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2020年9月

2020/09/29

■節子への挽歌4772:彼岸花の季節

節子

最近は畑にいかないばかりか、庭にも出なくなってしまいました。
庭も草ぼうぼうで大変な状況ですが、ふと庭を見たら彼岸花が咲きだしていました。
お彼岸の時には咲いていませんでしたが、今年も昨年同様、1週間ほど遅れての開花です。
ユカに頼んで、早速、節子に供えました。

彼岸花が庭に咲きだしたのは、節子が逝ってからです。
球根を節子の治療のためにどっさり買い込んだのですが、結局、あまり効用もなく、その後、庭に植えたのです。
節子がいなくなった翌年から、わが家の庭で咲きだしたのです。
ですから、彼岸花は特別の意味を持っているのです。

家の改造工事がつづいているので、生活がかなり制約されています。
コロナ騒ぎはさほどストレスではなかったのですが、住まいながらの家のリフォームは疲れます。
読書時間とテレビの時間は増えましたが、なにか解放感がありません。
生活も単調になり、挽歌もなかなか書けずにいます。

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■ようやくプロシューマーの時代が到来しそうです

いまわが家のリフォームを進めていますが、これを機に、エアコンを導入することにしました。
今さら何をと笑われそうですが、私の仕事部屋も寝室も、これまでエアコンはなかったのです。夏は暑いところに価値があるとエアコンを拒否していたのですが、この歳になると命にかかわるといわれ、それには抗えないからです。

それでリフォームをお願いしている会社に見積もってもらったら、意外と高いのと、商品が指定されていたので、昨日、大手家電販売店に現物を見に行ったのです。
いまはエアコン商戦の端境期だそうで、売り場は閑散としていました。

エアコンを見ていたら店員の方が来て説明してくれました。
メーカーのダイキンからの派遣社員の中西さんでした。

説明がわかりやすいのと好印象だったので、リフォーム会社からのお勧めの三菱の霧ヶ峰はやめてダイキンの商品に変えることにしました。店頭での販売員の影響は大きいです。
価格はリフォーム会社の見積もりに比べてかなり安価でしたが、購入は1か月くらい先だと言うと中西さんはきっとさらに安くなると話してくれました。
それでリフォーム会社に頼まずに、家電販売店から購入しようかと思いだしました。

まあこれはほんの一例なのですが、住宅も自分でつくれる時代になっていきそうですね。
おもちゃのロゴを組み立てるように。
プレハブ住宅ではなく、モジュールハウスです。
その前に、たぶん自動車や電子機器は自分で組み立てられるようになるでしょう。
産業構造や生活構造は大きく変わりそうです。
まあその前に私の人生は終わるでしょうが。

家のリフォームをしているおかげで、いろんなことに気づかせてもらえます。

 

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■湯島サロン「歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」報告

今春開催した中嶋一統さんの「陰謀論」を切り口にした現代を読み解くサロンの続編です。今回は特に、11月の米国大統領選の行方とその後をテーマに中嶋さんに話してもらいました。参加者が少なかったおかげで参加者の個々の関心にも焦点を当てながら話しあえるサロンになりました。

最初の話題は参加者からの問いかけでした。
最近発生した韓国政府職員の射殺・火葬事件に関して、北朝鮮の金正恩が韓国に謝罪したことの背景には何があるのか、という問いかけでした。
中嶋さんは今回、その話題は予定されてはいなかったのですが、「この世のすべてのものはつながっている」というのが陰謀論の基本原則ですから、当然のように話は盛り上がりました。

その話題が一段落した後で、これまでの陰謀論サロンでの中嶋さんの予測通りに世界が動いていることを確認したうえで、米国大統領選の話題になりました。
もっとも大統領選の結果を占うことが目的ではなく、そこに象徴されている世界の大きな流れを整理する仮説軸を得ることで、よくわからない世界の複雑な事象をつなげていって自分の世界観を仮設する示唆を得るのが今回のサロンの主旨です。

中嶋さんの解説によると、世界はDS(ディープステート)陣営とそれに抗って流れを変えようとしている力(アンチDS)との対立構造の中で動いています。
ディープステート論は最近は「世界陰謀論」と結びつけられていますが、現実には表面的な政府と実質的な政府という意味での現実的な捉え方で、たとえば最近の日本でも鳩山内閣の時にそれが明確に見えてしまったことがあります。
今回のテーマである米国大統領選に関していえば、その根底にあるのは、DSとそれに抗うトランプ陣営の覇権争いということになります。

中嶋さんはそれを世界陰謀論のみならず、新型コロナウイルス感染症につなげて考えています。新型コロナを人為的に流行させたという陰謀の真偽はともかく、現実の事象を活かして世界を動かすというのは「政治」そのものの話ですから、程度の差はあれ、そこに「意図」が働くことは否定できません。それを「陰謀」と呼ぶかどうかは別として。

日本の柳条湖事件や米国のトンキン湾事件のように、時間が経過して露呈された陰謀の例は少なくありません。すべてが明々白々にならない世界の動きには、内容はともかく、何らかの「陰謀」は存在します。明白になった事実(与えられた事実情報)だけで世界は構成されているわけではないからです。しかし、○か×かの二択で判断することに慣れている人たちは、肯定か否定かはともかく、ほとんどが陰謀論の呪縛に囚われているような気がします。私には〇派も×派も同じように思えます。

いずれにしろ、そうした「陰謀」の真偽は、それこそ藪の中ですが、頭から否定するか、信じ込むかのいずれもが、「陰謀論」の罠にはまったことになるでしょう。

今回、中嶋さんは、陰謀論の枠組みを踏まえて米国大統領選はアンチDSのトランプが当選し、そこから「新しい歴史」が始まりだすと大胆に予測しました。現在の「パンデミック計画」にはDSの意図が働いていて、それが失敗するという予測からの結論です。
新しい歴史とは、たとえば、「9.11事件の真実」や「新型コロナにまつわる意図的な操作」が明らかにされ、その結果、世界の通貨と金融機構の革新が進み、DSの戦略とは違った新たな地球再生計画に取り組む動きが出てくるというビジョンです。
DSかアンチDSかはともかく、結局は「新しい世界」も管理された世界で、私のような生活者には「相変わらずの世界」のように思えて、あんまり希望は持てませんが。

ここまでくると、いささか世界陰謀論の術中にはまってしまっているような気がしますが、思考を柔軟にする頭の体操という意味で、また話を楽しみ会話を広げるという意味でも、刺激的で、サロンはますます盛り上がりました。

陰謀論は疑いを出発点としています。マスコミ情報や政府情報だけで世界を見るのではなく、懐疑的に情報をとらえ、視野を広げるという意味があります。しかし、陰謀論は、わかりにくい現実をわかりやすい物語に置き換え、世界を理解した気にさせてしまい、逆に思考を狭めてしまう恐れもあります。両刃の剣と言っていいでしょう。
そこに、湯島のサロンで「陰謀論」をテーマにする意味を感じていますが、なかなかそういう方向に議論は向かいません。すでにみんな「陰謀論」に巻き込まれてしまっているのかもしれません。
さてさて、このシリーズはどう展開するか。今回のサロン参加者からは、米国大統領選後にもう一度やってほしいという声がありましたが。

ちなみに今回参加された一人の方は、最近仕事が忙しくて睡眠不足だと言って、サロンの間、ずっとソファで寝ていました。こういうサロン参加の仕方もあることを思い出しました。話し合っている横で誰かが寝ている。ちょっといいですね。

中嶋さんの話の内容を要約するのは私には無理なので省略してしまいました。
中嶋さんの話を聞きたい方は中嶋さんに連絡を取ってください。中嶋さんはサロンにも30冊ほどの書籍を持ち込んできましたが、中嶋さんの頭の中にはさまざまな「陰謀論」の情報があるようですので。

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2020/09/28

■湯島サロン「文化は世界を救えるか」報告

「文化は世界を救えるか」と大上段に構えたサロンは10人を超える参加者がありました。

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最初に文化と文明の違いに関する沖さんの考えが紹介され、最後は「我々は文化を再生し世界を救うことができるか」という問いかけがなされました。
この問いかけからわかるように、沖さんはいま世界は「救われなければいけない状況」、つまり危機にさらされている状況にあると考えているわけです。
そしてそれを救うには「失われた文化の再生」にしかないとも考えているようです。
しかし、この問いかけは、同時に「文化は世界を壊す」かもしれない、という懸念を伴っています。

沖さんの文化と文明の捉え方は明確です。
文化は人間が考えて創り出すもの(精神的なものを含む)であり、文明は生活を豊かにする(物資的要求を満たす)ために創りだされるものだというのです。
この定義自体にすでにかなり大きな前提が含まれていますが(たとえば「豊かさ」は物質的な要求と結びつけられています)、それはともかく、「創り出すもの」と「創り出されるもの」という違いがあるというのです。言い換えれば、文化には価値観(あるいは人間の意図)が含まれるが、文明はその価値観を生み出す「下部構造」だというのがどうも沖さんの理解のようです。

さらに、沖さんはテクノロジーと文化を関係を考えます。
そして、ラフカデオ・ハーンの言葉を紹介してくれました。
ラフカデオ・ハーンは、何が人生に希望を抱かせてくれたのかと問い、それは「幽霊」だと書いているそうです。
幽霊には、神も悪魔も天使も含まれそうですが、要は文明開化によって霊的なものを基礎とする世界観が失われた。そして伝統的な文化も失われ、空しく空っぽな「電気と蒸気と数字の世界」になってしまったと言っているそうです。
ここでは文明と文化が対置されています。

そこから「我々は文化を再生し世界を救うことができるか」という話になっていくのですが、沖さんはテクノロジーを超えた文化を創り出すために、自分の価値観を持つ人々が増えなければいけないと言います。
その先は参加者みんなで考えようということで、話し合いに入りました。

文化と文明に関してはその捉え方は人さまざまです。
ですからやはり「文化で世界を救えるか」という問いかけも人それぞれですので、なかなか議論はかみ合いません。
結局、家族の問題とか人のつながりのような、かなり具体的な問題になると話がかみ合いだします。また「企業文化」や「政治文化」にからむ話し合いもかなり盛り上がりました。

私自身は。文化と文明と言葉が似すぎていて、混乱を生みだしているとずっと思っています。
ちなみに「エジプト文明」という言葉はありますが「エジプト文化」とはあまり言いません。「伝統文化」という言葉はありますが「伝統文明」という言葉はない。そこにある意味のヒントがあるような気がします。

「文化」は英語では「カルチャー」。つまり「耕す」という意味があり、「文明」は「シビライゼーション」つまり「都市市民になる」とかいう意味があります。
そこから私は、文化は「する概念」、文明は「なる概念」だと考えています。
そう考えるといろんなことが整理されるように思いますが、これもまたあくまでも一つの考え方でしかありません。

結局、今回のサロンでは「文化は世界を救えるか」という問いかけに対する答えは出ませんでしたが、たぶん問題の立て方に起因しているのです。
「世界を救う文化を目指すために」という問いかけにすれば、いろんな意見が出てきたでしょう。実際に今回のサロンでもそういう視点でのアイデアはいくつかあったような気がします。
この問いかけ自体に、文化と文明の発想の違い、あるいは「する発想」と「なる発想」の違いが示唆されているように思いました。

 

 

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2020/09/25

■節子への挽歌4771:怠惰中毒

節子

わが家がどんどん壊されてきています。
節子がこだわって作った和室の床の間もなくなりました。
わが家から和室はなくなってしまいました。

一昨日から1階の改造も始まりました。
生活しながらの改築なのでそれなりに大変です。
私の居場所だった小さな書斎は完全になくなっていますし、書庫も亡くなり、私の寝室はいまやそこから搬入された荷物であふれています。
そのため私は、いまは1階で生活していて、眠るときだけ2階のベッドで寝ています。

しかし、その1階もいよいよ工事が始まったのです。
リビングは足の踏み場もない有様で、私はダイニングの片隅に机を持ってきてパソコンをやっています。この場所は、節子のパソコンがあったところです。

身体を動かすことが少なくなったのですが、幸いに毎朝のテレビ体操のおかげで、腰痛は避けられています。しかし、足が弱ってきているのは間違いありません。外出しなくても、1階と2階との往来はかなり足を使いますので、それなりに良かったのですが、いまは1階に座りっぱなしです。足が弱くなるのは避けられません。

ダイニングに閉じ込められるとやることは2つしかありません。
テレビを見るか何かを食べるか。
おかげでまた太りだしていますし、眼が疲れます。
しかし一番の問題は、どんどん精神的に怠惰になることです。
困ったものです。

友人から送られてきた新著、知人がわざわざ自宅まで届けてくれた資料。いずれも目を通す気になれません。
ソファに座って、駄菓子を食べながら、ドラマや映画をテレビで見ていると1日が過ぎてしまう。
生きている実感は得られず、むしろなんとなく後悔の念にかられますが、しかしこうした怠惰な死活に慣れてしまうと、なかなか抜け出せません。
薬物依存やアルコール中毒と違い、さほどの問題は起こさないような気もします、考えようによっては、これは恐ろしい病魔かもしれません。

新型コロナウイルス騒ぎで、こうした怠惰中毒に陥ってしまった人がいないといいのですが。

 

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2020/09/24

■節子への挽歌4770:足が衰えてきているようです

節子

久しぶりにいやな夢を見ました。
いろんな話が錯綜している夢なのですが、最後が、海の中の人工島に取り残され、その島は夜中に水没するのです。
幸いに夕方の段階で目が覚めました。

どこかいやかと言えば、3.11の大津波の発生する直前に、津波から逃げたり、津波の引いた海岸で人を探したりする夢をよく見た記憶があるからです。
まさかと思いますが、あの再来を思ったりしてしまうのです。

一週間前の暑さが思い出せないくらい、昨日から季節は変わり、今日は寒いくらいです。
気温の変化がこんなに急だと体調を崩す人も少なくないでしょう。
コロナよりもそちらの方が私には気になります。

一昨日、駅まで歩いて行ったのですが、我ながら驚くほど疲れました。
いまはあまり歩くことがなく、駅までも娘に車で送ってもらうことが増えているのです。
11月には相馬巡礼を行おうと思っていましたが、それどころではありません。
とても30キロなど歩けそうもありません。
もし歩くのなら、少し歩いておく必要がありそうです。

いまは大工さんが終日家に来ていますので、そう勝手には出られないという口実で、歩くことが激減しています。
しかし別に大工さんが来ているから外出できないわけはありません。
要はあまり歩きたくなくなっている、つまり体力や気力が減退しているのです。
畑にも全くいかなくなってしまいました。

困ったものです。

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2020/09/23

■節子への挽歌4769:地元とのかかわり

節子

今朝は突然の来客でした。
ぜひ読んでほしい資料があるので届けたと言うのですが、せっかくなので、倉庫状態にあるリビングに上がってもらって話をしました。

なぜか地元がらみの話がつづいています。
昨日は市会議員の海津さんから相談があるといわれ、また来年度の自治会の話も高城さんから相談されました。
そして今日は、13年間市議会を傍聴している横手さんの来訪です。

こういう話もなぜか集中するものです。
明日もまた誰かが来るかもしれません。

節子がいたら、駅前の花壇整備から始めた活動はどうなっていたでしょうか。
もう少し違った展開を見せていたかもしれません。

これまでいろんな市町村と関わってきましたが、やはり住民として関わらないと、次第に人のつながりも途絶えてしまい、縁が遠くなってしまいます。
節子がいたら、これまで関わってきた地域への旅を思い立ったかもしれませんが、一人ではあまり行く元気もありません。
関わっていた当時は、70代になったら夫婦で再訪するところをたくさん作っておこうという思いがあったのですが、結局、いずれも再訪することもなくなってしまいました。
こうなるとわかっていたら、当時、節子も同行したのですが、結局、一緒に行ったのは、長崎と佐世保と北九州市くらいです。

来年はいまよりももう少し地元我孫子に関わることが増えそうです。

 

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■令和の市町村大分裂への期待

昨日は地元の市会議員から、ある件の相談を受けました。私自身は特定の市議を支援しているわけではないのですが、相談があればだれでも相談に応じるのが私の姿勢です。

現在のような状況では、基礎自治体(市町村)の議会制度を抜本的に見直す必要があると思っていますが、逆にもし現在の議会制度を維持するのであれば、議員活動のあり様を一変させるべきだと思っています。
シュミットの「友敵理論」の真似事をしている市議会にはまったく価値を見出せません。基礎自治体の政治では、敵対よりも共創が基本でなければいけません。
そういう視点で、アドバイスをさせてもらいました。

今日は突然、今度は13年間市議会を傍聴している市民の方が自宅にやってきました。
久しぶりに先日お会いして話をしたのですが、その時、話題になった資料を持ってきてくれたのです。
折角なので、倉庫のような散らかしっぱなしの自宅に上がってもらい、話をしました。話し出したら際限なく話題は広がりました。
今回もまた市議会のあり方が問題のひとつになりました。

基礎自治体である市町村の行政活動にとって、最大の問題は議会のあり方ではないかと私は思っています。
かつて2つの市と町で、その問題に取り組みましたが、いずれも途中で挫折しました。
今回はかなり違った視点で、再挑戦していますが、平成の市町村大合併を超える、令和の市町村大分裂が起きない限り、日本の自治はますます劣化するでしょう。

 

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2020/09/22

■節子への挽歌4768:中庭と裏庭がとんでもない状況です

節子

放置していた家の裏の細長い空き地と裏庭は、かなり悲惨な状況になっています。
その一部は、節子の発想で、玄関から見える中庭になっています。
節子がいた頃はそこもきれいにし、夜はライトアップされるようになっていました。

しかし誰も手入れしなくなった今は、蔦やいろんな木で足の踏み場もないほどです。
中庭の真ん中に置かれた大きな鉢も割れてしまい、いまはその台があるだけで、花はありません。
困ったものですが、そのうえ、いまは家の駐車場が使えないので、自転車もそこに置いてあるので、混乱の極みです。
節子がいたらさぞ嘆くことでしょう。

しかし今回の改造で、ガスの給湯設備の新設のため、工事のためそこを通らなければいけなくなりました。さらに給湯設備を置くスペースもつくらなければいけません。
先日、工事担当の方が来て、そこに分け入って最低限の場所を確保してくれましたが、家主としてはいささか恥ずかしいので、今日は朝からそこの整理をしました。
自由に出入りできるようにし、生い茂っている草木を伐採しました。

というとなんだかとても広いイメージを与えますが、玄関から見える中庭を別とすれば、幅1メートルもない細い隙間空間なのです。
ところがそこにいろんな植物が根を張り蔦を広げ、元気にやっているのです。
そのうえ、鉢とかいろんなものが放置されているのです。

まあ10分もやれば片付くと思ったのですが、結構大変です。
最近はまだあんまり体調も良くないこともあって、30分もやらないうちにへこたれてしましました。
まあ体力的な問題もありますが、蚊の襲来を受けて身体中痒くなってきたのです。
蚊よけのスプレーをしたり、長そでを着たりするだけで回避できるのですが、簡単に済むだろうと軽く考えて動き出すのが私の習癖です。
困ったものです。

今日は植木のごみなどの回収日なので、ごみ集積場にもっていきました。
フラフラで、20メートルの道のりが長く感じました。
途中で近くの人に会ったので、もう死にそうですよと話しましたが、朝からの重労働は疲れます。しかも手足がかゆくて仕方ありません。

今日は10時半にある人の相談を受けに駅前の喫茶店に出かけます。
いつもなら自宅に来てもらうのですが、いまは改造工事中で倉庫状態なのでさすがに自宅には来てもらえません。
今日の相談はちょっとややこしそうですが、最近、脳の調子がよくないので対応できるでしょうか。

5種類の薬を飲みだしてから、脳の調子がどうもよくありません。
脳の調子が悪いといってもなかなか伝わらないでしょうが、何やら脳の血液の温度が高い感じなのです。
脳こうそくの前兆でしょうか。

身心は微妙で、なかなか言葉には表せません。
しかしどうもこの半年ほど、心身に違和感があるのです。
もしかして新型コロナウイルスに関係があるでしょうか。
いや、生命の寿命の関係でしょうか。
もう少し生きることを決意したのですが、人生は儘ならないものです。

 

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2020/09/21

■節子への挽歌4767:お彼岸のお墓参り

節子

どうも最近、季節感覚というか時間感覚がおかしくなってきていt、明日がお彼岸だということもうっかり忘れていました。
そこで、今日はお墓にお見舞いに行きました。
お昼過ぎだったこともあってか、お墓は閑散としていました。
般若心経を挙げさせてもらいましたが、今日はうまく声に出てきて、最後まで唱えられました。
前回は、思い出せないばかりかろれつまでおかしくなって、病院に行ったのですが。

お墓のある宝蔵寺は、相馬霊場88か所巡礼の84番札所です。
今日はお墓に直行で本堂へのお詣りもさぼってしまいましたが、帰り際にお寺の入り口の表札を見て、そこに書かれている「84番札所」に気づき、やり残している札所巡りを思い出しました。
今年はあまりに急に暑くなったために、歩きそこなったのです。

昨年思いついて7月初めに歩き出したのですが、予定では3日目にこのお寺で満行する予定でした。しかし1日目に頑張りすぎて、翌日は歩くどころではなかったのです。
困ったものです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/07/post-0f8cf7.html

「84番札所」という文字を見たら、また急に歩きたくなりました。
最近の体力を考えるといささかの心配はありますし、ユカはやめてよ、と言っていますが、行きたくなるとそう簡単には止められません。
困ったものです。
しかし、いまは家の改造もあり、あんまり勝手な行動はできません。
11月になるまでは待とうと思います。

 

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2020/09/20

■節子への挽歌4766:さびしい時代

節子

今日は地元でやっているまちづくり編集会議の集まりでした。
いつも借りている場所で行ったのですが、コロナ感染予防のために椅子の数が少なくなっていました。
しかも間隔を置いての利用です。
なんとなく気分が出ません。

こういうことが重なって、人のつながりは薄れていくのでしょう。
なんだかとても寂しい気持ちになりました。
まあ最近は元気を吸い取られるようなことがともかく多いです。

昨日のサロンで、久しぶりに参加してくれた女性は、マスクなしで街を歩いていたら、罵倒されてといいます。
いわゆる自粛警察ということなのだそうですが、まあ罵倒する人はたぶん追いつめられているかわいそうな人なのでしょう。
みんなともかく追い詰められていて、どの鬱憤をどこかに吐かせたいのです。
さびしい時代です。

そう言えば、数年前に「さもしい時代」をテーマにしてサロンを2回ほどやった記憶がありますが、時代はますます「さみしく、さびしく、そしてかなしく」なっているのかもしれません。
私が元気が出ないのは、もしかしたら私の素直なさの故かもしれない。
つまり私の主体性のなさで、時代の気分に染まっているのかもしれません。

困ったものです。

 

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■19日の土曜オープンサロンの報告

19日の土曜オープンサロンには、久しぶりに参加者も含めて9人が参加。

オープンサロンなので、話題は各自勝手に展開でしたが、やはり政局がらみとコロナ関連でした。かなり微妙な話題もありましたが。
若い世代の参加者がいなかったこともあって、やはり若い世代の話を聞きたいという声がでました。若い世代の話し手を見つけるのは難しく、なかなか続きません。

どなたか周りにサロンで話してもいいという若者がいたらぜひ誘ってみてください。

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2020/09/19

■節子への挽歌4765:トイレ掃除

節子

今日は湯島のサロンですが、早目に来て、トイレ掃除をしました。
というのも、先日、サロンの参加者のおひとりがサロンが始まる前にトイレ掃除をしているのに気づいたからです。

私は、掃除が苦手で、適度に散らかっているのが落ち着くタイプなのですが、トイレだけは時々気になってはいましたが、めったに掃除はしないでいました。
しかし参加者に掃除をさせてはいけません。
そこで、実は先週、取り組んだのですが、その途中に肝心のその人が来てしまったのです。
それで途中で終わってしまいました。
そこで改めて、今日また再挑戦し、便器の水垢をきれいにしました。

もう20年近く前になりますが、イエローハットの創業者の鍵山さんの指導で、公衆便所をきれいにする活動に参加しました。
たしか箱根湯本か強羅の公園のトイレだったような記憶がありますが、10人くらいの仲間と参加しました。
その体験を踏まえて、わが家のトイレ掃除は私が担当すると公言しましたが、まあいつものように1年もたたずに忘れてしまいました。困ったものです。
まあしかし、そのおかげでトイレ掃除には抵抗がなくなっているのです。

今日は午後からオープンサロンです。

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2020/09/18

■節子への挽歌4764:手が届かないものがあるということは幸せなことです

節子

秋は果物の季節です。
私が好きな果物は日本イチジクと熟しすぎた柿です。

昨日は次女のジュンが熟した柿が半額になっていたと近くの八百屋さんから買ってきてくれました。
長女のユカは一昨日、イチジクとブドウを買ってきてくれていたので、最近は果物三昧です。
私はグルメでもなく、食生活は質素ですが、野菜と果物があればもうそれで十分なのです。
一時高くてなかなか買えなかったレタスも最近は安くなってきましたし、秋はいい季節です。
節子にも果物はいつも供えています。

シャインマスカットが八百屋さんで安く売っていたと娘が買ってきました。
そして半分を次女家族に持っていくというのです。
シャインマスカットは高価なのでなかなか買えないのだそうです。
シャインマスカットがなんで巨峰より高いのか理解できませんが、わが家では、そして次女家族の家でも、シャインマスカットはなかなか買えない「ぜいたく品」のようです。
わが家は、それほど貧しかったのか、と改めて、娘たちにはわるいことをしたなとちょっと思いましたが、まあ貧しいことは悪いことではないでしょう。
幸せを体験しやすくなるのですから。
シャインマスカットを食べるとどうして幸せになるかはわかりませんが。

しかし、手が届かないものがあるということは幸せなことです。
手が届いた方がいいと思う人もいるかもしれませんが、まあ体験的に言えば、届かない方が多い方が幸せでしょう。
なにしろ夢がたくさんあるからです。

さて今日は半額の柿と特売のイチジクと、安売りのミカンと巨峰とシャインマスカットと、それにバナナと、まあ贅沢な1日でした。
これでこんなに幸せになるのですから、秋は本当にいい季節です。

ちなみに長女のユカは栗が大好きで、毎日栗を食べています。
母が元気な時には栗を毎年たっぷり送ってくれる人がいたのですが、いまはもう届きません。
節約家の娘は、安い栗が見つかるとどっさり買ってきて冷蔵庫で保管しています。
私も今日もお相伴になりましたが、今年の栗はとてもおいしいです。

でもまあ私は、イチジクと熟しすぎた柿があればそれでもう十分です。

 

 

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■貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ

STAP細胞と小保方晴子さんの「事件」にかかわる、ある人のネット記事をシェアさせてもらったおかげで、さまざまな人からコメントやアドバイスをもらいました。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10208037474490549

そのコメントの一部は、STAP細胞の存在の是非を問うものであり、私がシェアした記事は「デマ情報」に基づくものだというものもありました。また具体的な問題を指摘し、この記事の拡散は注意した方がいいというアドバイスもありました。
みなさんのご好意に感謝する一方で、戦前の日本もこうだったのだろうなとふと思いました。
まあ、それは仕方ないとして、どうも私の思いは伝わっていないなと改めて思いました。そこで、特に、情報に関する私の考えを少し書いておきたくなりました。

どんな情報にも「嘘」と「真実」が含まれているというのが私の考えです。
いわゆる「デマ情報」や「フェイクニュース」にも、です。
言い換えれば、すべての情報はデマであり、フェイクとも言えます。
逆に絶対の真理と言える情報などありません。
「1+1=2」とか「人は必ず死ぬ」というのは絶対的な真理ではないかという人がいますが、そんなことはありません。
「1+1=2」は、ある前提での思考体系のなかでの「仮定」でしかありませんし、実際に私は1+1が0になったり、5になったりする事実を体験しています。あるいは人は必ず死ぬというのも、いまの世界の中での話であり、死ななかった時代があったり、あるいはこれから人は死ななくなったりするかもしれません。いや、いまでもどこかに死なないで生きている古代人がいるかもしれませんし、もしかしたら私は未来永劫死なないかもしれません。

まあこんなことを言うと、馬鹿にされると思います。事実、以前、我孫子のクリーンセンターに協力してもらい放射能汚染された土壌の処理実験をしたことがありますが、そこで質量保存の法則に反する結果が出たため参加者のほとんどは納得しませんでした。結果を肯定的に受け止めたのは、私とその実験者(重水素水の専門家)、そしてもう一人松戸在住の人だけでした。そのおかげで、私は実験参加者の行政の人や市議会議員の信頼をかなりそこなってしまいました。しかし、どんな命題も明白な否定根拠がない限り、否定しないのが私の姿勢です。だから、来世や前世も否定しないでいるのです。

話がそれてしまいましたが、STAP細胞の話です。
私自身は、生物学にはあまり知識がないので、STAP細胞とは何かさえ理解していませんし、ましてや小保方さんがどういう経緯で、それを発見し、その存在を証明したか、その方法が適切だったのかどうか、さらに、どういう経緯でそれが否定され、どう処理されたかなどに関しても理解できていません。
新聞や雑誌情報、あるいはネット情報に書かれているのはかなり読みましたが、いろんな議論があり、私にはあまり評価能力がないので、よくわからず判断ができませんでした。

ただ言えるのは、そのいずれにも嘘もあれば真実もあるということです。
ですから、その情報の個々の真偽にはあまり興味はないのです。
しかし、一連の事件からのメッセージは私自身の生活につながっていると思うので関心は高いのです。

それに、どんな情報も、「デマ情報」という言葉で一括りに否定するのは私の信条には合いません。情報や人を「カテゴライズ」して、そのなかにあるメッセージを読み取るのがデジタル化時代の文化かもしれませんが、私にはまったく馴染めません。どんな情報にも嘘もあれば真実もある。要は、その情報から何を読み取り、自分の生き方につなげていくかが大切だと思っているのです。つまり「自分の問題」なのです。

話が長くなってきてしまいました。
一挙に私の思いに行けば、小保方さんのSTAP細胞発見発言には問題はいろいろとあったのでしょうが、まったく嘘ばかりだったのか。そこになにか新しい価値はなかったのか。もし問題があれば、なぜみんなでその問題を肯定的に補い合い、活かそうとしなかったのか。活かそうにも活かすものが全くなかったのか。そう思うのです。

私たちは、「貶(けな)すこと」や「非難」は得意ですが、支援し補う発言をする人はあまりいません。最近よく使われるようになった「支え合い」は、言葉の広がりの割には、まだまだ実践にはたどり着いてはいない。

貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ。
そのことを小保方さんの事件から私は学びたいと思うのです。
ちなみに、貶(けな)すとは貶(おとし)めることです。念のため。

繰り返しますが、情報はそれに呪縛されるものではなく、そこから何を学び自らの行動につなげていくかが大切です。その際、情報の真偽のほどはあまり重要ではありません。
どんな情報からも学べるし、学ばないこともできます。
情報の真偽の議論ももちろん大切ですが、そこで終わっては何も変わらない。情報そのものに意味があるのではなく、その情報から何を学び何に気づくのかに意味がある。

私自身は昨今の状況は「非情報化社会」と位置づけていますので、情報の呪縛から自由になろうと心がけています。

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2020/09/17

■節子への挽歌4763:退屈しきっていますが

節子

一昨日、久しぶりにメディアに出ました。
北千住にある地域インターネットテレビですが、発達障害当事者会の冠地さんに頼まれたのです。
わずか15分の出演でしたが、久しぶりに面白かったです。

そう言えば最近は人の前で話をする機会がなくなりました。
というか、生活行動範囲がどんどん狭まってきています。
以前のように、生活範囲がどんどん広がっていく感覚が持てなくなっています。
会社を辞めて、節子と一緒に個人オフィスを開き、世界が毎日どんどん広がっていた頃の高揚感はいまはありません。
さびしいといえばちょっとさびしいです。

これが人生なのかもしれません。
人生にもまた、四季のように、夏もあれば冬もある。
さびしい時もあれば、輝かしい時もある。

しかし、最近はあまりに変化がなくて、世界の風景もあまり変わらず、ちょっと退屈が過ぎている気もします。
体力を使わなくてもいいような、なにか新しい刺激がほしいですが、なかなか見つかりません。
あまりに単調な毎日に、ちょっと退屈し切っていますが、だからと言って、何か新しいことを始めようというまでには至りません。
困ったものです。

 

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2020/09/16

■節子への挽歌4762:不死の薬

節子

時評編に書いたのですが、もし「不死の薬」があっても、いまの私は飲まないでしょう。
しかし、節子がいたときには、そして2人で飲めるのであれば飲んだでしょう。
一人で生きるのはつらいですが、2人で生きるのは楽しいからです。
そこに生と死を考える上での大切な何かがありそうです。

「生きる」ということは、たぶん「人と関わる」ということです。
人との関わりが全くなければ、生き続けることは難しいように思います。

自殺は、実は実際に自らの生命を断つ前に、他者との関係を断ってしまっているのでしょう。あるいは、他者から関係を断たれてしまっている。だから自殺できるのかもしれません。そうでなければいのちを断つことなどでできないでしょう。
死と生との関係は、必ずしもコインの表裏ではないということです。

そうであれば、生きているのに死んでいる人がいるといってもいい。
死んでいるのに生きている人がいるとお言えるかもしれません。
と考えていくと、そもそも「不死」とは何かということになる。
そして「心中」ということにたどり着きます。

「心中」こそが「不死」の秘訣なのかもしれません。
またわけのわからないことを書いてしまいました。
フレデリック・ブラウンの短編集を読んだのは50年ぶりです。

どうして今も私が生きているのか、ちょっと不思議です。
私の勘違いではないと思うのですが。

 

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■もし「不死の薬」があったら、あなたは飲みますか?

一般には知られていないことですが、20世紀の最大の発明は3つあります。
生命体を透明にする薬、不死身になる薬、そして不老不死の薬です。

残念ながらちょっとした事故のゆえに、それらの発明は公開されないままに、いまはまだ埋もれていますが、事情通のフレドリック・ブラウンの報告書「未来世界から来た男」にその間の事情が書かれています。
せっかくの発明が人類みんなの財産にならなかったのもまた、よくある「ちょっとした勘違い」によるのですが、そこに神の配慮を感じないわけにはいきません。おかげで、私たちは、悪さもせずに、時々心身を痛めるドラマに悩みながら、生の退屈さから解放された、辛い人生を楽しませてもらっているのですから。

ところで、不死身になる薬がもし手に入ったら、みなさんはどうするでしょうか。
ほとんどの人は最初は飲みたいと思うでしょうが、実際に飲む段になった場合、躊躇するのではないでしょうか。
私はたぶん飲まないでしょう。
永遠の生などぞっとします。

永遠の生のおぞましさは、手塚治虫さんの「火の鳥」でも描かれていますので、手塚さんもたぶん飲まなかったでしょう。
私としては、もう少し長く生きて、「火の鳥」を完成させてほしかったですが。

話を戻せば、死があってこその生なのです。
死のない生は、退屈でしょう。

しかし、最近のコロナ騒ぎを見ていると、多くの人は死のない生を生きたいと思っているようです。
もしかしたら、不死の薬を飲むかもしれません。
私的に言えば、人間をやめたがっている。
だから人間でありつづけたい私とはコロナへの向きあい方が違ってしまうのでしょう。

ちなみに、フレドリック・ブラウンの報告書「未来世界から来た男」は、日本でも翻訳出版されています。タイムマシンの発明はかなり先になっていますが、そこから考えると、この報告書の真偽には少し疑いを感じますが。

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■安倍政権が残してくれた遺産を大事にしなければいけません

新しい自民党の4役と菅内閣の閣僚が発表されました。
コメントするとまた異論をぶつけられそうなのですが、ちょっと安心しました。
明らかにリリーフで終わりそうです。新しいメッセージが感じられません。
内心、さらに一歩「ナチス」化が進むと危惧していましたが、要するに安倍政権の亜流でしかないように思います。

分裂した野党のそれぞれの新しいメンバーも発表されましたが、何かが変わるような気がしません。
聞くところによると、山本太郎さんのれいわが資金的に苦戦しているようです。
まあとりあえずできることは、れいわへの寄金でしょうか。

今朝の朝日新聞の投書欄に、67歳の青森県在住のおばさんの「目覚めた私 安倍さんのおかげ」という声が載っていました。こういう人が多いといいのですが。全国のおばさんたちが、目覚めてくれたら、間違いなく歴史の流れは変わるでしょう。おじさんたちや若者には期待できそうもありませんが、おばさんの力には大きな期待があります。

安倍政権が残してくれた遺産を、大事にしなければいけません。

Asahikoe2

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2020/09/15

■節子への挽歌4761:死者と共に生きる

節子
サロン参加者の一人から、最近元気がないと叱られました。
痩せたのではないかとも言われました。

実際にはコロナ騒ぎ以来、外出が減り、お菓子を食べ過ぎて23キロ太ってしまい、いま減量を意識していますが、まだ体重的には2キロほど、多いのです。
痩せたといわれるのは、もしかしたら、私の生きる意欲の減退がそう感じさせているのかもしれません。
生きる気魄がなければきっと外観的にも小さく見えるのでしょう。
体重的に減量すると同時に、生きる意欲を取り戻さないといけません。
人は身体で生きているわけではないですから。

ボードリヤールの「象徴交換と死」を読み直しているのですが、そこにこんな言葉が出ていました。

人は死なねばならぬから死ぬのではない。それほど遠くない過去のある日に、意識に押しつけられたひだであるから死ぬのである。

ヴァスギャンという人の言葉だそうです。
文中に出て来るのではなく、タイトルの次に、この言葉だけが掲載されていることもあって、意味がよくわからないのですが、何やら気になる言葉です。
ヴァスギャンとは何者かも、わかりません。
しかし、死は未来にあるのではなく過去にあるというメッセージは何となく納得できます。つまり死は予知できるということです。あるいは回避できるとも言えるでしょう。

そもそも「死」とはなにか。
「象徴交換と死」でボードリヤールはこのように書いています。

未開社会から近代社会へと進むにつれて、少しずつ死者たちは実在しなくなる。死者たちは集団の象徴的循環の外へと追放される。死者たちは生者たちの集団からますます遠くへ、家庭的親密さから墓場へと追放される。

言い換えれば、未開社会にあっては、死者もまた生者と共に生きていたのです。
というように考えていくと、「生きる意欲」とは一体何なのか。

でもまあ、他者から元気がないといわれるのはやはりよくない気がします。
意識を変えなければいけません。
まあちょっと面倒ではありますが。

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2020/09/14

■節子への挽歌4760:家族の構造

節子
家の様子が一変してきています。

今日も朝から大工さんと現場監督の方がやってきて、打ち合わせをしていましたが、ともかくがっちりと作ってあるので、リフォームは大変だそうです。
この柱を抜くと上の部屋が支えられないとか、いろいろと専門的な話をしていました。
私も内部構造を見て、こんなに木材を使っているのかと驚きました。
外からは見えないところでいろんな支えが仕組まれているのです。
その要になる柱が抜かれると構造は一気に弱くなり、時に壊れてしまう。

先日撮った私の脳のMRIの写真では、脳内の血管が写っていましたが、それもどこかが急に詰まってしまうと死に至るそうです。
私の場合、写真では2本の細い血管が切れてしまっているように見えましたが、医師の説明では、徐々に細くなってきたので、周囲がなんとかしようと頑張って、血管の先に血液を流すようにみんなで頑張るようになっていると説明してくれました。
壊れ方によって、いろいろと違うようです。

家族の場合はどうでしょうか。
わが家の要は、私ではなく節子でした。
要となっていた柱が不在になって、一時は家族全体がおかしくなった。
しかし、時間をかけて遺された家族でなんとか新しい家族関係を構築してきました。

まあそういう言い方ができますが、実際には、家族は微妙なバランスで成り立っていますので、その一部がなくなれば、どうしても変質してしまう。それでいろんなほころびも生じかねない。
親子関係のゆえに、過剰な我慢や思いやりが働く一方で、親子関係であるが故の過剰な思い込みや不安も出てきます。

物質的な家屋の硬い構造と生命的な脳の柔らかな構造は全く違いますが、いずれからも、家族のあり様を考えるヒントが得られます。
節子がいなくなったあとの家族に、もし節子が戻ってきたら、どんなことになるか。
考えると面白い。
そして、もし節子でなくて、いなくなったのが私だったらどうなっているだろうかと考えるのは、もっと面白い。

今日は涼しくて肌寒いくらいです。

 

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■インベージョンの恐怖ー生きるべきか死ぬべきか

相変わらず新型コロナが話題になっています。

私にはとうの昔に終わった話なのですが、いまでもマスク着用がニューマナーだそうですし、マスクを拒否した乗客のおかげで飛行機が途中で緊急着陸したり出発が遅れたりしたりという話がつづいています。
政府は相変わらずコロナ対策を前面に出して「最優先課題」化し、国民を管理していますし、国民のほとんどもそれに便乗して、生きるのを放棄しつつあるように思います。

コロナ感染者数は発表されても、その実体はなかなか発表されません。
私が住んでいる我孫子でも、感染者数の累計と新規感染者数は発表されますが、その内容やその後の経緯などが発表されるようになったのは先週からです。
現在の入院者数は2人だそうですが、その程度がわかる内容発表です。

私が今回の新型コロナウイルスに一番注意していたのは2月から3月ですが、その後、次第に新型ウイルスのことがわかってきたので、いまではインフルエンザ程度の注意にしています。という意味は、罹ったら諦めるという程度の心配です。

しかし半年以上も、コロナ対策が最優先課題になってしまい、経済も教育も文化も、そして生活も、コロナ対策基準で制約され続けて、それが「新しい生活」などという風潮がこうまで広がってしまうとは思ってもいませんでした。
気がついてみたら、私もまたマスクを着用することが増えてきました。

幸いに湯島のサロンに集まる人たちは、さほどマスクを気にしません。
だからといって、感染に無頓着であるとも思えません。
「感染予防」問題と「マスク着用」問題とを分けて考えているだけの話です。

映画「インベージョン」を思い出します。
エイリアンの侵略を描いたSF小説を映画化した何度目かの作品ですが、今回のエイリアンはウイルスで、人体に感染し、人間の精神だけを変えていくという物語です。
一見見分けにくいのですが、感情が現れにくくなるのです。
なんだかマスクをしている人を見ると、その映画のエイリアン感染者のように思えてしまいます。

飛行機で暴れたというマスク拒否者に、いささかの共感を感ずるのは、そのせいでしょうか。その人は、エイリアンに囲まれたような恐怖感を持ったのかもしれません。
私も時々、そういう幻想に襲われることがあります。
これほど簡単に行動変容してしまうのは、エイリアン化が進んでいるに違いない。

人間はもうじき滅んでしまうと思っていましたが、すでにもうみんなエイリアンになってしまったのかもしれません。
最近どうも元気が出ないのは、そのせいなのではないか。
人間は、他者から幸せをもらって元気になる生き物だと私は思っていますが、他者がみんなエイリアンに乗っ取られてしまい、幸せがもらえなくなっているのかもしれません。
湯島のサロンに来る人たちは、まだ人間のような気がしますが、気は許せなくなりました。

「インベージョン」のエイリアンに乗っ取られた人が言うように、「お前もこちらに来れば幸せになれる」という誘いに乗った方がいいでしょうか。
ハムレットのように、迷うところです。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「生きる」とはいったいなんでしょうか。

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2020/09/13

■12日の土曜サロン報告

12日の土曜サロンは、10人が集まりました。

テーマは特になかったのですが、自民党総裁選の話から入り、国家とミツバチの話になり、話はさまざまに広がりそうで広がらない不思議なサロンでした。顔ぶれもいつもとはちょっと違い、それも新鮮でした。
始まるのも早かったですが、終わりはなんと予定よりも1時間半くらいも延びました。
そろそろ終わろうとすると誰かが発言するので、それに抗うパワーがでませんでした。

来週も同じようなオープンサロンです。

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■節子への挽歌4759:「コモンズ」意識

節子

昨日のサロンには9人の人が参加しました。
みんな比較的よく参加してくれるメンバーです。
しかし、考えてみると、節子がいた頃のサロンに参加していた人はほとんどいません。

以前のサロンと違い、最近のサロンは土日開催がほとんどです。
ということは、わざわざサロンのために出てきてくれるのです。
しかも多くの人が参加費として会費まで負担してです。

以前は、会社帰りにビールや軽食を食べようというような人もいたでしょう。
平日の夜の開催で、会費はなかったですし、節子がビールや軽食をいつも用意していたからです。
今では逆にお菓子を持ってきてくれる人もいますし、会費も時にワンコイン以上をれている人もいます。
忘れる人も多いのですが、督促もしないのに次の時に入れている人もいるようです。

サロンが終わるといまは参加者が自発的に後片付けをしてくれます。
私が頼んだわけではありません。
なかには早目に来て、用意したりトイレの掃除をしたりして来る人もいます。
実に不思議です。

椅子が古くなって壊れだしたのですが、それでは寄付しようという人まで出てきました。
見積もったら40万円もかかったので、さすがに辞退させてもらいましたが、自然とここはみんなで維持しようという「コモンズ」意識が生まれだしているのがとてもうれしいです。

湯島は実に不思議な世界です。

 

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■大坂なおみさんのメッセージ

黒人差別への抗議を込めて被害者の名前が書かれた黒マスクをつけて入場しつづけて、大坂なおみさんが全米オープンで優勝しました。
経済行為に堕したスポーツにはほとんど興味をもたない私ですが、感激しています。

大坂なおみさんの行動と発言には、大きな希望を感じます。
自分が持つ力の使い方に気づき、実際に実践した大坂なおみさんの誠実さに学びたいと思います。
だれもが「力」を持っている。それを活かすことで社会は変えられるのです。

とても元気づけられるメッセージです。
そこに大きな「愛着」を感じます。

 

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2020/09/12

■節子への挽歌4758:湯島に一人でいると心がわすまります

節子

最近は湯島に行く回数はますます減っています。
サロンを開くモチベーションが減退しているのです。
管理費や光熱費、電話料などで毎月3万円ほどの負担になりますが、これを維持するのもだんだん難しくなってきているので、売却しようと思ったりもするのですが、湯島にはやはり特別の思いがあって、踏み切れません。
それに湯島がなくなると、たぶん私と社会との接点は大きく減ってしまうでしょう。

場所といえば、もう一つ湯河原があります。
ここは年に1回くらいしか行かないのですが、荒れ放題で生活も難しいかもしれません。
ここは将来の仕事場・隠居場にする予定だったので、書籍も一時期かなり送っていますが、手入れ不足でひどい状況になっていることでしょう。
売却したくても売却できず、毎月の管理費だけが負担になっています。

最近も一度書いたことがありますが、マルチハビテーションは節子との老後計画の柱でした。今にして思えば、資金の裏付けもない夢物語だったかもしれません。
今はその付けが回ってきて、そうしたところを維持していくために資金の苦労をさせられています。
いずれも処分するのがいいことはよくわかっています。

しかしなかなか処分する気になれないのは、そこには思い出があまりにも残っているからです。
今日も午前中から湯島に来て、ボーっとしていましたが、ここで一人でいると何やらとても心が安らぐのです。今でも節子がいるような気がします。
湯河原もそうです。
湯河原にかかる費用がなければ、一泊10万円の旅館に数泊できるよと娘から言われますが、たぶんそこでは得られない何かがあるのです。

いま自宅を改造しています。
節子と共に過ごした部屋の様子は大きく変わります。
湯島はその緩衝材になるかもしれません。

サロンまでまだ1時間ありますが、引き続き無為にボーっと過ごしていようと思います。
外は雨です。

 

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■「みんなの認知症予防ゲーム」のテキストが改訂されました

京都のNPO法人認知症予防ネットが、「みんなの認知症予防ゲーム」のテキストを全面的に改訂しました。20種類のゲームの解説のほか、予防教室の進め方も書かれています。
このゲームの普及活動の象徴的な存在だった高林さんも昨年、一線から身を引き、いまは名誉理事長になっていますが、その高林さんが、このゲームを通して目指していた社会のビジョンも、冒頭に書かれています。

20年ほど前に私は高林さんに出合い、以後、ささやかながらゲームの普及を応援してきました。一昨年には、ゲームのビデオ版の制作にも関わりましたが、私よりもご高齢の高林さんの元気にはいつも教えられることがたくさんありました。

このゲームの実践者の集まりを毎月湯島でやっていたのですが、コロナ騒ぎでいまは中断していますので、このテキストの紹介もなかなかする機会がありません。
湯島にテキストやビデオを置いていますので、関心のある方は声をかけてください。

ちなみに、今度改訂されたテキストは、NPO法人認知症予防ネットで販売しています。
1200円。連絡先は次の通りです。
n.yobo.200409@gmail.com
DVDもあります(3000円ですが)。

Img200

 

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■節子への挽歌4757:朝のスタイル

節子

自宅のリフォームもあり、在宅しなければいけないこともあって、生活はますます単調になってきています。
そのため、挽歌もうっかり書かずに終わってしまうということも少なくありません。
今朝気づいたらまた2日間、書いていませんでした。

最近の私の生活は定型化しています。
朝起きるとまずはコップ一杯の水を一気飲みします。
水が嫌いな私にはこれはかなりの苦痛ですが、1週間ほど前から始めました。

つづいて節子の位牌の前の水を替え、線香をあげて、時に般若心経です。
以前はきちんと般若心経を唱えていましたが、最近は省略版です。
それからテレビ体操を10分。汗をかいてしまいます。
それから最近はダイニングに仮置きしているパソコンでメールとフェイスブックをチェックして返信。

そして朝食。まずはレタスを食べて、時に牛乳でラッシーをつくって飲み、それからコーヒーを淹れて、それを飲みながら新聞を読みます。
新聞は読むところがないので、5分もあれば終わってしまい、それから娘が起きて来るのを待ちます。
最近は、その間、メダカに餌をやります。
ここで庭の花に水をやらなければいけないのですが、この1週間はどうもその元気もなくて、さぼっています。
本来はこの時間で、挽歌を書くはずなのですが、ついついそれもさぼってしまう。
困ったものです。

まあそんなこんなしていると7時になるのですが、娘が下りてきて、朝食が始まります。
朝食と言っても、トーストなのですが、運がよければ、いろいろとついてきます。
節子の習慣で、朝の果物は必須です。
本当は卵料理も食べたいのですが、娘が朝は軽食なので、作ってもらえません。
その代わりに青汁のバナナジュースが毎日の決まりです。あんまり好みではありません。

朝食が終わると最近は5種類の薬を飲みます。
最近はこれも習慣化し、忘れることはほとんどありません。

これで朝のルーティンは終わるのですが、少しすると大工さんがやってきます。
そしてなんとなく動きが制約された1日が始まるというわけです。
まあそうはいっても、1日1回は外出するようにしています。外に行かないと落ち着かないのです。

最近、ようやくまた本を読む気が戻ってきました。
久しぶりにボードリヤールを読んだりしています。
今回の家の改造で、書籍の収納場所は1/3になりました。
まあ1000冊ほどの書籍はすでに電子データ化していますが、ほとんどの本はまだ手書きのメモがどこかに残されている程度ですので、なかなか廃棄する気になりません。
読んでいない本も少なくありません。
書籍は、読まなくとも身近に置いておくだけでも内容は伝わってくるものなのですが、書庫もなくなるので、どうしようか悩みどころです。

改装工事は10月いっぱいは続き、完了は11月前半の予定です。
今までは1階と2階の往復の生活でしたが、今度は2階中心なので、階段の上り下りが激減します。
足が弱らなければいいのですが。
まあそんな先の心配よりも、いまは夏バテを心配したほうがよさそうですが。

今日はなんだか急に涼しくなってしまいました。
1週間ぶりに湯島のサロンに行く予定です。

 

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2020/09/09

■節子への挽歌4756:自然とのつきあい

節子

最近のささやかな楽しみは、先日孵化したメダカを見ていることです。
空き瓶の中で泳ぐメダカを見ていると飽きません。

水槽を見ていると心がやすまるといわれます。
それで湯島にも一時期、メダカやエビなどを飼っていたことがありますが、節子が湯島に行かなくなり、私も毎日行くのを止めたので飼えなくなってしまいました。

自宅の水槽の魚やエビも、節子がいなくなってからはなぜか定着しなくなりました。
節子がいたころは、熱帯魚の水槽もありましたが、いまは小さな水槽しかありません。
そこにも長いこと魚は不在でしたが、この春以来、ようやくメダカが定着したのです。

定着したとえば、パピルスもようやく根付きました。
3度目の正直ですが、杉野さんからのパピルスが今度こそきちんと根付きました。
もう大丈夫でしょう。
このパピルスを見ているのも飽きない楽しみの一つです。

今までは庭の手入れは私の担当でした。
次女家族との同居で、庭の手入れも今度は次女が担当です。
長女は土があまり好きではないので、ベランダには植物を植えたくないと言っています。
同居したらどうなるでしょうか。
自然とのつきあいは、いまとは一変するかもしれません。

ちなみに、いまの1階は、アリやクモがよく歩いています。
カマキリの子どもが生まれたこともありますし、
トンボが入ってきたこともあります。
私があえて排除しないからです。

次女家族と同居したら、私は2階で暮らすので、そうはならなくなりそうです。
メダカはどうにかなりますが、バッタなどとは縁が遠くなりそうです。
自然との付き合い方も変わりそうです。

 

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■みんな広い世界を忘れてしまったのでしょうか

最近のテレビや新聞を見るにつけ、安倍政権がこんなにも国民の多くに支援されているとは思ってもいませんでした。安倍首相が辞任し、政治の流れが変わると思っていましたが、変わるどころか路線強化されそうです。

さらに嘘がはびこり、事実は改ざんされ、隠蔽が正当化され、格差は広がり、経済は悪化することはたぶん間違いないでしょう。生活実態とは無縁の経済成長率や株価といった人為的な指標は改善されるでしょうが、それらは多くの人の実際の生活とは無縁の話です。
にもかかわらず多くの人は安倍政権路線の継続を希望しています。
おそらくみんな他の世界を忘れているのでしょう。

たとえば消費税。消費税を廃止したら社会保障などの財源はどうするのかという人がいます。そういう人は消費税ありきで考えています。しかし、税は消費税だけではなく、財源を考えるのであれば、税体系全体を考えなければいけません。
消費税は再配分機能が全くありませんし、そもそも消費に課税するというのは生きていることに課税することにつながりますから、全く論理的でもありません。
何か価値を生み出したとか、利益を得たときに、その一部を税として国家に託すというのが税だと考える私には消費税はまったく理解できません。
与えられた現状で、生きることを前提にみんな生きるようになったのでしょうか。

 たとえ生きるのが大変でも嘘だけはつきたくありませんし、誰かを犠牲にしたくもありません。しかし多くの官僚のみなさんは赤木さんのメッセージを真摯に受け止めようともしない。一体何という国なのか!

3人の総裁候補の記者会見を聞きました。
石破さんの発言を平然と聞いている菅さんの厚顔無恥には驚きました。
恐らく自分のことを指摘されているのだという自覚はないのでしょう。
そんな人に雪崩をうつように寄っていく自民党党員にも驚きました。

この国の流れは、もう止められないのでしょうか。
今回の総裁選挙に「もしかしたら」という期待を持っていた私も、さすがに期待は持てなくなりました。
ただ石破さんの誠実さだけが救いです。

 

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2020/09/08

■節子への挽歌4755:今さらながらの気づき

節子

台風が通過し、秋の気配は強まっているのですが、暑さが一向に和らぎません。
今日も暑さが続いています。
大工さんも来ているので、在宅していなければいけません。

風があるので、今日は窓を全開して、エアコンなしで過ごしています。
大工さんは2階のエアコンのないところで汗だくだくで作業をしていますので、その下でエアコンの中でのうのうと過ごしていることは私にはできないのです。
昨日は大工さんがお休みでしたので、1階でエアコンをつけてテレビ三昧でしたが、今日はそういうわけにはいきません。

わが家の1階のリビングは開放的なので、四方から風が入ってきます。
だから意外と涼しいのですが、いまは荷物があふれていて、南側の窓は開けるのが難しいので締切りです。
でもまあ涼しいのです。部屋の中の温度計は30度を超していますが。

改造作業中には、大工さん以外にもいろいろな人がやってきます。
設計士の人やインテリア担当の方、さらには水道屋さんがやってきます。
まあそれなりにいろいろあるのです。
別に付き合う必要はないのですが、何かと落ち着きません。
まだ始まったばかりで、これが2か月ほど続くようです。

わが家にはお金はもちろん高価なものは何もないので、私がいなくても問題はないのですが、それでは大工さんが困るでしょう。
行動が制約されるのが、こんなに窮屈なことなのかを改めて気づかされています。
節子が元気だったころは、本当に自由に飛び回っていました。
その分、きっと節子がいろんな意味で支えてくれていたのでしょうね。

いささか遅くなりましたが、ありがとう。

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■湯島サロン「要注目!大きな歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」のご案内

今春開催した中嶋一統さんの「陰謀論」を切り口にした現代を読み解くサロンに参加した方から、「その後の情勢」を話してほしいという要請がありましたので、中嶋さんにお願いしてまたサロンを開催します。

この半年で、世界の状況は大きく変わってきていますし、さらにまたこの先、大きく変わりそうです。そこで今回は、「要注目!大きな歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」と題して、主にアメリカ大統領選を切り口に中嶋さんに話をしてもらうことにしました。

中嶋さんのサロンでは前から話題になっていたDS(ディープステート)も最近では公開の場で議論されるようになってきました。与えられた情報だけで世界を見ているとおかしなことが起こることは、最近の日本の安倍首相辞任騒ぎで思い知らされた人も多いでしょう。表層的な情報で世界を見ていては、見せられるものしか見えてきません。

今回もまた、頭を柔軟にして、世界を見ていく示唆を得るサロンにしたいと思います。

湯島で「陰謀論」を取り上げることに違和感をお持ちの方もいるようですが、中嶋さんもサロンで繰り返し話しているように、「陰謀論」という言葉を荒唐無稽なものと片づける風潮こそが、「陰謀の罠」とも言えるでしょう。

陰謀という表現には何らかの価値判断("悪い"とか“偽計”)が含まれていますが、そもそも「戦略」もまた明言されていない場合は「陰謀」と言えます。それに、どんな事件にも必ず「陰謀」、つまり隠された「意図」はあります。
ある事件や事象に隠されていることを読み解かない限り、与えられた事実をそのまま受け止め、意図されたように動かされる羽目にもなりかねません。
断片的な事実の奥にある物語を考えることは世界の理解を深めます。

というわけで、「陰謀」という言葉に惑わされずに、世界を見る目を養うという思いで参加していただければと思います。

〇日時:2020年9月27日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「要注目!大きな歴史の分岐点になる米大統領選の読み方」
〇話題提供者:中嶋一統さん(「陰謀論」研究家/話し方教室主宰/ヒット商品企画)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

 

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2020/09/07

■節子への挽歌4754:バカであっては生きる価値がないが、バカでないと生きられない

節子

時評編で報告しましたが、昨日、湯島で「安倍首相辞任表明で思うこと」をテーマにサロンをやりました。
12人の参加者があり、予定を超えて話し合いがつづきました。
しかし、報告に書いたように、空しさだけが残りました。
安倍首相の人気も上昇し、安倍さんが「かわいい」という若者にも昨日、会いました。サロンで、ではありません。
こんな人たちと同じ時代を生きていると思うだけで、元気が失われそうです。

テレビの報道番組やわけのわからないコメンテーターやタレントの発言を聞くとますます嫌気がさすので、最近はテレビではドラマや映画しか見ないようにしています。
しかし、そうしたところでもまた、腹立たしい話が多いのです。
汚染された組織、独りよがりの正義感、上司の指示で動く隷従者、ばかげたルール…。

そしてフェイスブックを読むと、さらに馬鹿げた話ばかりです。
かつて大宅壮一が「一億総白痴化」という言葉を使いましたが、まさに現在の日本国民はそういってもいい気がします。

身体的には調子は戻ってきましたが、そんなわけで気分的には相変わらず元気になれません。
サロンをやるたびに、空しさも増えてくる。
自分がどんどん社会から脱落してきているのを思い知らされるのは、あんまり気分のいいことではありません。

今日はついつい2つのテレビドラマ(2時間モノのサスペンスドラマ)と2本に映画(「片目のジャック」と「オデッサ・ファイル))を観てしまいました。
バカでないと生きられない。しかし、バカであっては生きる価値がない。
そんなことを感じた1日でした。

念のために言えば、ここでの「バカ」は悪い意味で使っています。

 

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■緊急サロン「安倍首相辞任表明に感じたこと」報告

「安倍首相辞任表明に感じたこと」をテーマに自由に話し合うサロンには12人の参加がありました。
女性の参加がなかったのがとても残念でした。

安倍首相が辞任した理由に関しては、病気が理由ではないと思っている人が多かったようです。病気は便利な口実だったというわけです。
突然の辞任のようになっていますが、かなり仕組まれた辞任だったのではないかという意見もありました。
新しい首相に関しても多くの人はもう決まっていると思っているようです。つまり何も変わらないだろうということです。

にもかかわらず、安倍さんが辞めてよかったという人もいました。その人にとっては、安倍首相は悪夢でしかないのでしょう。
しかし、日本の国民の多くは、安倍首相に辞めてほしくなかったのでしょう。
安倍辞任表明で、安倍政権への評価が一気に高まったのはその証左です。これは安倍首相の後継者には、大きな意味を持っています。

それにしてもこういう世論はどうして生まれたのか。
その関係で、報道関係の話もかなり出ました。そこには世に言うコメンテーターの役割の話もありました。
さらには学校教育の話もだいぶ出ました。経済や金融の話も出ました。
しかし、基本的には多くの人が、安倍政権政治のおこぼれにあずかっているということだろうと私は思います。

話し合いはいろいろと広がりましたし、いろんな発言もありましたが、にもかかわらず、私には何となく「盛り上がり」にかけていたような気がしました。
日本の国民の多くが、安倍政権政治、つまり隠蔽と改竄と世論無視の政治の維持を望んでいることが示され、実際にもその政治が継続される、場合によっては強化されることがほぼ確実になってしまった状況が大きく影響しているのではないかと私かは勝手に思いながら、私自身も元気の出ない話し合いになっているのに気づきました。

本筋とは少し外れるのですが、「家族への愛着」という話が出ました。
最初の発言者は、家族への愛着に否定的でした。では何に「愛着」を持つのか、あるいはもはや「愛着を持つ」ことそのものが失われ出しているのか。
今回は、そこでその話し合いは終わったのですが、いま考えると、ここにこそ大きなヒントがあるのかもしれないと思います。

政治の出発点は「愛着」なのではないか。
「政治と愛着」。
今度、このテーマでサロンをやりたいと思います。

それにしても安倍首相は辞任しても、安倍政権はほとんど総括されることなく、この政治状況を国民の多くは嬉々として受け入れつづける。
参加者の一人が、地震と同じく、どこかで抑えられたエネルギーが大きく反発して、社会は変わるという話をしていましたが、抑えられているのではなく、みんな従順に隷従しているように思えて、私にはあまり期待が持てません。

終わった後、大きな空しさが残ったサロンでした。

Abejinin200906

 

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2020/09/06

■節子への挽歌4753:人生最後の喜びは、死によってもたらされる

節子

今日の時評編に「知者の喜び」と題して、海洋学者のペテルソンの言葉を紹介しました。
ペテルソンが死を意識した時に息子に語った言葉です。

死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね。 

死後の世界は実に興味深い。

向うに行ったら向うの様子を伝えてほしいと節子にきちんと頼まなかったのが悔やまれますが、一度、篠栗の庄崎さんを通して、向こうの世界の節子の様子を教えてもらったことがあります
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/04/post_2f7d.html
何となく予想していたのとつながりましたが、間接的でしたので、違和感もありました。
やはり自分で直接体験してみたいという思いを強めました。

そういうことを考えれば、死はあまり恐ろしいものではなくなります。
私の場合は、そこに節子がいるということもあるので、いつ死んでもいいという思いが根底にあります。
しかし、そうはいっても、私の周りには節子だけではなく、娘もいれば仲間もいる。
そうした人たちへの迷惑はできるだけ避けたいので、それなりに死のタイミングは考えなければいけません。

死後の世界を見たいからと死を急ぐわけにもいきません。
現世はもう見残したところはあまりありません。
パルミュラ遺跡は行きたかったですが、ISが壊してしまった。
エジプトはもう一度行きたかったですが、もう無理でしょう。
そう考えれば、もう見残したところはありません。
そうなるとますます死後の世界が魅力的に感じます。

死んでしまえば、すべてがなくなるという人がいますが、そう思う人はもう既に存在していないとしか私には思えません。
知らない世界、わからない世界を、否定してしまうほどの知ったかぶりの偽の知者にはなりたくないと思います。

人生最後の喜びは、死によってもたらされるのです。

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■知者の喜び

昨日は「知者の無知」について書きましたが、無知であることは「無上の喜び」につながるばかりか、生の平安にもつながります。

1週間前にEテレの「こころの時代」で上藤恵子さんがレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を紹介していましたが、その最後のナレーションに、同書の最後に紹介されているスウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンの言葉が流れていました。
私はすっかり忘れていたのですが、私の思いと同じなので今回はしっかりと記憶に残りました。
念のために、「センス・オブ・ワンダー」も確認しましたが、たしかに紹介されています。

ペテルソンが残した言葉は、死を意識した時に息子に語った言葉です。
「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」。 

私が死に対してそれを感じないのは、ペテルソンと同じ好奇心です。
私の友人には、死ですべては無になるという人が少なくないですが、そういう人にとっては死は喜びにはつながらないでしょう。
死によってすべては終わるという「近代科学的知識」に呪縛されて、それ以外のことが見えていないのです。
死後の世界のことに関して私は全く知りません。
しかし、何も感じていないわけではなく、
知ることよりも大切なのは感ずること、というのも、たしかカーソンの考えでした。

死後の先に何があるかわからないのであれば、知りたくなる。
それが無知に価値を置く知者の生き方でしょう。

知らないことは知る喜びを与えてくれる。
死の先に大きな期待があれば、死を恐れる必要はありません。

知者でありたいと、私が思う所以です。
決して知識人にはなりたくありません。

 

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2020/09/05

■「知者ほど無知」

今朝の挽歌にも書いたことですが、血液サラサラ薬騒動でいろんなことに気づかせてもらいました。
その一つが「知者ほど無知」というソクラテスのメッセージです。
ソクラテスがそんなことを言ったのかどうかは確かではありませんが、私が勝手にソクラテスから受け止めているメッセージです。

生命現象は実に不思議です。
いまだなお人智の及ぶところではないことが多いでしょう。
近代の科学技術は生命現象の一部を可視化してくれましたが、逆に生命現象を可視化された世界に限定しがちです。つまり「知者ほど無知」というジレンマがそこにある。医師と話していて、それを強く感じます。

何かを知ることは何かを見えなくすることでもある。
湯島のサロンでみんなの話を聞いていて、いつも痛感することです。
もちろん私にも当てはまります。
私自身は以前からずっと「知識」から自由に思考するというように心がけてきていますが、時に知識をひけらかしてしまい、後で自己嫌悪に陥ることは多いです。

サロンを終わって、自らの無知の世界が広がった時にはとても充実感が生まれます。
「知る」ということは何か「知識」を得ることではなく、「知らない世界の存在」に気づくことかもしれません。知らないことに気づかせてくれるのが知識かもしれません。ソクラテスの「無知の知」を知るということです。

そう考えると、知者とは「知識」を持つ人ではなく「無知の世界」の広い人かもしれません。いささかややこしいですが、知らないことを知ることこそが知ることの醍醐味なのです。知れば知るほど、知らない世界が広がっていく。

他者とのコミュニケーションにとって「知識」は両刃の剣です。知識がないとコミュニケーションできないこともあれば、知識がコミュニケーションを邪魔することもある。
このことに気づいたのは大学生の時ですが、それから半世紀以上生きてきたのに、そのジレンマを克服する術が見つけられずにいます。

ちなみに不思議なのは生命現象だけではありません。
社会現象もまた不思議です。
いや、社会現象もまた生命現象と捉えることもできるでしょう。

いずれにしろ世界は不思議で満ち溢れています。
科学技術は、それを退屈な機械的世界へと単純化してしまった。
それでは世界は見えなくなる。

歳をとる効用のひとつは、知らないことの世界を楽しめることかもしれません。
人が知りうることが、いかに狭い世界にとどまっているかの体験を繰り返していると、知らないことを軸に生きることが自然と身についてくるような気がします。
毎日、知らないことを楽しむ生き方だけはかなり身についています。
なにしろ世界は私にとっては、無知の大陸です。

暑さで心身ともに萎えていました。
そろそろそこから抜け出そうと思います。

 

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■節子への挽歌4752:知者ほど無知

節子

昨日病院で再検査をしましたが、結局は血液凝固防止薬を飲むことにしました。
MRIでとった脳の写真を見せられて、薬を飲みたくないという要望も一蹴されました。
もっとも私に反論ができなかっただけで、納得できたわけでもないのです。
血液本来の性質を意図的に制約するのは基本的にあまり納得できません。

それに2か月ごとに経過検査もすることになりました。
まあこれで私も現代の高齢者になれそうです。
しかし血が止まりにくくなりそうなので、出血しないように注意しなければいけません。

生命現象は実に不思議です。
いまだなお人智の及ぶところではないことが多いでしょう。
つまり「知者ほど無知」というジレンマがそこにある。

「知者ほど無知」ということは、最近ますます確信が強まっています。
何かを知ることは何かを見えなくすることでもある。
湯島のサロンでみんなの話を聞いていて、いつも痛感することです。
もちろん私にも当てはまります。

私自身は以前からずっと「知識」から自由に思考するというように心がけてきていますが、時に知識をひけらかしてしまい、後で自己嫌悪に陥ることは多いです。
幸いに私の場合、あんまり記憶力がよくないばかりか、知識を他者に伝えるのが我ながら不得手です。
でも時に「知識」に頼ってしまうことがあり、知識がシェアされていないことにいらだちを感ずることもあります。
勝手なものです。

他者とのコミュニケーションにとって「知識」は両刃の剣です。
知識がないとコミュニケーションできないこともあれば、知識がコミュニケーションを邪魔することもある。
このことに気づいたのは大学生の時ですが、それから半世紀以上生きてきたのに、そのジレンマを克服する術が見つけられずにいます。

今日は朝から、何やら難しいことを書いてしまいました。
風が爽やかだったこともありますが、疲れがちょっと回復したおかげかもしれません。

今日も朝から大工さんが来て、家の改造工事をしています。
本当は手伝いたいのですが、現代の文化ではかえって迷惑でしょう。
リフォームを通じて、何やら不思議な時代になっているのに気づかされます。

 

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2020/09/04

■節子への挽歌4751:また指を切ってしまいました

節子

昨日また手の指を危うく切り落としそうになりました。
庭中に広がった琉球朝顔の整理を始めたのですが、広がりすぎたところを面倒になってバサッと切り取ることにしたのです。
それで枝切はさみで茂みに立ち向かったのですが、手が滑って自分の指を切ってしまいました。

手袋もしていなかったので、みごとに1センチくらいが深く切られてしまい、また鮮血が噴出しました。
なにしろ買ったばかりでよく切れるのです。

慌ててユカに手入れしてもらいましたが、切った途端に指を強く抑えたのが功を奏し、大事にはなりませんでした。
しかしまた部屋の床にまで血が垂れてしまい、一見大事になったのです。
いつも思いつきで準備なしに無茶をするのはやめろとまた娘に叱られました。
命日なのに節子も呆れているよとも言われました。
困ったものです。

性分は直りません。
まあ直らないから性分なのですが。

幸いに迅速の手当のおかげで、血はすぐに止まり、夜に包帯を変えたときにはもう大丈夫そうでした。痛みもありません。

節子がいなくなってからの14年目が始まりましたが、あんまりいいスタートではありません。
今日はまた病院でMRIをとる予定ですし。

 

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2020/09/03

■節子への挽歌4750:真紅のバラの花束

節子

今日は節子の14回目の命日です。
ちょうどその日に家の改装が始まりました。
節子の世界がまた少し消えていきます。

8時過ぎには工事関係の人たちがやってきたので、バタバタしていて、位牌壇を整える間もありませんでした。
お店の開店に合わせてユカが花を買いに行ったのですが、その間に花が届きました。
昨年の13回忌を機に、命日の供花は基本的にお断りし、まあ気楽に家族で会食することにしていたのですが、思わぬ人からの花でした。
節子も知っている升田淑子さんからの真紅のバラの花束です。

メッセージが入っていました。

宇宙は愛なり
愛は宇宙なり

宇宙は花園なり

花に想いあり
花に集いあり
花に和みあり

花に愛あり
花に宇宙あり

最近、升田さんとのメールのやり取りで、そこに込められたメッセージが伝わってきます。

ちなみに、真紅のバラは、節子の好みでした。
節子が湯島に行けなくなった時に、湯島の部屋の入口に造花を残しました。
それが真紅のバラと純白のカスミソウでした。
カスミソウはなくなりかけていますが、バラはいまもしっかりと残っています。
玄関は暗いので、時に生花と間違える人もいます。
升田さんは、湯島に来るたびに、きっとそれを見ていたのでしょう。

今日は命日ですが、終日工事なので、お墓参りは夕方になりそうです。
お墓参りが終わったら、家族で食事でもしようと思います。

 

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2020/09/02

■節子への挽歌4749:明日からリフォームの工事が始まります

節子

少し暑さはやわらぎましたが、湿度が高く、じっとりした1日でした。
明日は節子の命日ですが、明日からリフォーム工事が始まるので、まずは工事にかかる3つの部屋を完全に空にしました。
ほとんどやっていたはずなのに照明器をはずすとかカーテンをはずすとか、結構最後が大変でした。汗びっしょりになりました。
それで節子の位牌壇を飾る余裕がなくなりました。
明日の朝、花は買いに行きましょう。

部屋にあったものをすべてなくすと、部屋が意外と広いのに驚きます。
狭い仕事場の壁一面の書棚から書籍をすべて出し、その向かい側に置いていた書棚も部屋の外に出したら、結構広いのです。

モノが世界を狭くしていたのです。
ふと知識もまた世界を狭くするなと思いました。

リフォームの過程で気づいたことは多いですが、その実際の作業が節子の命日から始まるということにも不思議なものを感じます。
予定では、もう始まっているはずだったのですが。

結婚して家を出ていた娘の部屋も今回改装の対象です。
ここもベッドとかいろんなものの倉庫になっていた感がありましたが、すべてを撤去するとここもまたイメージが変わります。

今回の改装は、できるだけ活かせるものは活かして、雰囲気も残そうと考えていますが、どうもそれは難しそうです。
世界がまた変わるかもしれません。
変わらないかもしれませんが。

20200903 20200903

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■コロナ管理社会の先にある世界

最近文庫本になって出版された半藤一利さんの「世界史のなかの昭和史」を読みました。
2か所、とても印象的だったところがあります。
一か所は「愛国心」についてですが、それにつながるような話として、半藤さんはナチス・ドイツと同じような道を日本人は歩んでいるのではないかという懸念を話しています。
こんな風にです。

 “自主的な通報、密告のネットワーク”の脅威。戦争というものはそういう国民の協力があって推進されるものです。それがいいことだと、思考を停止し、信じこむ。集団化された人びとは熱にうかされやすい。画一的で、異質を排除する不寛容の傾向をもち、ときには暴力性をはらむ。共謀罪という法律が、「核兵器もアベノミクスも」と主張する人びとに想像以上に妙な力を与え、危機克服のためにナチス・ドイツと同じような道を日本人に選ばせるようなことが…いやいや、まさかとは思うのですが。

安倍政権への支持率が急上昇し、ナチス路線をとるグループによって、安倍政権の継続がほぼ決められました。「まさか」と思いたいですが、かなり現実感があります。現政権によるナチスの研究はかなり進んでいるようですし。

半藤さんの友人のドイツ国防軍研究の第一人者の大木毅さんは、その著書で、こう書いているとの紹介もありました。

国民の多くの『自主的』な通報、密告のネットワークが、ゲシュタポ(国家警察)の捜査活動を支えたのであった。この例が端的に示すように、ヒトラーは彼の戦争を遂行するにあたり、さまざまな問題をはらみながらも国民の支持を獲得しうる国内体制を固めていたといえる。だとするならば、『ヒトラーの戦争』は、ドイツ人の戦争としても読み解かねばならないだろう。(『灰緑色の戦史』)。

ますます自分の生き方をしっかりと考えなければいけなくなりました。

半藤さんの「世界史のなかの昭和史」は面白いです。
安倍首相にだけ目を奪われていると、世界が見えなくなります。

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■コロナウイルスに行動の判断基準の座を与えたくない

友人がFBにこんな投稿をしていました。

コロナ禍で友人と直接会うことが極端に減りました。
最初は寂しいなと思いましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。
会うのが億劫で面倒くさいなとさえ思うようになりました。
会わないのが当たり前になっています。
慣れは怖いですね。
一種の「自閉症」かもしれません。
「いつか」「そのうちに」なんて言っていたら、生きているうちにもう会えないかもしれません。
「いつまでも」いのちがあるわけではありません。

よくわかります。
「今ではすっかり慣れてしまいました」というところに恐ろしさを感じます。
慣れてしまった、という意識さえも消えてしまいそうなのが心配です。
言うまでもありませんが、この投稿者は決して慣れてなどはいませんが。

私も、週2回は湯島や地元などでの集まりを続けていますが、以前に比べれば、人に会う機会は激減しました。特に夜の集まりはほとんどなくなりました。
私自身はコロナウイルスは風邪と同じだと思っているのですが、他者にうつしてはいけないという思いはあって、ついついこちらからの誘いは自重してしまいます。

同級生が病気で入院しました。すぐに見舞いに行きましたが、コロナの関係で面会はできないと言われました。
しかし、これには納得できずに、医師に頼んで面会させてもらいました。たまたま彼は個室だったのと命の危険があったので許可がもらえましたが、その時につくづく思いました。
何が大切かは、やはり自分で決めなければいけないと。
同級生にも声をかけて、その後何回か病院で、退院後は彼の自宅で、数名で集まりました。
彼は1か月ほど前に亡くなりましたが、悔いのない見送りができました。

コロナのために死に水もとれないというのは、どう考えても、おかしいです。
そういうことの積み重ねが、人間をおかしくしていく。
人生にはリスクはつきものです。
しかし行動の優先順序を決めるのは、自分です。誰かが決めたルールや世間の空気であってはなりません。もちろん自分勝手ではなく、他者のことも考えた上での話ですが。

コロナウイルスに、そうした行動の判断基準の座を与えてしまうことは私にはできません。それでは、いつも誰かのせいにして責任逃れしてきた安倍首相と同じになってしまう。
最近の国民の多くは、みんな安倍さんのようになってきてしまったと思えてなりません。
そろそろコロナウイルスのせいにする生き方から抜け出てほしいと思います。

また病気のせいにして責任放棄した安倍さんの生き方を見て、絶対にそうならないようにしようと思っています。

 

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■第2回益田サロン「モノづくりと臨場の知」報告

細菌学者の益田昭吾さんによるサロンの2回目のテーマは「モノづくりと臨場の知」。
細菌学や感染症とどうつながるのか、と思った人も多かったと思います。
しかし、病原菌史観?を持つ益田さんにとっては、何の違和感もないのです。

益田さんは、新聞の折り込みチラシや牛乳パックなど、廃棄される紙を材料にして、さまざまな手作り作品を創っています。
今回は、その作品をたくさん持ってきてくれ、まずは参加者で遊んでもらったり、その構造を知ってもらうために壊してもらったりしながら、その過程で気づかされる知を踏まえて、自らが得た「臨場の知」の話をしてくれました。

最初に取り組まされたのは「メビウスの輪」をつかっての簡単な課題でしたが、それが簡単のようでなかなか難しい。
ともかくやってみることで、解決策を言葉で説明することのむずかしさを思い知らせてくれました。逆に言えば、言葉でいくらていねいに説明されても、なかなか正解にはたどり着けない。それを身をもって体験させてくれたわけです。
体験するには、興味をもたなければいけません。紙で作ったコマを見て、それを自分で作りたいと思うかと問われたので、私は作りたくないと正直に答えたら、もうその時点で臨場の知への道が閉ざされると叱られました。
そして作る気がないのなら、コマを壊してみたらと勧められました。幸いに私は壊すことは大好きなので、壊しましたが、そのおかげでコマの構造やなぜうまく回るのかを考えるヒントが得られました。

次に手づくりぶんぶんゴマです。うまく回らない人が多かったのですが、どうしたら回るようになるかを、体験させてくれました。益田さんが持参したぶんぶんゴマは一見完成されたようでしたが、実は未完成のものでした。益田さん自身がいろいろと試してみて、行き着いた過程をミニ体験させてくれました。
まあそんな風にして、いろんな話をしてくれました。紙とんぼも面白かったです。

それに合わせて、母性と父性、常在性と病原性、保守と革新などの話が出てきて、病原体や感染症にもつながっていきました。
お金や生産性の話も出てきましたが、臨場の知と言語の知とがなかなかつながらず、ちょっと私には消化不良でしたが、逆に言えば、臨場の知と言語の知の対話のむずかしさを教えられた気がします。

最近の子どもたちの遊びの話も出ましたが、電子ゲームなどの広がりで、手づくりおもちゃで遊ぶという臨場の知を育てる場がなくなってきたなかで、益田さんの手づくりおもちゃの効用は大きいと思いました。
益田さんは、昨年までは手づくりおもちゃのワークショップもしていたそうですが、コロナ騒ぎでやめになっているそうです。
もしどなたか子どもたちを対象にしたそうしたワークショップをやりたい方がいたら、ぜひ益田さんに声をかけてください。大人でももちろんいいですが。

最後に最近のコロナ感染症に関する話もちょっと出ました。新型コロナも、生き残るためには常在菌化するだろうという話が私にはとても印象的でした。彼らも一生懸命に生きようとしていることをもっと理解したいと改めて思いました。

なお湯島には益田さんのつくった手づくりおもちゃがありますので、関心のある人は湯島に来た時に言ってくだされば、差し上げます。おもちゃ作りワークショップをご希望の方はいつでも益田さんをご紹介します。まあ受けてくれるかどうかは、保証できませんが。

Masuda20200829

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2020/09/01

■節子への挽歌4748:人にとって何が大切か

節子

あなたもよく知っている渕野さんがFBでこんなことを書いていました。

コロナ禍で友人と直接会うことが極端に減りました。
最初は寂しいなと思いましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。
会うのが億劫で面倒くさいなとさえ思うようになりました。
会わないのが当たり前になっています。
慣れは怖いですね。
一種の「自閉症」かもしれません。
「いつか」「そのうちに」なんて言っていたら、生きているうちにもう会えないかもしれません。
「いつまでも」いのちがあるわけではありません。

とても共感できます。

渕野さんは、自分自身ががんでいつどうなるかわからない状況の中を、実に精力的に人と会い続けていました。
幸いに5年間を過ぎた今も元気で、一応、がんの心配からは解放されましたが、その彼が書いている言葉には説得力があります。

実は渕野さんから呼びかけで、8月の初めに数名の会食を予定していましたが、感染者数が急増してきたため、彼の決断で直前に延期されました。
たぶん参加者を気遣ったのだと思います。

その記事に、他の人が還暦祝いに同窓生で会おうと思っていたが延期になったと書いていました。
こういう人も少なくないでしょう。
なにしろ今年の夏は、お盆のお墓参りで故郷に帰ることさえが回避されました。
私たちの生活をコロナ騒ぎがおかしくしているのです。
どう考えてもおかしな話です。

マスコミが異常に騒ぎ立て、みんなを委縮させている現状の先に、私は大きな不安を感じます。
人にとって何が大切か。
それを思い出さなければいけません。

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