアン・ジェインズの「二分心」仮設で語られている「意識と言語」のテーマにつながっていきます。
升田さんのサロンでも、「わ」「な」「た」の構図の中で、自己意識がどう生まれてくるかがまだ形を表してきていませんが、大きなテーマです。
その意味で、万葉集を通して、「二分心」仮設を吟味するのは興味があります。
ちなみに、ジュリアン・ジェインズの「二分心」仮設は、『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』に詳しいですが、これと絡めて万葉仮名と漢字の関係を読み解くのも面白いと思います。

升田万葉集サロンは、こういう形でテーマがどんどん広がっていく。
これからどういう風に広がっていくのか楽しみです。

Manyo202008

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