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2020/09/18

■貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ

STAP細胞と小保方晴子さんの「事件」にかかわる、ある人のネット記事をシェアさせてもらったおかげで、さまざまな人からコメントやアドバイスをもらいました。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10208037474490549

そのコメントの一部は、STAP細胞の存在の是非を問うものであり、私がシェアした記事は「デマ情報」に基づくものだというものもありました。また具体的な問題を指摘し、この記事の拡散は注意した方がいいというアドバイスもありました。
みなさんのご好意に感謝する一方で、戦前の日本もこうだったのだろうなとふと思いました。
まあ、それは仕方ないとして、どうも私の思いは伝わっていないなと改めて思いました。そこで、特に、情報に関する私の考えを少し書いておきたくなりました。

どんな情報にも「嘘」と「真実」が含まれているというのが私の考えです。
いわゆる「デマ情報」や「フェイクニュース」にも、です。
言い換えれば、すべての情報はデマであり、フェイクとも言えます。
逆に絶対の真理と言える情報などありません。
「1+1=2」とか「人は必ず死ぬ」というのは絶対的な真理ではないかという人がいますが、そんなことはありません。
「1+1=2」は、ある前提での思考体系のなかでの「仮定」でしかありませんし、実際に私は1+1が0になったり、5になったりする事実を体験しています。あるいは人は必ず死ぬというのも、いまの世界の中での話であり、死ななかった時代があったり、あるいはこれから人は死ななくなったりするかもしれません。いや、いまでもどこかに死なないで生きている古代人がいるかもしれませんし、もしかしたら私は未来永劫死なないかもしれません。

まあこんなことを言うと、馬鹿にされると思います。事実、以前、我孫子のクリーンセンターに協力してもらい放射能汚染された土壌の処理実験をしたことがありますが、そこで質量保存の法則に反する結果が出たため参加者のほとんどは納得しませんでした。結果を肯定的に受け止めたのは、私とその実験者(重水素水の専門家)、そしてもう一人松戸在住の人だけでした。そのおかげで、私は実験参加者の行政の人や市議会議員の信頼をかなりそこなってしまいました。しかし、どんな命題も明白な否定根拠がない限り、否定しないのが私の姿勢です。だから、来世や前世も否定しないでいるのです。

話がそれてしまいましたが、STAP細胞の話です。
私自身は、生物学にはあまり知識がないので、STAP細胞とは何かさえ理解していませんし、ましてや小保方さんがどういう経緯で、それを発見し、その存在を証明したか、その方法が適切だったのかどうか、さらに、どういう経緯でそれが否定され、どう処理されたかなどに関しても理解できていません。
新聞や雑誌情報、あるいはネット情報に書かれているのはかなり読みましたが、いろんな議論があり、私にはあまり評価能力がないので、よくわからず判断ができませんでした。

ただ言えるのは、そのいずれにも嘘もあれば真実もあるということです。
ですから、その情報の個々の真偽にはあまり興味はないのです。
しかし、一連の事件からのメッセージは私自身の生活につながっていると思うので関心は高いのです。

それに、どんな情報も、「デマ情報」という言葉で一括りに否定するのは私の信条には合いません。情報や人を「カテゴライズ」して、そのなかにあるメッセージを読み取るのがデジタル化時代の文化かもしれませんが、私にはまったく馴染めません。どんな情報にも嘘もあれば真実もある。要は、その情報から何を読み取り、自分の生き方につなげていくかが大切だと思っているのです。つまり「自分の問題」なのです。

話が長くなってきてしまいました。
一挙に私の思いに行けば、小保方さんのSTAP細胞発見発言には問題はいろいろとあったのでしょうが、まったく嘘ばかりだったのか。そこになにか新しい価値はなかったのか。もし問題があれば、なぜみんなでその問題を肯定的に補い合い、活かそうとしなかったのか。活かそうにも活かすものが全くなかったのか。そう思うのです。

私たちは、「貶(けな)すこと」や「非難」は得意ですが、支援し補う発言をする人はあまりいません。最近よく使われるようになった「支え合い」は、言葉の広がりの割には、まだまだ実践にはたどり着いてはいない。

貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ。
そのことを小保方さんの事件から私は学びたいと思うのです。
ちなみに、貶(けな)すとは貶(おとし)めることです。念のため。

繰り返しますが、情報はそれに呪縛されるものではなく、そこから何を学び自らの行動につなげていくかが大切です。その際、情報の真偽のほどはあまり重要ではありません。
どんな情報からも学べるし、学ばないこともできます。
情報の真偽の議論ももちろん大切ですが、そこで終わっては何も変わらない。情報そのものに意味があるのではなく、その情報から何を学び何に気づくのかに意味がある。

私自身は昨今の状況は「非情報化社会」と位置づけていますので、情報の呪縛から自由になろうと心がけています。

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