■節子への挽歌4762:不死の薬
節子
時評編に書いたのですが、もし「不死の薬」があっても、いまの私は飲まないでしょう。
しかし、節子がいたときには、そして2人で飲めるのであれば飲んだでしょう。
一人で生きるのはつらいですが、2人で生きるのは楽しいからです。
そこに生と死を考える上での大切な何かがありそうです。
「生きる」ということは、たぶん「人と関わる」ということです。
人との関わりが全くなければ、生き続けることは難しいように思います。
自殺は、実は実際に自らの生命を断つ前に、他者との関係を断ってしまっているのでしょう。あるいは、他者から関係を断たれてしまっている。だから自殺できるのかもしれません。そうでなければいのちを断つことなどでできないでしょう。
死と生との関係は、必ずしもコインの表裏ではないということです。
そうであれば、生きているのに死んでいる人がいるといってもいい。
死んでいるのに生きている人がいるとお言えるかもしれません。
と考えていくと、そもそも「不死」とは何かということになる。
そして「心中」ということにたどり着きます。
「心中」こそが「不死」の秘訣なのかもしれません。
またわけのわからないことを書いてしまいました。
フレデリック・ブラウンの短編集を読んだのは50年ぶりです。
どうして今も私が生きているのか、ちょっと不思議です。
私の勘違いではないと思うのですが。
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