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2020/09/02

■コロナウイルスに行動の判断基準の座を与えたくない

友人がFBにこんな投稿をしていました。

コロナ禍で友人と直接会うことが極端に減りました。
最初は寂しいなと思いましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。
会うのが億劫で面倒くさいなとさえ思うようになりました。
会わないのが当たり前になっています。
慣れは怖いですね。
一種の「自閉症」かもしれません。
「いつか」「そのうちに」なんて言っていたら、生きているうちにもう会えないかもしれません。
「いつまでも」いのちがあるわけではありません。

よくわかります。
「今ではすっかり慣れてしまいました」というところに恐ろしさを感じます。
慣れてしまった、という意識さえも消えてしまいそうなのが心配です。
言うまでもありませんが、この投稿者は決して慣れてなどはいませんが。

私も、週2回は湯島や地元などでの集まりを続けていますが、以前に比べれば、人に会う機会は激減しました。特に夜の集まりはほとんどなくなりました。
私自身はコロナウイルスは風邪と同じだと思っているのですが、他者にうつしてはいけないという思いはあって、ついついこちらからの誘いは自重してしまいます。

同級生が病気で入院しました。すぐに見舞いに行きましたが、コロナの関係で面会はできないと言われました。
しかし、これには納得できずに、医師に頼んで面会させてもらいました。たまたま彼は個室だったのと命の危険があったので許可がもらえましたが、その時につくづく思いました。
何が大切かは、やはり自分で決めなければいけないと。
同級生にも声をかけて、その後何回か病院で、退院後は彼の自宅で、数名で集まりました。
彼は1か月ほど前に亡くなりましたが、悔いのない見送りができました。

コロナのために死に水もとれないというのは、どう考えても、おかしいです。
そういうことの積み重ねが、人間をおかしくしていく。
人生にはリスクはつきものです。
しかし行動の優先順序を決めるのは、自分です。誰かが決めたルールや世間の空気であってはなりません。もちろん自分勝手ではなく、他者のことも考えた上での話ですが。

コロナウイルスに、そうした行動の判断基準の座を与えてしまうことは私にはできません。それでは、いつも誰かのせいにして責任逃れしてきた安倍首相と同じになってしまう。
最近の国民の多くは、みんな安倍さんのようになってきてしまったと思えてなりません。
そろそろコロナウイルスのせいにする生き方から抜け出てほしいと思います。

また病気のせいにして責任放棄した安倍さんの生き方を見て、絶対にそうならないようにしようと思っています。

 

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