■節子への挽歌4761:死者と共に生きる
節子
サロン参加者の一人から、最近元気がないと叱られました。
痩せたのではないかとも言われました。
実際にはコロナ騒ぎ以来、外出が減り、お菓子を食べ過ぎて2~3キロ太ってしまい、いま減量を意識していますが、まだ体重的には2キロほど、多いのです。
痩せたといわれるのは、もしかしたら、私の生きる意欲の減退がそう感じさせているのかもしれません。
生きる気魄がなければきっと外観的にも小さく見えるのでしょう。
体重的に減量すると同時に、生きる意欲を取り戻さないといけません。
人は身体で生きているわけではないですから。
ボードリヤールの「象徴交換と死」を読み直しているのですが、そこにこんな言葉が出ていました。
人は死なねばならぬから死ぬのではない。それほど遠くない過去のある日に、意識に押しつけられたひだであるから死ぬのである。
ヴァスギャンという人の言葉だそうです。
文中に出て来るのではなく、タイトルの次に、この言葉だけが掲載されていることもあって、意味がよくわからないのですが、何やら気になる言葉です。
ヴァスギャンとは何者かも、わかりません。
しかし、死は未来にあるのではなく過去にあるというメッセージは何となく納得できます。つまり死は予知できるということです。あるいは回避できるとも言えるでしょう。
そもそも「死」とはなにか。
「象徴交換と死」でボードリヤールはこのように書いています。
未開社会から近代社会へと進むにつれて、少しずつ死者たちは実在しなくなる。死者たちは集団の象徴的循環の外へと追放される。死者たちは生者たちの集団からますます遠くへ、家庭的親密さから墓場へと追放される。
言い換えれば、未開社会にあっては、死者もまた生者と共に生きていたのです。
というように考えていくと、「生きる意欲」とは一体何なのか。
でもまあ、他者から元気がないといわれるのはやはりよくない気がします。
意識を変えなければいけません。
まあちょっと面倒ではありますが。
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