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2020年10月

2020/10/31

■節子への挽歌4799:遅れてやって来た読書の秋

節子

また少し挽歌を書き損ねてきました。
ちょっといろんなことに巻き込まれていたのと読書にはまってしまっていました。

読書した本は数冊ありますが、ダニエル・デフォーの「新訳ペスト」と碧海寿広の「科学化する仏教」、井出英策の「欲望の経済を終わらせる」、そしてスラヴォイ・ジジェクの「パンデミック」です。図書館に予約していた本が一斉に届いてしまったのです。
図書館から借りた本は1週間以内に返却するというのが私のルールなのです。
もっとも家は改装中でなかなか落ち着かず、夜中に目が覚めたときに読んだり、病院の検査の待ち時間に読んだりですので、日中はパソコンにも向かっていたので挽歌が懸けなかった理由にはなりませんが。

デフォーの「ペスト」はまさにいま日本で起こっていることにつながることが多く、面白かったですし、「科学化する仏教」は軽い感じで読みだしましたが、とても共感でいました。

本というのは不思議なもので、私の経験では、「読むべき時」に不思議と向こうからやってくるのです。
図書館に予約していたのは、井出さんの「欲望の経済を終わらせる」だけだったのですが、借りに行ったら、新書の棚にほかの3冊が並んでいたのです。気楽に借りてきたのですが、いまの私の関心事にしっかりと重なったのです。

しばらくあまり本を読む気にならなかったのですが、また読めるようになりました。
と言うか、読書欲がまた高まってきました。
読書の秋が、ちょっと遅れてやって来た感じです。
まだ1冊、「海からみた日本の古代」が残っています。明日にでも読もうと思います。

 

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2020/10/28

■土曜サロン「最近の政治に思うこと~何かできることはないだろうか」報告

バタバタしてしまっていて、報告が遅れてしまいましたが、1024日開催の「最近の政治に思うこと~何かできることはないだろうか」には女性3人を含む13人が参加しました。サロン初参加の方もいました。

予定の時間を越えて、3時間、かなり熱い議論が交わされましたが、肝心の「何かできることはないだろうか」の議論はなかなか深まりませんでした。学術会議任命拒否の話は、自分の生活からはまだ遠いと感じていて、火の粉が自分につながっていると実感している度合いはさほど強くなく、実際の行動にまではまだ至っていないようです。
案内文に書いたニーメラーの後悔が繰り返されなければいいなと改めて思います。

しかし、みんなまったく無縁だとは思っていないことは明らかです。それはわざわざサロンに参加したことからもうかがえます。
最後に、参加していた女性から、自分はいまこういう活動をしているという具体的な話がありました。具体的な明言はありませんでしたが、同様に自分でできることにいろいろと取り組んでいることを感じさせる発言は、他の人からも話し合いの途中でいくつかあったような気がします。

話し合いは、学術会議任命拒否だけではなく、さまざまな話題に飛びました。
いろいろな問題が、「茶色の朝」に向かっていることがだんだん見えてきたような気がしますが、まだ観察的な論評が多く、私は不安がますます高まりました。

今回初めて参加された方は、国政への失望感から生活拠点での地域活動に目を向けるようになったと話されましたが、そういう動きも増えているのかもしれません。しかし、「政治」への「あきらめ」や「逃走」が広がっているとしたら、それこそまさに茶色の政治が始まっていることでもあります。
私にとっては、その恐怖は、コロナ禍などの比ではありません。

最近の政治は、曖昧なままに(あるいは事実がきちんと説明されないままに)どんどん進んで行ってしまうことが不安だという発言もありました。これも多くの人が感じていることかもしれません。

ニーメラーに災難をもたらしたドイツナチスは、わずか4年で市民社会を独裁管理社会に変えてしまったと言われていますが、実はそこに至る土壌は、市民(国民)たちが10数年かけてつくってきたとも言われます。
政治不信と社会の分断、そしてその根底にある経済格差をみんなが知りながらも、ぼやくだけで、見逃していたのです。
何やら最近のコロナ禍社会そのもののような気がして、気持ちが悪いです。

3時間、いろんなことを話し合いましたが、ガス抜きで終わらなければいいのですが。
これからも注意深く、いろんな動きを見ていきたいと思います。
そして小さくてもいいので、何かできることに取組んでいきたいです。

ぜひまた「茶色の朝」サロンを継続して開催していこうと思います。

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2020/10/26

■節子への挽歌4798:しばらく朝焼けの美しさに見とれていました。

昨日より早く目覚めたおかげで、手賀沼のきれいな朝焼けに出合えました。
私のイメージでは、朝焼けはもっと白ぽいのですが、夕焼けのように真っ赤です。
しばらく見とれていました。
あの向こうに、きっと節子はいるのでしょう。

雲が多かったので、陽光が輝きだしたのは、日の出時間の10分以上後でした。
今日もまたちょっと忙しい日になりそうです。

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■節子への挽歌4797:人が生きている基盤

節子

昨日は、誠実に生きてきた還暦を過ぎた女性と会いました。
これまでいろいろな人に会ってきましたが、この人ほど、誠実で清純な人は初めてです。
同時に、凄絶で思い切りもいい生き方なのですが。

そういう生き方をしてきたせいか、心身共に反応が俊敏なのです。
彼女にどんあ辛辣なコメントをしても、問いかけが終わるか終らないうちに、すぐに正面からの決断の反応が返ってくるのです。そのあまりの反応の速さに驚かされることが何回もありました。彼女のこれまでの生き方がうかがわれ、言葉に嘘のないことが伝わってきます。

3時間半ほど話しましたが、その疲れが、夕方になってどっとでてきました。
別れた直後には、さわやかな感動があったのですが。

その後、今度はまた寝る間もないほど頑張って自らのビジネスを成功させてきたという男性と話しました。
この人も情熱的に信条とビジョンを語り、私のぶしつけな問いかけにも誠実に答えてくれました。
こちらは初対面でしたが、私の場合、初対面であるかどうかはあまり関係ありません。
人はみんなつながっていると思っているからです。

2人も誠実に、しかも自分の信念に基づいて(猛烈)に生きてきた。
しかし、どこかに違いがあるのです。
たとえば、前者の女性の場合、家族が登場しますが、後者の男性の場合は家族が見えません。世界の広さが違うのです。

どういう世界を生きるかは、その人が決められます。
生活やコミュニティを基盤に生きているのか、経済世界や政治世界という限られた世界で生きているのか。

昨日は改めてまたそんなことを考えさせられた1日でした。

 

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2020/10/25

■節子への挽歌4796:また自治会長役が回ってきそうです

節子

来年はまた私たちの班で、自治会の会長役を引き受ける年です。
私たちの自治会は16班ありますから、16年ごとにその役が回ってくるのです。

前回、つまり16年前は節子の闘病時期でしたが、私が会長職を引き受けました。
節子はそういうことが好きでしたから、節子が元気だったら、いろいろと活動ができたと思いますが、節子の病状もあって、後半は特にあまり活動ができまず悔いが残っています。

そんなこともあって、班長のかたから相談がありました。
コロナ騒ぎがなければ、みんなで集まって話し合うのがいいのですが、最近の状況ではそうもいきません。
それで回覧板で皆さんの意見を訊くことにしたのですが、併せて、引き受けてもいい役割を出してもらいました。

私は、引き受け手のない役目は何でも引き受けますと回答しました。
残念ながら会長役は引き受け手がなく、また班長と相談して、まあこの班で一番暇だろう私が会長と副会長を探すことになりました。
いまの班長は新潟に単身赴任しているので、その人の負担を減らしてやりたいと思ったのでまた安請け合いをしてしまったのです。
困った人がいたら、できることはやってやろうという生き方で、私は余計な重荷をいろいろと引受けてしまい、家族にはいろいろと迷惑をかけてきてしまいました。

困ったものですが、この生き方はなかなか直りません。

会長にふさわしい人が一人います。
その人にまずは頼んでみようと思いますが、引き受けてくれるといいのですが。
その人が引き受けてくれたら、私は副会長になろうと思います。
節子がいたら、こういう時にはうまくやってくれるのでしょうが。

 

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■節子への挽歌4795:日の出とともに起きました

節子

久しぶりに日の出を見ました。
起きてパソコンの前に座ったら、窓から日の出が見えてきました。
久しぶりです。

日の出が見える部屋がわが家にはあったのですが、今までそこはあまり使われていませんでした。
これからはここが私の生活の中心になるかもしれません。

お天道様と起き、お天道様と寝る。
しかし時に、彼岸とつながる夜もまた生きるのがいいのですが、最近は夜はほとんど在宅です。
しかもほとんど無為に過ごしています。
夜間外出する機会はほとんどなくなりました。
そろそろ闇の世界との付き合いも増やさなければいけません。
いや自然と増えていくものでしょうか。
この窓から月も見えるでしょう。

部屋を代えるだけで生き方も変わるかもしれません。
1階の仏壇も、この部屋に連れてくる予定です。
節子も毎朝、私以上に日の出のご来光に触れることでしょう。
少し前に進めるかもしれません。

今日は3組の人と会う予定です。
何が始まるか、楽しみです。

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2020/10/24

■節子への挽歌4794:総持寺の千手観音

節子

上野の不忍池の近くのびわ湖長浜KANNON HAUSEが今月で閉館になります。
最近、コロナ禍で休館していたので、しばらく行っていなかったのですが、6月から再開しているのに気づかず、ずっと行っていなかったのですが、つい最近、今月で閉館されることを知りました。
閉館を知ってか、混んでいて、入場制限もあって、少しだけ待たされました。

今回の観音様は、長浜宮司町にある総持寺の千手観音でした。
総持寺は訪ねて事のないお寺ですが、素晴らしい観音でした。
節子に会わせたかったです。
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12世紀の作らしいですが、容姿容貌が素晴らしく、また手の持ち物もしっかりと残っていて、感心しました。
正面で低姿勢になって、顔を見つめると、目があった気がしました。
少しだけ話をしました。

もしまた滋賀に行ったら、ぜひこの寺に行きたくなりました。
よそ行きでない素直な表情に会いたいからです。

開館時間が1時間遅くなっていたため時間があったので、久しぶりに寛永寺に立ち寄りました。そして節子とよく歩いた不忍池のほとりの骨董市をよくやっていた道を少し歩きました。

あの頃は、時間がたっぷりありました。
にもかかわらず、いま思えば、なんと無駄な使い方をしていたことか。
恐らくいつかまた、いまの生き方に関してもそう思うのでしょう。

そんなことを考えながら、観音様に会った後、一人で湯島のオフィスまで歩きました。
この散歩道は、節子と一緒に歩いた時とほとんど変わっていません。
湯島天神に挨拶して、オフィスに行きましたが、何やら尋常でないほどの疲労感に襲われました。
最近、体力が大きく落ちているのがわかります。
困ったものですが。

 

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2020/10/23

■節子への挽歌4793:物はみんな生きている

節子

家の改装に伴う備品や書籍の移動で、毎日、かなりの重労働です。
身体中が痛くなってきました。
ちょっと無理をし過ぎかもしれません。
思い物の移動はかなり身体にはこたえます。
今週はほとんど外出せずに自宅で作業です。

それにまだ収納家具が購入されていないので、なかなか整理も難しいのです。
相変わらず新しいリビングルームには書籍や行き場のないいろんなものが散在しています。なんでこんなものまでで残しているかと言われそうなものも少なくありません。せっかく新しく作った空間が、1階のリビング同様、足の踏み場もない状態になってしまっています。

昨日、友人からメールが来ました。
その友人も、いままさに整理に取り組んでいるようです。

もう3か月以上整理してます。(笑)
本箱2個分、背広約20着、その他不要なもの、だいたい整理しました。
息子と娘の遺品も少し、物には様々な思いがあります。

その思いと対面する、そして、自分の感情と向き合う。
その思いと、合言葉「今の年なら整理できる」そんな日々でした。

物には様々な思いがあります。
その思いと対面する。
そして、自分の感情と向き合う。

この3行の短い文書が、昨夜、急に思い出されて、夜中に眼が覚めてしまいました。
そうしたらもう眠られなくなってしまった。

物を整理したり廃棄したりするのは、そう簡単なことではありません。
なぜなら、物はみんな生きているからです。
そして、物が守ってくれている、人や過去とのつながりを捨てることにつながっているからです。

「捨てる技術」という本が一時期、流行ったようですが、私にはとても理解できません。「捨てること」は「技術」の問題などではなく、「どう生きているか」の問題なのです。
そう思えてなりません。

物が語ってくるのは、しかし、その物と共に生きてきた人にだけです。
私にはとても大事なものも、娘にとってはただの物質、それもまったく価値のない物質にしか見えないのです。だから、どうしてそんな無用な物質を大事に持っているのか、なかなかわからないでしょう。
しかし、その物を通して、生き生きと伝わってくる世界が見える私には、なかなか整理できずにいます。そのものを捨ててしまえば、その向こうにある世界が消えてしまいそうだからです。

もしかしたら、これは自然にも言えることかもしれません。
自然環境がここまで破壊されてきた理由は、これと関係しているかもしれません。
これはちょっときちんと考えなければいけません。
私の生き方にも深くつながっているような気がします。
もちろんこれからの私の生き方、という意味ですが。

外が明るくなり出しました。

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2020/10/22

■節子への挽歌4792:汗は人を幸せにする

節子

今日は2階の改装の仕上げのため、朝からいろんな人が来て作業に取り組んでいます。
工事監督の弓削さんも来ていますが、弓削さんはたくさんの工事監督を兼ねているため、大変です。時に自分で作業をやることもあるようです。
今日も重い備品を2回まで運ぶ作業や解体に伴って一部破損したタイル張りまでやってくれていました(ちなみに2階のリビングの壁は一部タイル張りなのです)。
電気工事や水道工事の人もやってきていて、今日は午前中は大賑わいでした。

ガス工事が少し難航しているようです。
浴室やキチンをダブルにしたため、ガス管を太くしないといけないのだそうで、道路工事まで必要になってきているうえに、わが家の庭のつくりがいささか懲りすぎてしまったため、屋敷内の配管も大変なようです。
それで作業が遅れているのですが、20年前の新築の時には、まさかこうなるとは全く思ってもいませんでした。先のことをほとんど考えずに生きてきた私と節子の性格が、今回、いろんなところで露呈しています。

それにしても、いつも思うのですが、汗して働いている人はみんないい人です。
この50日、10人以上の人と接点を持ちましたが、みんなとてもいい人です。
昨日、ユニットバスを解体しに来た人は、9時から午後2時過ぎまで、昼食もとらずに一人でがんばっていました。
私たち家族が昼食を食べている間もずっと働いていて、お茶を出す機会も見つけられませんでした。
終わった後、お茶も出せずにすみませんでしたと謝ったのですが、いつもこうなのでもう慣れましたといわれました。
最後の掃除も含めて、みんな本当によくやってくださいます。

日本人の勤勉さや誠実さは、たくさん汗を流した先人たちのおかげかもしれません。人は汗を流した分だけいい人になるのです。
世間で話題になるような不祥事や事件を起こす人は、汗して働いたことが少ないのかもしれません。汗することが少なくなってきたのでしょうか。お金が人をダメにしているように思えてなりません。

ちなみに私もそれほど汗してきたわけではありません。
しかし、私の両親も節子の両親も、汗して働いて私たちを育ててくれました。
そのおかげが、私たちには「いい人」になれたと思っていますし、幸いに、私たちの子ども世代にもそれが伝わっています。私が知る限り、私の娘たちは、2人とも「いい人」に育ってくれました。汗して働いてくれた両親には感謝です。

お金は人を幸せにはしませんが、汗は人を幸せにするようです。
これが改装工事50日で、私が得たことです。
工事はまだ続きますが、さらにどんな気付きをもらえるか楽しみです。

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2020/10/21

■節子への挽歌4791:窓からの景色が変わりました

節子

秋晴れのいい天気です。
今日は朝からユニットバスの解体作業の人が来て、作業しています。
解体作業も大変です。

この数日、少しずつ荷物の整理をしていますが、これが重労働です。
腰を痛めてはいけないので、疲れたらすぐ休むようにしていますが、節子も知っているように、私は動き出したらなかなか止まらないのです。
朝も気になって早くから動き出してしまいます。
それで今朝は、身体中が痛いのです。
気をつけなければいけませんが、作業の人たちが働いているのを見ていると自分の働かなければいけない気分になってしまいます。

そう言えば、メダカも放りっぱなしでした。
水槽の手入れをしましたが、いまは8匹のメダカが育っています。
だいぶ大きくなっています。

2つの水槽で飼っていますが、3匹だけは小さなビンで育てています。こちらは毎日様子を見ています。
水も安定し、週に一度、水を追加すれば大丈夫ですが、これを湯島にもっていきたいのですが、餌は週一ではだめのようなので、迷っています。

2階の新しいリビングは日当たりも展望も快適です。
窓からは手賀沼大橋も見えます。東側が隣家に邪魔されずに展望がいいのです。今朝は日の出も見えました。
夜は夜景がきれいです。

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2020/10/20

■節子への挽歌4790:浴室が解体されました

節子

家の改装のため、1階のお風呂を明日壊すことになり、今日は最後の入浴でした。
このお風呂にはいろいろな思い出がありますが、それももうなくなってしまいます。
こうやってどんどんと過去の空間が変わっていくのは、感慨深いものがあります。

このお風呂はちょっと広めに作ったので、よく節子と一緒に入りました。
その思い出があったこともあり、節子がいなくなってからの一人での入浴は、なぜか彼岸をさまようような気分でした。
浴室全体が、なぜか現実なものではない、異様な雰囲気につつまれているような状況になり、気分的にも異界を彷徨しているような気分で浴槽に長いこといたこともあります。

その浴室も今日が最後です。
次第に、私の生活も2階に移りだしました。
まだ片付いていないので、定位置が定まらないのですが、パソコンも2階に戻ってきました。これまで次女のジュンが使っていた部屋をリビングに改装したのですが、いまはそこの東側に臨時にパソコンを置いています。

この場所からは夜には手賀沼の夜景が少し見えます。
東側に窓があるので、とても見晴らしがいいのです。
たぶんわが家で一番いい場所でしょう。
今まで空き部屋にしていたのがもったいなかった気がします。

テレビもこの部屋にもってきました。
インターネットやテレビの配線もうまくいきました。
電話をどうしたらいいかよくわかりませんが、この部屋をこれからの生活の中心にしようと思います。
外がよく見えるので、気分が変わるかもしれません。

ちなみに寝室はまだ倉庫状態です。
まだしばらく改装工事はつづきそうです。

 

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2020/10/19

■節子への挽歌4789:「人生最後の願い」

節子

またテレビドラマを観てしまいました。
NHKで放映されたドラマ「天使にリクエストを」です。
5話連続のドラマですが、録画していたのを昨夜見たら、涙が止まらずに、そのまま2話見てしまい、今日残りの3話を見てしまいました。
涙をこらえるのが難しいほどでした。

終末期の患者の「人生最後の願い」を叶える活動の話ですが、その奥に大きなテーマが込められています。
第1話は、若いころに子供を捨てた母親が最期に息子に会いたいという「願い」です。
息子は、実は暴力団の組長になっていたのですが、その再会のやり取りは感動的です。

私も前に、ある組で活躍した人と友だちになりましたが、彼のことを思い出しながら見ていました。
彼も捨てられたのですが、最後に「足を洗い」福祉の仕事をしていたのですが、癌になりなくなってしまいました。最後に彼は私をだましたのですが、私はそれを少し感じながらだまされました。正直、ちょっとさびしかったのですが、彼がなぜ私をだましたのかも、少しわかる気がします。
わずかばかしの私の経済的な支援で、彼の最後はそれなりに幸せだったと思えば、よかったのかもしれません。私はその後ちょっと苦労しましたが。

横道にそれましたが、彼らの活動のためにある人が1億円寄付して財団を作ったのですが、そこに大きな物語が込められています。
私もこれまで寄付を申し出られたことはありますが、大きな額の場合は受けたことはありません。寄付を受けて活動するのは、それこそ「覚悟」がなければできません。
しかし、このドラマを観て、もしかしたら私の対応は間違っていたかもしれないと少し思いました。お金は使ってこそ活きてきます。

それに、終末期の患者の「人生最後の願い」を叶える活動は魅力的です。
友人から同じ趣旨のプロジェクトの提案をもらったことがありますが、もう少し真剣に考えればよかったと思います。
でもまあ、いずれにしろ、そうした活動をやるには、私自身の余命が少し不足しています。むしろ「人生最後の願い」を叶える活動の、対象になってしまっている年齢です。

さて私の「人生最後の願い」はなんでしょうか。
彼岸に行くことこそが、私の最後の願いかもしれません。

 

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■節子への挽歌4788:ハードな労働日でした

節子

改装工事がかなり進んできて、2階の改装はほぼ完了しました。
今日は2階の仕上げの清掃作業の方が来てくれ、掃除をしてくれました。
少しずつ荷物を2階に移していく予定ですが、今月中には生活も2階中心にできそうです。

今日は書物を元に戻す作業を始めました。
ウォーキングクローゼットに書棚のまま詰め込んでいたので、必要だと思う本もこれまでは出せませんでした。無造作に詰め込んだので、本の整理もめちゃくちゃになってしまっています。
以前は、書棚や書庫のどのあたりにあるかはだいたい思い出せたのですが、いまはそれが全くできません。しかし、そのおかげで、思ってもいなかった本に出会えたりしましたから、時に秩序を壊すのはいいことだと思います。

今日は書棚を3つ、クローゼットから出して寝室にうつしました。
私の寝室の半分を書棚スペースにしたのです。書籍の入れ替えが大変でした。
ほかにまだ未整理の書棚が4つあり、そのうえ、段ボール箱に入った書籍が10箱以上あります。ユカはこれを機会に廃棄しろと言いますが、これまでも廃棄した途端に、その本が必要になったこともありますので、躊躇してしまいます。
それに絶対のもう読まない本も、友人が書いた本とかいろんな思い出が残っているのです。
書籍と人の関係にも、見えないものがいろいろとあるのです。

大工の高津さんは1階の作業に移りましたが、今日の午後は、私も高津さんと同じくらいよく働きました。
ユカが3時にお茶を入れてくれましたが、高津さんにはお菓子がついていましたが、私はお茶だけでした。今日は私自身も作業にまみれてしまっていましたが、明日は、高津さんにも私にも、私がコーヒーを淹れようと思います。

それにしても疲れました。
書籍の移動は本当に重労働です。

 

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■節子への挽歌4787:Nさんは元気でしょうか

節子

フェイスブックではつながっている人の誕生日を教えてくれる機能があります。
誕生日には、おめでとうの挨拶を送ることがフェイスブックでは勧められているのです。

私も一時期、あいさつを送っていましたが、最近はやめています。
私宛の儀礼的な挨拶が多くなってきて、そうしたやり方に違和感を持ったからです。
しかし、いまも誰それの誕生日だというお知らせは時々見ています。
そして最近まったく連絡もない人のフェイスブックを見ることもあります。

今日、誕生日だったNさんにはもう10年近くお会いしていません。
超人的な生き方をしていた人ですが、どうされているか気になってフェイスブックを見てみました。ご本人の投稿記事は2012年で途切れています。
連絡をとろうかどうか迷いましたが、やはりメッセージを送ることにしました。
まあそこまでは時々やるのですが、その先がいつも心配です。

返信があることもありますが、ない場合も多いのです。
もしかしたら、などと余計なことを考えてしまいます。
だからむやみに交流が途絶えて人に連絡してはいけないのです。
知らなくてもいいことはたくさんあります。

Nさんのことがいつも気になるのは、1日3時間しか眠らないと聞いたからです。
私は記憶力が悪いので、友人との出会いをあまり記憶していません。
Nさんと何で知り合ったのかも思い出せませんが、湯島でNさんの話を聞く会をやったことは覚えています。
その場をつくったことのお礼かもしれませんが、Nさんはプロジェクターをくれました。
いまはもう使っていませんが、湯島への寄付が始まったはじまりです。
まだそのプロジェクターは湯島にありますが、それを見るたびにNさんを思い出します。
ですからそのプロジェクターは壊れてしまったのですが、捨てられないのです。

Nさんから返信が来ればいいのですが。

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2020/10/18

■第10回万葉集サロン「忘れられてゆく神々―〈た〉から覚醒する〈わ〉。そして〈な〉へ」報告

万葉集サロンも佳境に入ってきましたが、今回はこれまでのまとめも兼ねて、「〈た〉から覚醒する〈わ〉。そして〈な〉へ」という、「個」の人間の誕生への物語を、たくさんの歌から読み解いてくれました。併せて、「歌」の本源と基層も話題になりました。

いつも以上に升田さんの話には熱が入り、2時間をほとんど話しっぱなしでした。
まあ時々質疑も入りましたが、次から次へといろんな歌が、大きな物語に沿って紹介されて、ついていくのが大変でしたが、いつも以上に勝手に世界を広げて楽しませてもらえました。

升田さんの万葉集サロンは、ただ万葉の歌を読むだけではなく、万葉の歌から日本列島に住んでいた人たちが、「人間」として覚醒していくさまを考えようという大きなテーマが根底にあります。そのテーマがいよいよ深まってきて、私には内容を要約するのが難しくなってきました。それで今回は配布された資料の目次に沿って、項目だけを紹介しておきます。

前半は、「忘れられてゆく神々」と題して、神の領域から人の領域へと歌(人々の生き方)が変わってきたことを、東歌を中心に読んでくれました。
まずは「恋」の歌、そこではさまざまな「恋の様相」が示されました。
つづいて、恋は「あこがれ」に移り、「人妻」が歌われ、そこから次第に物語の要素が加わってくる。労働歌から物語歌へと深まり、そこから「崩」「奥」「時」がテーマとなり、「戯」から「主情」がテーマになっていく。つづけて、旅や自然を詠んだ黒人や赤人の歌が紹介されました。

こう書くとなんのことやらわからないかもしれませんが、それぞれにいくつかの歌を読みながら解題してくれました。

後半では、それにつながるかたちで、神の領域について、万葉集から離れて、記紀や風土記、祝詞を題材に、「言のはじめ」「人は草もの」「ものいふものたち」を解説してくれ、万葉集の歌の理解を豊かにしてくれました。万葉の時代を少し垣間見るだけで、歌は生命を蘇らせます。現代のセンスで読んでも、なかなか伝わってこない。

つづいて資料では、「神々の恋」と「呪言の力」という見出しで出雲風土記や大祓詞が取り上げられていましたが、残念ながら今回は時間切れでした。

2時間の熱い話のあと、さらに1時間の質疑や話し合いがありました。
〈た〉と〈わ〉、そして〈な〉に関しても、話題になりましたが、まとめになるにはちょっと時間不足だったので、升田さんに頼んで改めての「まとめサロン」をやってもらえればと思っています。

私自身は、升田さんの話には必ずしもついていけずに、いつものように落ちこぼれ気味でしたが、考えを広げる示唆に富むサロンでした。

特に、万葉のその昔には、草や岩も話していたこと、それが文字を使うようになって、状況が変わってしまったというような話は、そこから想像が無限に広がりだすほどの魅力を感じました。
それに関して、イリアスやバベルの塔や無文字社会の話題も少し出ましたが、東歌は一体だれが詠んだのか、という参加者からの問いかけは、改めて新鮮でした。
神の歌を草や岩も発していたが、人間が文字を発明して、神の言葉を人の言葉に置き換えてしまったと考えると、世界は全く違って見えてくるような気がします。
どうも万葉集から逸脱してしまいそうですが、改めて万葉集の魅力に気づかされたサロンでした。昨夜は少し興奮気味で、眠れませんでした。

独りよがりの報告ですみません。
升田さんには叱られるかもしれません。
次回からは参加者の誰かに、もっと正確な報告をお願いしたほうがよさそうです。
どなたかお願いできる方がいたら、ぜひお願いしたいと思います。

Manyoushuu10

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■節子への挽歌4786:気兼ねのない関係

節子

しばらく連絡のなかった、節子も知っているYさんからメールが来ました。
4.5年前に京都に転居したのです。
節子もYさんのことはよく知っていますし、Y夫妻と食事をしたこともありますね。
経営していた会社が業績不振で、規模を縮小して、2人で京都に転居し、個人会社にして再出発すると聞いていました。
最後にゆっくりと話す機会もないままに、転居したという連絡が届きました。
それからご無沙汰がつづいていました。

昨日、突然にメールが来ました。
3年前に奥さんが重篤なクモ膜下出血に倒れ、一命は取り留めたものの、いまは車いす生活だというのです。
私は奥さんもよく知っていますが、とても明るくて、元気のいい人です。
車いすはどうしてもイメージできませんが、最近は認知症の症状も出てきているそうです。どうもコロナも関係しているようです。

Yさんのメールによれば、車いす生活ができるマンションにまた転居し、会社も清算して、奥様のケアを重視した生活に変えるようです。
Yさんはこう書かれています。

佐藤さんの奥様が亡くなられ、156年になりますか?
あの折りの佐藤さんのお気持ちが、少し分かるようになりました。
家内は、まだ生きているので同じとは言いがたいですが、反応が乏しくなり、本年コロナ以前に戻れるよう、自宅に引き取りリハビリ、脳トレ等頑張りたく思っております。

つづけて、

佐藤さんとは、大変失礼な別れ方をしてしまい、申し訳無く思っておりました。
昔のような気兼ねのない関係が、今更ですが戻れると嬉しく思います。

とありました。
人にとって何が一番大切かは、みんななかなか気づきません。
気づかないまま人生を終える人も少なくない。

私はいつでもだれとでも基本的には、「気兼ねのない関係」を大事にしています。だから「戻る」も何もないのですが、Yさんは京都なので、そう簡単には会えません。せめて今も「気兼ねのない関係」だということを連絡させてもらいました。
今度京都に行ったときに、お会いできるかもしれません。

そう言えば、数日前にも、しばらく縁を切られていた友人から電話がありました。
縁を切ったのは先方で、それも一方的だったのですが、私は何とも思っていなかったので、以前のように長電話になりました。
しかし、どうしてみんなもっと「気兼ねのない関係」を大事にしないのでしょうか。

いつも不思議に思います。

 

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2020/10/17

■節子への挽歌4785:バランス感覚

節子
キッチンの蛍光灯がチカチカしだしました。
椅子では手が届かないので、脚立を使って蛍光灯を交換しようと思い、作業を始めました。脚立の上にのぼって蛍光灯を交換するところまではうまくいったのですが、そこでふらっとしてしまいました。
ユカがいたので、蛍光灯を渡して、何とかバランスをとって事なきを得たのですが、もし私一人でやっていたら脚立から転落し、大けがをしたかもしれません。
バランス感覚が衰えているのでしょう。

毎朝、テレビ体操をしていますが、時々、バランスをとる体操があります。
たとえば手を上げて片足立ちをしたりする運動ですが、ふらついてしまうのです。
やはりかなりバランス感覚は衰えているのでしょう。
意識と身体機能は、かなりずれている。つまりバランスが取れていないのです。
気をつけなければいけません。

バランス感覚と言えば、身体だけに限ったことではありません。
思考においても、食においても、バランスを失うとおかしくなりがちです。
思考や生活面では、節子と結婚してから。あるバランス状態が育ったのですが、節子がいなくなってから、その状態がなくなったにもかかわらず、そこで生まれていたバランス感覚のまま生活していたので、いろんな災厄に見舞われました。
いまはかなり新しいバランス感覚を回復してきましたが、それでも時に失策をします。
生活習慣や思考習慣は、一度できてしまうとなかなか変わりません。

脚立を踏み外さないように、人生も踏み外さないように中止しなければいけない歳になってきました。
この歳になったら、踏み外したらなかなか元には戻れない。
もしかしたらすでにもうかなり踏み外しているのかもしれません。

困ったものです。
節子がいたら、こんなことにはなっていないだろうなといつも思います。

 

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2020/10/16

■第4回益田サロン「比喩と理解」のご案内

細菌学者の益田昭吾さんによる連続サロンは、今回もまたちょっと横道に入って、「比喩と理解」をテーマにします。

益田さんのサロンに参加されている方は、何回かお聞きになっていると思いますが、益田さんは「○○は××のようなものである」というかたちで、よく話をされます。
理解とは比喩が成立することだと考えているのです。

益田さんは、最近、万葉集に関する本を2冊読んだそうですが、万葉集に関して言えば、「○○は××のようなものである」の「××」がなかなか想起できなかったと言います。だから益田さんは、万葉集の理解は自分には難しいというわけです。実に益田さんらしい結論ですが、学びが真似びから始まったという話もありますし、「比喩」の力を身につけることで、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人との淘汰戦に勝ち残ったとも言われます。「比喩の力」を考えることで私たちの理解力も高まるかもしれません。

ちなみに、益田さんの連続サロンでは、次回は免疫や自己非自己をテーマにする予定でしたが、そのテーマの理解を深めるためにも、「比喩と理解」をテーマにしたサロンを入れることにしました。

初めての方も含めて、どなたでも歓迎です。

〇日時:2020年11月7日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「比喩と理解」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

 

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■節子への挽歌4784:季節外れのスイカ

節子

庭の植木鉢に、食べたスイカの種子をすてていました。
後できちんと埋めようと思いながら、すっかり忘れていました。
そこから芽が出ていたのには気づいていましたが、最近は庭に出ないでいたので、忘れていました。

ユカが、そこに実がなっているのに気づきました。
まだ直径6センチくらいの小さな実ですが,とても形がいいのです。
思わず写真に撮ってしまいました。
フェイスブックに載せたら好評でした。

Img_20201015_130404

まあ季節的に実が熟すことはないでしょうが、観賞用にはとてもいいです。
残念ながらスイカはまだ畑でも熟したことがありません。
苗からも種子からも何回か挑戦しましたが、いつも途中で失敗します。
皮肉な話です。

畑はもうやめようかと思っています。
改装が終わったら、2階のベランダで少しサラダ用のレタスなどを栽培してみようと思いますが、畑に行くのはちょっと卒業しようかと思います。

 

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■節子への挽歌4783:捨てる悼みと事霊

節子

改装のためにいろんなものの整理を少しずつしているのですが、今日は節子の写経の道具が出てきました。節子がいなくなった直後の整理では見落とされていたものです。
節子はどこかのお寺でも写経していましたが、あれはどこだったでしょうか。当時、私はまったく興味がなく、一緒しませんでした。
習字の道具や木目込み人形作りの道具、スケッチの絵具やパレットなども出てきました。
これらも封印されたままになっていたものです。

それにしてもいろんなものが出てきます。
テーブルクロスなどのクロス類もたくさん出てきました。
私用にわざわざ購入した料理用のエプロンも出てきました。
こうしたものがこれまで空間を占拠していたわけですが、今回はかなり整理しようと思います。ちょっと時間をかけながら、ですが。

私にはまったく見覚えのない物も、娘には記憶が残っている物も少なくありません。
物が人の記憶をよみがえらすのをこの数日何回も体験していますが、それもあって物の整理はなかなか進みません。私は「言霊」ならぬ「事霊」を感じているので、断捨離はまったく馴染めないのです。そもそも「断捨離」という言葉にも大きな違和感を持っています。

先日、30年ほど前に読んだ「日本人の言霊思想」という本が出てきたので、改めてそれを読みましたが、人麿の事霊と憶良の言霊という話がでてきました。言霊は事霊から生まれてきたことを思い出しました。私の事霊感は、この本を読んだ頃からのものだったのかもしれません。

「日本人の言霊思想」に限らず、昔読んだ本を最近、読むようになってきました。
以前読んだ頃のことを思い出しながら読むこともありますが、本もまた、昔の世界とつないでくれます。本に書かれていることは、内容だけではないのです。
物にも本にも、そこにはもう旅立ってしまった人たちが生きています。
だからそう簡単には捨てられないのです。

むかしの本を読み出すといろんなことが想起されて、本の内容よりも、そういう記憶の方が強くなってしまうこともあります。
それでまあ、結局は通読しないことが多いのですが、いろいろ思い出して、元気になることは多いです。
本は読むものではなく、触れるものだと考えていた時期があり、むやみに本を買っていた時期があります。

最近は経済的な理由で本は図書館から借りることが多いのですが、私が本をしっかりと読むようになったのは、そうなってからです。それまでは、本は触れるもの、毎日触れているだけで内容が伝わってくると信じていました。その頃の方が、いまよりもほんとの関係は深いような気もします。

捨てられずにいる物は、時に大工さんの後押しで捨ててきたものもありますが、捨てる痛みはいつも残ります。

 

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2020/10/15

■節子への挽歌4782:みんなに助けられるような巡り合わせ

節子

新潟の金田さんが魚沼の新米を送ってきてくれました。
敦賀の姉家族は今年からコメ作りをやめましたが、先日、知り合いから新米を購入して送ってきてくれました。
ありがたいことです。

もしかしたら私は、みんなに助けられるような巡り合わせになっているのではないかと、思うことが時々あるのですが、本当にたくさんの人に支えられてきています。
そういうことが多いので、前世のおかげだと思わざるを得ないのです。
そして、だからこそ、来世も信じられるわけです。

しかし、みんなに支えられるということは、私が頼りなくて心配に見えているのかもしれません。
たしかに、私には頼りなさやあぶなっかしさがあるかもしれません。
生活力はありませんし、失敗はよくやってしまう。
人を信ずることが大切だと思いながらも、心底、他者を信ずることもできないで、中途半端なところでうじうじしている。
困ったものですが、節子が元気だったころは、その頼りなさも隠せたのですが、いまはもうそれがもろに出ているのかもしれません。

そう言えば、湯島のサロンも終わるとなぜかみんなで片づけてくれて、私は何もしないでもいいのです。
最近は準備まで誰かがやってくれる。
やはり私には任せておけないのかもしれません。
困ったものです。

みんなに助けられて生きている私を、節子はどう思っているでしょうか。
こんなに長く現世にはいられないだろうという節子の期待を裏切ってしまっているかもしれません。
ほんとに私自身、いささか驚いていますが。

みなさんには感謝しています。
しかし、長生きがいいのかどうかはいささか迷うところでもあるのですが。

 

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■コミュニティということ

前の記事(「家族ということ」)の続きです。

生きているといろいろなことがあります。
いいことばかりではありません。
苦しみも悩みも、辛いことも悲しいこともある。
怪我もすれば病気にもかかるし、死も避けられません。
でも、だからこそ生きているよろこびがある。

新型コロナウイルスの感染ばかりが騒がれますが、私の友人は胃がんで余命宣告され、最近亡くなりましたが、彼は一切、新型コロナを気にしませんでした。そんな余裕はなかったのです。何回も会いましたが、コロナの話は一度も出ませんでした。
自宅療養でしたが、事態が急変し、緊急入院したことを病院の医師から連絡を受け、万一の場合、延命手術をするかどうかを医師から訊かれて、あわてて病院に行きました。
彼は一人暮らしだったので、私が入院の保証人でした。

医師と話しましたが、病院はいまコロナで面会できないといわれました。
しかし、もしかしたら最後になるかもしれません。ここで会わずに帰ったら後悔するでしょう。そう思って医師と看護師に相談しました。
看護師の方がそういう場合は医師の許可があれば大丈夫だと言ってくれました。
医師ももちろん許可してくれました。
以来、私以外の友人にも案内して会いに行ってもらいました。
コロナ感染を気にしていた友人も会いに来てくれました。
そして、彼は生きる意欲を回復して一度自宅に戻れました。
最期はとても幸せそうな表情で、安らかに逝きました。

新型コロナウイルス感染症だったために、家族が死に目に会えなかったという有名なタレントの報道がありましたが、もしそれが本当であれば、実に悲しい話です。
だれが何と言おうと遺族は会うべきでしたし、医療関係者は会わせるべきでした。
それが人の道です。ルールも法も人の道のためにこそある。
感染しないように注意することは大切ですが、感染を広げないことも含めて、いくらでも方法はあるはずです。
それに万一、感染しても、遺族は会わないで見送るよりもよかったと思うでしょう。

これは家族に限ったことではありません。
親しい友人の場合にも言えることです。
「家族遺棄社会」という本に、こんな言葉がありました。

感染リスクを顧みず直接会ってくれる人がいるというのは親しさの指標。

これは全く同感です。
逆に言えば、感染リスクがあるからと言って、会うことを諦めるような付き合いであれば、それは知人ではあっても、友人とは言えないでしょう。
そういう意味での「友人」がどのくらいいるか。
それこそがその人の生活圏の豊かさの指標です。

「コミュニティ」という言葉がよく使われるようになりましたが、コミュニティとは「重い荷物も背負い合う人のつながり」と考えている私にとっては、ほとんどのコミュニティ論は言葉だけの遊びです。
そう簡単にコミュニティはつくれません。その人の長年の生き方が生みだすのが、コミュニティだろうと思います。

コロナ感染の不安感が、社会からコミュニティをなくしてしまうような不安があります。
マスクもせずに、毎週、湯島でサロンを開いているのは、こうした私のコミュニティ観の表れでもあります。
少なくとも私は、コミュニティがなければ生きていけない弱い存在ですので。

 

 

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■家族ということ

挽歌編に書いたのですが、時評編にも載せたくなりました。
少し書き直して、こちらにも書かせてもらいました。

最近、昔のテレビドラマの再放送をよく見ているのですが、西田敏行主演の「浅草ふくまる旅館」シリーズには大きな元気をもらいました。
残念ながら最後の6話しか観られていなかったのですが、最終回には涙が止まりませんでした。元気が出る涙です。

西田敏行演ずる主役の福丸大吉は、浅草にある“ふくまる旅館”で働いていましたが、先代の娘と結婚し、旅館を継ぐのですが、いろいろと事情があって、長男とは血のつながりがありません。詳しい説明は省略しますが、最終回でその息子に次のように大吉は話すのです。

家族ってさ、一緒に悩んだり苦しんだり、一緒に喜んだり笑ったり泣いたり…
先代は、従業員だった俺を家族として迎え入れてくれた。
だから俺は、お客様を家族として受け入れ、できるだけのおもてなしをしているんだ。

ドラマを観ていないと、意味が分からないかもしれませんが、ともかく毎回、心があたたかかくなるドラマです。
私が大吉のこの言葉にとても共感したのは、「一緒に悩んだり苦しんだり」が「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」の先にきているからです。
家族の一番の意味は、「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」するところにではなく、「一緒に悩んだり苦しんだり」するところです。
喜んだり泣いたりするのは、誰とでもできます。
しかし、悩んだり苦しんだりは、誰ともできる事ではありません。

私は家族というのは、別に血がつながっている必要はないと思っています。
事実、家族の核である夫婦には血のつながりはありません。
家族は血縁関係者と捉える必要はないでしょう。

私は家族とは一緒に生きている仲間だと考えていますので、ふくまる旅館の話がとてもなじめるのです。一緒に生きていればこそ、当然にして「一緒に悩んだり苦しんだり」するのです。

福丸大吉さんは、過剰なほどの世話焼きです。
しかも誰をも信じてしまう、他者を疑うことがない。
疑うことを知らない人は誰からもだまされません。「だまされる」という概念がないからです。

なぜ彼は人を疑わないのか。みんな家族だと思っているからです。
家族からはだまされないし、万一、だまされたとしても許すことができる。
そして大吉さんはだまされないどころか、いつも「奇跡」のようなことに包まれるのです。

家族になるのは難しいことではありません。
その人を信ずればいい。
それだけです。
それができれば、誰も孤立することはなく、孤独死もなくなるでしょう。
そういう思いを、このドラマは教えてくれます。

多くの人に観てほしいのですが残念ながら再放送はいまのところありません。
またもしどこかで再放映があったら、ぜひご覧ください。
幸せになるかもしれません。
DVDに残しておけばよかったのですが、消してしまいました。とても後悔しています。

 

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■節子への挽歌4781:感染リスクを超えて直接会う生き方

節子

先日、コロナ騒ぎでどんな変化が起こったかをテーマにしたサロンを開催しましたが、
コロナのせいにする風潮が広がっているのではないかという私の指摘には多くの人が同意してくれました。
しかし、声は社会の風潮のみならず、私を含めて、ほとんどすべての人に起こっている変化かもしれません。

先日、読んだ「家族遺棄社会」にこんな指摘がありました。

感染リスクを顧みず直接会ってくれる人がいるというのは親しさの指標。

これは全く同感です。
もし節子が感染症だったとしても、私はたぶん死に顔に触れたでしょう。
新型コロナで亡くなった家族に最後にも直接会えなかったという有名なタレントの報道がありましたが、もしそれが本当であれば、実に悲しい話です。
だれが何と言おうと遺族は会うべきでしたし、医療関係者は会わせるべきでした。
それが人の道だろうと思います。
人が人の道を外したら、もう人ではありません。

友人が入院し、私は面会に行きました。
別室で医師と話をし、いまは面会謝絶になっているといわれましたが、医師と看護師と話して面会させてもらいました。
それから彼は退院し、間もなく亡くなったのですが、最後は幸せそうでした。
あのまま入院したまま亡くなったらそれこそさびしい死だったでしょう。
どんなルールも、人の道に沿うように活かしていかねばいけません。

湯島でサロンをやっていますが、参加する人と参加しない人が明確になってきました。
特に感染を注意しなければいけない人もいますから、一概にはいえませんが、感染のリスクは生きている以上常につきまとっています。
リスクを避けることは大切ですが、生きる上での優先順位を間違ってはいけません。
それにリスク対策はいろんな方法があります。
個別に考えなければいけません。

生きる上で、何を優先させるか。
コロナ騒ぎは、それを私たちに問い質してくれているような気がします。
感染におびえて生きるのは私の生き方には合いません。

ましてや、誰かに感染させたくないのでという口実は、私には一番不快な言葉です。
それは自分が感染しているかもしれないということでしょう。
自分の感染も防止できずに、他者への感染に注意しているなどと軽々に口にしてほしくはありません。
そういう言葉に、その人の本性が感じられます。
あまり人の本性が見えてくると、人生は生きにくくなります。

私ももしかしたら、コロナ騒ぎで、ますますひねくれてきているのかもしれません。
節子がいたら、どう行動するでしょうか。
この頃、節子ならどうするかと思うことが増えています。

 

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2020/10/14

■節子への挽歌4780:一緒に悩んだり苦しんだりするのが家族

節子

最近、時間があるので、昔のテレビドラマの再放送をよく見ているのですが、そのひとつが西田敏行主演の「浅草ふくまる旅館」です。
残念ながら途中からしか観られていなかったのですが、最終回には涙が止まりませんでした。
西田敏行演ずる主役の福丸大吉は、浅草にある“ふくまる旅館”で働いていましたが、先代の娘と結婚し、旅館を継ぐのですが、いろいろと事情があって、長男とは血のつながりがありません。詳しい説明は省略しますが、最終回でその息子に次のように大吉は話すのです。

家族ってさ、一緒に悩んだり苦しんだり、一緒に喜んだり笑ったり泣いたり…
先代は、従業員だった俺を家族として迎え入れてくれた。
だから俺は、お客様を家族として受け入れ、できるだけのおもてなしをしているんだ。

ドラマを観ていないと、意味が分からないかもしれませんが、ともかく毎回、心があたたかかくなるドラマです。
私が大吉のこの言葉にとても共感したのは、「一緒に悩んだり苦しんだり」が「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」の先にきているからです。
家族の一番の意味は、「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」するところにではなく、「一緒に悩んだり苦しんだり」するところです。
喜んだり泣いたりするのは、誰とでもできます。
しかし、悩んだり苦しんだりは、誰ともできる事ではありません。

私は家族というのは、別に血がつながっている必要はないと思っています。
事実、私は節子と血のつながりはありません。
家族は血縁関係者と捉える必要はないでしょう。
一緒に生きている仲間だと考えていますので、ふくまる旅館の話がとてもなじめるのです。
一緒に生きていればこそ、当然にして「一緒に悩んだり苦しんだり」するのです。

福丸大吉さんは、過剰なほどの世話焼きです。
しかも誰をも信じてしまう、他者を疑うことがない。
疑うことを知らない人は誰からもだまされません。これは私が長年生きてきた体験からの結論です。

なぜ彼は人を疑わないのか。
みんな家族だと思っているからです。
家族からはだまされないし、万一、だまされたとしても許すことができる。

家族になるのは難しいことではありません。
その人を信ずればいい。
それだけです。
それができれば、誰も孤立することはなく、孤独死もなくなるでしょう。
そういう思いを、このドラマは教えてくれます。

多くの人に観てほしいのですが残念ながら再放送はいまのところありません。
またもしどこかで再放映があったら、ぜひご覧ください。
幸せになるかもしれません。

 

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■節子への挽歌4779:節子はまさに私の健康の守り神でした

節子

この前の土日は時評編で報告しているように連続サロンでした。
ちょっとまた話し過ぎてしまいました。しかもちょっと節度を越えて。
自分でもそれに気づき、少し反省していました。
そうしたらやはり参加し小学校時代の同級生が、メールをくれました。

昨日は、精神が少し病んで神経が傷んでいるのを感じた。
広い意味ではコロナのせいもあると思う。
コロナの目に見えない圧力かもしれません。

たぶんそう感じた人は他にもいるのだろうなと思います。
コロナのせいにはしたくありませんが、たしかに昨今のコロナ騒ぎには持っていき場のない苛立ちを感じます。
毎日の夢見もよくない。
毎朝、すっきりと目覚められないのです。

しかし、精神が病んで神経が傷んでいると他者に感じさせてしまうのは問題です。
他者に見えるほどであれば、かなりです。
気をつけなければいけません。
怒りを鎮めなければいけない。

昨日読んだ「家族遺棄社会」にこんな文章がありました。
ちょっとした愚痴を言う相手すらいない人が増えてきている。
私も、その一人かもしれません。
気楽に周りに愚痴を漏らしているようで、肝心のことは言っていないのかもしれません。

節子はまさに私の健康の守り神でした。

 

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■節子への挽歌4778:いろんな人がやってきているのですが

どうもまた挽歌を書くのに不摂生になってきています。
改装のため、居場所がどうも定まりません。
パソコンは、眼にも書きましたが、ダイニングの食卓の横ですが、その周辺には荷物がどんどん集まりだして、どうも落ち着きません。
まあそれが挽歌を書けない理由ではないのですが、ともかくなんとなくリズムに乗れません。
土日以外は、毎日在宅なのも問題です。
時間がありすぎると、そして生活が単調になると、人は怠惰になります。
これは長年の体験です。

改装はどんどん進み、今日は2階のシステムキチンの設置で朝から作業が進められています。ユニットバスはもう設置されました。
毎日、いろんな人が作業に来ます。
電気屋さん、水道屋さん、クロス屋さん、ガス屋さん、大工さん、それに工事監督。
みんなとてもいい人です。

汗して働いている人に悪い人はいないと改めて思います。
逆に汗せずにお金を得ている人たちは、どんどん悪くなっていくのでしょう。
そういう人もこういう人たちと接点を持てば、きっとそれに気づくはずです。

話がそれましたが、在宅でも毎日、いろんな人に接しています。
接しているといっても、立ち話程度なのですが、人柄は伝わってきます。
やはり生きているというのは、人と触れ合うことです。
昨今のコロナ対応は私にはまったく馴染めません。

「家族遺棄社会」という本を読みました。
家族がどんどん壊れている。
人のつながりがどんどん壊れている。
さびしいことです。

私は一度でも接点を持った人とは友達になりたいと思ってしまいます。
しかしそれは難しい。
いろんな人がやってきますが、みんな仕事で来ているからです。
どうもそういうことがなかなか私には理解できない。

困ったものです。

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■湯島サロン「〈佐藤さん=ソクラテス〉説をめぐる一考察~そこに人生のヒントが見つかる、かもしれない」のご案内

毎年、サンティアゴ巡礼のサロンをやってくれている鈴木章弘さんが、今年はコロナで巡礼に行けず読書三昧しているようなので、愛読書巡礼のサロンをお願いしたら、「〈佐藤さん=ソクラテス〉説をめぐる一考察」というとんでもない提案がありました。
いささか度肝を抜かれて躊躇したのですが、提案のあったサロンは基本的に開催するという方針に従って、恥を忍んで開催することにしました。
案内文も鈴木さんが書いてきてくれたので、以下そのまま使わせてもらいます。

コロナ禍の今年、湯島に足を運ぶ機会が飛躍的に増えました。サロンではさまざまな立場の人から話を聞けるだけでなく、主宰者である佐藤さんの言動に触れる機会も自然に多くなり、知らず知らずのうちに影響(洗脳?)されつつあるようです。種々雑多な本を興味のおもむくまま読んでいると、古今東西の先哲が「佐藤さんと同じことをいっている」と感じることがしばしばありました。

その中でとりわけ佐藤さんと似ているところが多いという印象を持ったのが古代ギリシアの哲学者・ソクラテスです(ただしプラトンの著作ではなくポール・ジョンソン著『ソクラテス  われらが時代の人』による)。2人に共通する考え方や生活ぶりには、「そうありたい、取り入れたい」と感じる部分が少なからずありました。そこにはソクラテスがいう「善く生きる」ためのヒントがいくつもあるように思います。

それで佐藤さんから何かサロンをと勧められたとき、表題のようなテーマで話すことを思いつきました。ソクラテスをはじめとする先哲や佐藤さんのどんなことば・考え方に触発されたのか。そこになにか人生のヒントを見出せるか。佐藤さん本人の異論・反論や賛同(?)も含め、オープンサロンの延長のような感じで気楽に話し合えたらと思います。

以上が鈴木さんによる案内文です。
私の言動がダシにされそうで、参加を勧めるべきかどうか迷いますが、よく読むと、鈴木さんが読書の旅で見つけた人生のヒントを紹介してくれて、それを材料に話し合おうというサロンですので、人生を問い直す機会になるかもしれません。
私も、私が知らない自分に会えるかもしれないので、参加する予定です。
くれぐれも私をさらし者にするサロンではないので、ご留意くださいますように。

〇日時:2020年11月1日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「〈佐藤さん=ソクラテス〉説をめぐる一考察~そこに人生のヒントが見つかる、かもしれない」
〇話題提供者:鈴木章弘さん(巡礼者/ミニマリスト)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■土曜サロン「最近の政治に思うこと~何かできることはないだろうか」のご案内

コロナ騒ぎにみんなの目が向けられているなかで、日本の政治は、どんどん国民の手の届かぬ方に進んでいるような不安があります。しかも、国民は政府の意向にますます従順になっているような気もします。そのために、大量な「国費」がばらまかれているのも不快ですが、自分がもらえるとなると、ついついもらってしまうのも情けない気がして自己嫌悪に陥りがちです。

これまでの外出自粛やマスク着用の広がりには驚いていましたが、Go To政策によってにわかにみんな動き出したのにはもっと驚きました。私はコロナウイルス感染が怖くて、外出自粛やマスクを着用しているのかとばかり思っていましたが、どうもそうではなかったようです。

Go Toトラベルにみる政府の朝令暮改のひどさには、政府への信頼をますます失いますが、国民の多くはその政府を信頼しているようで、相変わらずの高い政権支持率です。日本人は、朝三暮四に喜んでいたサルたちの仲間になってしまったようです。

最近の学術会議任命拒否問題への国民の反応はナチス時代のニーメラー牧師の嘆きを思い出させます。丸山眞男「現代における人間と政治」に紹介されている有名な話ですが、ナチスがドイツを覆った時に、ニーメラーはこう後悔したそうです。

ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安だったが、共産主義者ではなかったので何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった。

ニーメラーの二の舞は踏みたくないものです。
手遅れにならないうちに、何か行動したいと思いますが、どうしたらいいか、よくわからない。
みなさんの知恵をぜひお聞きしたいと思い、今度の土曜サロンのテーマを「最近の政治に思うこと~何かできることはないだろうか」にさせてもらいました。

みなさんの参加をお待ちします。

〇日時:2020年10月24日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最近の政治に思うこと~何かできることはないだろうか」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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2020/10/13

■湯島サロン「遺伝子技術の話~遺伝子検査を切り口にして」のご案内

遺伝子に関するサロンはこれまで一度もやったことがありませんが、食生活やウイルスに関連したサロンで、「遺伝子」という言葉は時々出てきます。私のような素人にはなかなかわかりにくい世界ですが、遺伝子技術が社会にどのような影響を及ぼすかは、無関心ではいられないテーマです。いつか一度、サロンでも取り上げたいと思っていましたが、幸い、最近、益田さんのウイルスサロンに参加された山森さんが、遺伝子検査に関わられていることを知り、サロンをお願することにしました。

一度のサロンでは難しいのですが、まずは手はじめに、医療における遺伝子診断との関わりを中心に遺伝子検査の基礎について講座型のサロンをやってもらえることになりました。いま話題の新型コロナ遺伝子の検査、さらにはそうしたことの基礎になっているゲノム編集についてもお話しいただける予定です。

山森さんは科学に関する一般的な知識の普及が遅れていることを危惧されていますが、コロナ問題や種子法などを考えるに上でも、遺伝子に関する基礎知識を私たちはもう少し学んでいく必要がありそうです。

そこで今回はまず、遺伝子に関する基礎知識を、検査という実践の場につなげながら、学ばせてもらうことにしました。講義および質疑応答が中心になりますが、サロンですので、いつものように自由に話し合える時間もつくっていただきました。

テーマがテーマだけに一度だけでは無理がありますが、まずは入門編ということで、お受け止めください。
ちょっと敷居が高いかもしれませんが、湯島のサロンですから、あんまり難しくならないように、山森さんにお願いしていますので、気楽にご参加ください。
よろしくお願いいたします。

〇日時:2020年11月22日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「遺伝子技術の話~遺伝子検査を切り口にして」
〇話題提供者:山森俊治さん(遺伝子と詩吟を愛する理学博士)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2020/10/12

■利便性ともろさとはコインの表裏

昨日、我孫子で電車の乗ろうとしたらカードが使えません。
カードのICが壊れていたのです。
幸いにポケットに1000円札が1枚あったので何とか湯島に行けました。
カード会社に電話したら、やはりICが壊れているようで、再発行してもらうことになりました。

私はいつも現金をほとんど持ち歩きません。
お金が必要な場合は、スイカとクレジットカードで対応しています。
電車は基本的に回数券です。
ところがその回数券もカードと同じケースに入れて持ち歩いているのですが、2週間前にすべて磁気がダメになって使えなくなってしまいました。
たぶん同じ理由でカードもダメになったのでしょう。
どこかで強力な磁気を受けたのかもしれません。

昨日はたまたまポケットにお金が入っていたので、何とか電車に乗れましたが、カードでの買い物はできませんでした。
便利な社会での生活の基盤のもろさというか不安定さを改めて知りました。

お金を持たずに生きていけるので、私にはとてもカードは便利です。
しかしこうしたことが起こると途端に動きが取れなくなります。
便利な社会は、同時に不安定な、あるいは管理されている社会でもあることを改めて思い知らされました。

今回は事故でしたが、もしだれかが操作したら、私の利便性に富んだ生活は一瞬にして壊れるわけです。
むかし、サンドラ・ブロック主演の「インターネット」という映画がありました。コンピューターによる世界支配を画策しているグループによって、個人データを改ざんされ、カード類は一切利用できなくなってしまう話です。
利便性はもろさと裏表の関係なのです。
利便性の追求は、自らの生活を誰かにゆだねる生活でもあるわけです。

昨今のマスク社会を、なんとまあみんな主体性のない情けない生活に成り下がっていることかと冷ややかな目で私は見ていましたが、どうも私自身も同じようなみじめな存在になってしまっているようです。気をつけなくてはいけません。

これを機会にカードを止める選択もあるのですが、まあ注意して使えばいいだろうということにしました。こうやって人はみんな堕落していくのでしょう。
昨日のサロンでも、利便性や生産性の追求には問題があると話してしまった気がしますが、私もすでにその魔力に引き込まれてしまっているようです。
困ったものです。

 

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2020/10/09

■節子への挽歌4777:改装が進んでいますが

節子

倉庫暮らしの状況はさらに悪化し、どこに何があるかわからなくなってしまい、季節が大きく変わりつつあるのに対応に大変です。
予定では、そろそろ2階は工事が終わり、そこでの生活ができるはずでしたが、ちょっと遅れていて、いまもって1階のダイニングでの生活が続いています。
寝室には1階の和室の寝具が持ち込まれ、もう大変な状況です。

そのうえ、ガス工事が大変のようです。
毎日ガス家さんが来ていますが、どうもいい知恵が出ないようで、明日また相談に来るようです。
改装工事も大変です。
節子がいたらすべて任せていたでしょうが、まあ娘にはそうもいきません。

大工さんは高津さんというのですが、高津さんは若いころに奥様を亡くされて、その後、3人の子どもを育ててきたのだそうです。
いまは実父と次男とで暮らしているそうですが、そのお父さんが来週は心臓の手術だそうで、仕事はお休みです。
まさか奥様を見送られているとは知りませんでした。

今日はいろんな人が入れ替わり立ち替わりできていました。
住宅メーカの工事監督は弓削さんですが、今日も来ていました。
今日はシステムキチンの部材も届きだしました。
新たに2階にユニットバスとシステムキチンを入れることになったのです。

節子がいたらまた状況は変わったでしょうが、ともかく家族全員で生活することになったのです。
まあ改装完成後、私がどのくらい生存できるかわかりませんが、その先を考えていても始まりません。
まあ、先はなるようにしかならないでしょう。

節子がいたら、お茶の時間に大工さんと話すでしょうが、ユカはそういうのが苦手ですので、お茶とお菓子を出すだけで終わっています。
私は時々、話に行きますが、邪魔をしてもいけないので、基本はユカに任せています。
私が話し出すと長くなりかねませんので。

今日は寒くて、1階の床暖房を入れたいほどですが、なにしろ部屋中に荷物があふれているので、それもできません。
風邪をひかなければいいのですが。
先ほどからくしゃみが止まりません。

 

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■節子への挽歌4776:「死んでなくてよかった」

節子

今日は寝坊して7時半にユカに起こされました。
目が覚めて返事をしたら、「死んでなくてよかった」と言われました。
あまりにも起きてこないので、心配したようです。
まあ、そんな歳になったのです。

昨夜は2時半に目が覚め、いろんなことが気になりだして、眠れなくなりました。
些細な問題も気になると気になりだして、大きな問題になっていきます。
人生にとって本当に悩むべき問題などは、そうあるものではありません。
しかし、ちょっとしたミスも、気が萎えてくると大きな問題に思えてしまう。

以前、節子が残してくれた預金をほぼすべてある人に融通してしまい、戻ってこなかった時のことを思い出します。
数日、毎夜、眠れなくて、おかしくなりそうでしたが、あの頃の再来のような気がしました。
今回はそんなに大きな話ではありませんが、やはりお金の話です。

お金から自由になっているつもりが、まだまだ執着しているようです。
もっともお金がないとやりたいことができなくなるという意味では、お金の問題ではないのですが。
しかしちょっとしたミスで、金銭的な負担が発生するというのは、いささか恐ろしくもあります。
金銭から自由になったつもりでも、なかなか自由にはなれません。

夢を見ている時に起こされたせいか、まだ不安感が残っています。
どうも今日はこのまま不安感が残りそうです。
困ったものです。

 

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2020/10/08

■節子への挽歌4775:ソクラテスのようなひねくれもの

節子

前にも書きましたが、鈴木さんが私をソクラテスのようだと言い出しました。
まあ、そのきっかけは、私が裸足のサンダルで歩いていることからなのですが、その後、私とソクラテスとの共通点をいろいろと指摘してきてくれました。

鈴木さんは毎年、スペインのサンチアゴ巡礼に行って、湯島でその報告サロンをやってくれるのですが、今年はコロナ騒ぎでいけませんでした。
そこで今年は鈴木さんに読書巡礼の話をしてくれないかとお願いしたら、なんとサロンのタイトルに「〈佐藤さん=ソクラテス〉説をめぐる一考察~そこに人生のヒントが見つかる、かもしれない」を選んできました。
いささか動転しましたが、まあ私が話しのダシになるのでしょうから、このタイトルのサロンをやってもらおうと思います。

まだ案内は出していないのですが、その話を小学校の同級生の升田さんに話したら、なんとまたこんなメールが来ました。
まったく記憶のないことですが、どうも私はあんまり成長していないようです。

修君とは人生の中であまり接する機会はなかったように思う。
ただ私を変えた(衝撃を受けた)会話を忘れたことはありません。

大学生の時でした。
修君との会話。
修「AとBとどっちがいいと思う?」
私。考えた末に「Aがいいと思う」
修「ほんと?そうかなあ。Bじゃない?」
私。東大生の修君がBだと言うんだからBに違いないと迷う。けれどどう考えても私にはAとしか思えない。「Aだと思う」
修「実は僕もAだと思う。だって二人がAだと言ってしまうと思考はそこで止まってしまうでしょ。Bだと言ってそれぞれの何がどう違っているかを考えないと公正な理解は得られないでしょ。だからあえてBだと言った」

これはおそらく私を大きく変えた事件?だったと、衝撃とともに今も忘れてはいません。これって限りなくソクラテス的なんだと思います。(ただし、ソクラテスがなんなのかよく知らない)

一人の女子の考え方、生き方を目覚めさせたなんてことは、修君には全く覚えも関係もないことでしょう。なぜなら、個々のことではなく、それが「佐藤修」の全ての中に包括されていることだと思うからです。

若いころはどうも私はいまと違って、あんまり「素直」ではなかったようです。
いや、いまも「素直」でないといわれそうですが、人の性格は変わらないものかもしれません。

困ったものです。

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■信ずる者は報われる

コロナ禍もあって在宅時間が増えていますが、それに伴い、テレビを観る時間が増えました。当初はコロナ関連もあってニュース番組や報道番組、あるいはドキュメンタリーをよく観ていましたが、8月頃からその種の番組はほとんど観なくなりました。送られてくるメッセージが画一的で、なにやら洗脳番組のような気がしてきたからです。

代わりに増えたのが、昔のテレビドラマです。
多かったのが事件もののドラマですが、こんなにたくさんのものがあったのかと改めて認識を新たにしました。
しかし、そこで扱われている事件の多くは、やむにやまれず起こした事件が多く、犯人、つまり加害者に同情したくなるものが多かったです。こういう番組を観て育った人が多いはずなのに、どうして最近の犯罪加害者は、やむにやまれぬどころか、やらなくてもいい犯罪を犯してしまうのでしょうか。テレビに洗脳されるのは私くらいなのでしょうか。困ったものです。

いま一番気に入っているのは、「浅草ふくまる旅館」シリーズです。
https://www.bs-tbs.co.jp/drama/DRT1100400/

2007年に放映されたものの再放送です。
義理人情に篤く、人を信じやすく、他人の世話をやく事で知られるふくまる旅館の3代目主人福丸大吉の物語です。
福丸大吉役は西田敏行さん。番頭役が渡辺いっけいさん。いずれも私の好きな俳優です。

ともかく観ていて気持ちがあったかくなります。
そして、こういう社会で生きたいなあと痛感します。
私の生き方もまんざらではなかったと思いつつ、しかしまずは福丸大吉さんの生き方に、少しでも近づきたいと思って、毎日観ています。
近づけるといいのですが。

 

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■連続サロン「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」のご案内

私事なのですが、最近、どうも元気が出ません。
理由はいろいろあるのですが、心当たる一番の理由は「新型コロナ騒ぎ」です。
世間の風潮などは気にせずに、自分の生き方をできるだけ維持しているつもりですが、生活は他者とのかかわりのなかで成り立ちますので、結果的に私の生活も大きく変化してきています。
新しい生活様式などという言葉も使われていますが、私にはどうしても「いい方向」に向かっているようには思えません。人と会う機会は少なくなり、在宅時間が増え、生活がどんどん単調になってしまってきています。それに先がなかなか見えにくくなってきています。

そういう状況は私だけではないと思いますが、社会全体も、企業業績が悪化し失業者が増えたり、自殺者がでたり、いがみ合いによる事件が増えたりと、いささか健全さを失ってきているように思います。

しかし、その一方で、見えにくかった社会の実相を可視化してもくれています。これまであまり考えずに受け入れてきていた「常識」を問い質す機会になったり、変えられなかった仕組みや生活様式が変わってしまったりもしています。

仕事の進め方や学校や大学での学び方、あるいはイベントや冠婚葬祭のあり方、消費行動や人との付き合い方の変化、そうしたことが、政治や経済にも大きな影響を与えていくことは間違いないでしょう。
今回の「コロナ禍」を、受け身で防衛的に対処するのではなく、むしろそれによって起こった変化をどう活かしていくかを考えることが大切です。

そこで、2回にわたり、まずは「コロナ禍で何が変わったか」を中心に話し合い、2回目は「コロナ禍をどう活かすか」を中心にして、それぞれ自らの生き方を考えるようなサロンを企画しました。
できるだけ多くの人が参加できるように2回の開催にしました。しかし、連続参加は難しい人も多いと思いますので、いずれの回も、「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」をテーマにしますが、どちらかと言えば、1回目は前者に、2回目は後者に重点を置いていきたいと思います。

参加者それぞれが、自らの生き方を前向きに考えるような時間が持てるサロンになればと思っています。
私もこのサロンで、元気を回復したいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

〇日時:2020年10月10日(土曜日)午後2時~4時
    2020年10月11日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「コロナ禍で何が変わったか、コロナ禍をどう活かすか」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌4774:暮らしぶりを思い出させる食器たち

節子

改装に伴い、食器棚などの整理を始めました。
節子は食器が好きだったのですが、ここに転居してきたときに整理し、フリーマーケットなどにも出していましたので、それなりに整理されていると思っていたのですが、いろんなものが出てきました。

なかには暮らしぶりを思わせるものもいろいろと出てきました。
以前は家族数も多く、またお正月などにはにぎやかな集まりもありましたの、大きな器も出てきました。
回転ずしのための回転する食器やエスプレッソ用のカップセットも2セットも出てきました。
エスプレッソのコーヒーメーカーも購入していましたが、たしか数回使っただけでした。
もう使用しないと思い、リサイクルショップにもっていきましたが、購入してもらえませんでした。
また抹茶セットも出てきましたし、何やら華美な茶碗も出てきました。
節子の趣味の良さと悪さを思い出しました。

食器には「暮らしぶり」があらわれます。
むかしは、食器を通して、暮らしが世代を超えて伝えられたのかもしれません。
私にはまだそういう感覚があるのですが、娘たちにはあまりないようです。
それに最近は、わが家の場合は大人数で集まることがなくなりました。
ですから食器もセットで使う機会はなくなりました。
しかし何やら捨てるのも申し訳ない気がします。

今回の改装で、キチンもダイニングもせまくなるので、食器棚も機能的なものに変えることも考えましたが、結局、これまで使っていた食器棚をもう一度使うことになりそうです。
節子との生活をかなり長いこと支えてくれた食器棚です。
今様ではなく、使いにくく、雰囲気も新居にはあまり相応しくないのですが、前回の新築時も廃棄せずに残したのです。
娘たちにはあまり思いはないのでしょうが、私には何やら「生命」を感じます。
まだ確定ではないのですが、今回もきっと残されるでしょう。

生活を支えてくれた家具や生活用具が、廃棄されるのは、とても寂しいです。
家が壊されていくのも、それなりにさびしいのですが。
もしかしたら、それが最近の元気のなさの原因かもしれません。

 

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2020/10/07

■第10回万葉集サロン「忘れられてゆく神々―〈た〉から覚醒する〈わ〉。そして〈な〉へ」のご案内

升田さんの万葉集サロンでは、歌を通して、日本列島に住んでいた人たちが、「人間」として覚醒していくさまを見てきましたが、今回は、いよいよ「覚醒する〈わ〉」がテーマです。
こういうと難しそうですが、要は人々のなかに人への「恋」が芽生え、自然(神)を賛美する叙景歌と並んで、抒情歌が増えてきたことを、東歌を中心とした作者不明歌群から読んでいきます。

升田さんからのメッセージです。

今回も東歌を中心とした作者不明歌群を扱いますが、恋の歌が圧倒的に多いことに目を向けます。なぜ恋の歌ばかりが多いのか。そのことと序詞の問題はつながっているように思います。

結婚は神聖な儀礼であり、記紀神話の最初に挙がるのがスサノヲ命の「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という歌謡であることが大きな暗示を与えています。神の領域である神婚(結婚、恋)を根底に持つ万葉恋歌の序詞は、おそらく神の領域の言葉でした。そこから人の領域へと広がって「た」から「わ」への覚醒がはかられるのは「歌」のかかえる「言」の呪性ゆえであると考えると、序詞の意味が大きくとらえられます。その上で、「た」から「わ」への覚醒、神の領域から人の領域への変移が明らかな歌も少し見てみたい。

「名」は「宣(のる)」という。現代にも残っている「なのり」の「のる」は、呪詞です。「た」から「な」、「な」から「名」への覚醒についても考えたいと思います。

というわけで、記紀神話や風土記も参考にしながら、恋の歌がなぜあふれ出したのか。恋の歌が宴席で戯れ歌となったり、自然はその美を客観的に描写する叙景歌へと進んだり、そんな新しい万葉歌が誕生してゆくことを読み解いてくれるそうです。

初めての方も大歓迎です。気楽にご参加ください。

なお、前回参加された方は前回配布の資料をご持参ください。
今回新たに参加される方は、ご連絡いただければ前回の資料を事前に送らせてもらいます。

〇日時:2020年10月17日(土曜日)午後2時~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「忘れられてゆく神々ー〈た〉から覚醒する〈わ〉。そして〈な〉へ」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■節子への挽歌4773:読書が復活しました

節子

あっという間にまた挽歌を10日ほど書かずにいました。
気を許すと時間はすぐ立ちます。
この10日間はそれなりにせわしない10日でした。
相変わらず忙しいのか暇なのか、よくわかりませんが。

水の館でイベントをやり、湯島のサロンも毎週やっていましたし、家の改装は着々と進んでいます。
最近また読書も再開、印象的な本も読みました。
たとえば、ネイサン・シュナイダーの「ネクスト・シェア」。
副題が「ポスト資本主義を生みだす「協同」プラットフォーム」ですが、まさに私が30年前にたどり着いたビジョンです。

松岡正剛さんの「日本文化の核心」も、新書ですが、面白く読みました。
ようやく読書できるようになってきました。

しかしそれ以上に最近は、テレビドラマを見るようになってしましました。
それも10年以上前のドラマです。
最近のものと違い、どこかにあったかさがあるドラマが多いです。
それにのんびりしている。

いま一番気に入っているのが、西田敏行主演の「浅草ふくまる旅館」です。
これが実にいい。
旅館種の福丸さんは、誰でも信じてしまいますが、誰もがそれに応えてくれるのです。
いい時代だった。
いやいい生き方だと言うべきでしょう。
見習わなければいけません。

もっとも福丸さんも伴侶を亡くしています。
伴侶を亡くしてもあんなに明るく生きられるのはじつにうらやましい。
やはり地に足着けた生き方をしてきたからでしょう。

少しでもそれに近づきたいと思います。

 

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2020/10/06

■第3回益田サロン「免疫の話」報告

細菌学者の益田さんのサロンの3回目は「免疫の話」でした。
最初に益田さんは、自ら手づくりしたコマをみんなに配り、それを回して、コマに「自己」を感ずるかという、謎かけめいた問いから始めました。
そして破傷風菌の話から、「自己」とは何かを問いかけてきました。

破傷風菌には、毒素を持つものと毒素を持たないものがありますが、毒素を持つ破傷風菌は寄生している生物もろともに死に、その生物の死骸から栄養を得て毒素を持たない破傷風菌を爆発的に増殖させることにより、破傷風菌を守っているのだそうです。

そんな話から、自己とは何か、そして増殖と自己保存の話になりました。
環境が悪化すると自らを保存するために「芽胞」になる戦略から、ウイルスとウイルス粒子の話も出ました。
さらに、臓器移植やアレルギーの話から抗体や免疫寛容の話へと広がり、時に脱線しながらも、自己非自己や免疫、あるいは新型コロナ問題を考える上での示唆がたくさんありました。
私にあまり報告能力がないのが残念です。

話し合いの中では、自然免疫の話や感染しても発症しない人が多いことへの疑問などが出されましたが、発症してこそ「病気」だろうと思っている私としては、陽性者数で議論されている風潮にどうも違和感があります。
その疑問はやはり今回も解けませんでした。

益田さんの話は、今回も新型コロナを考える上でも、さらには私たちの生き方を考える上でも、示唆に富むものでした。
たとえば、増殖と自己保存の問題は、まさに私たちの生き方につながってくるように思います。サロンの翌日、益田さんからもらったメールに、こんなことが書かれていました。ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

生物は増殖することは良いことだというのも怪しいのですが、優秀な遺伝子を遺そうとするのも同様に怪しいのでは。優秀な遺伝子は自分だけで保有したい、ほかには渡したくないというのが本音ではないでしょうか。(中略)ウイルスが、条件が良ければ増殖するというのもおかしいので、むしろ条件が悪いから増殖するという方が正しい、宿主細胞の中で何もしないで存在を続けるのがウイルスにとっては最高のことなのでは。

とても納得できますが、みなさんはいかがでしょうか。
増殖や経済成長が、自己保存への不安から起こっているとしたら、その戦略以外の戦略もあるはずです。これからの社会のあり方や私たちの生き方を考える上での大きなヒントがそこにある。

益田さんは最後に、「新型コロナはお金の天敵かもしれない」というような話をしました。お金中心の世界の増殖を、新型コロナが邪魔しているというのです。
これには異論があります。
私自身は、新型コロナは天敵ではなく、お金の手先のように思えます。お金中心の世界が新型コロナを生みだし、お金中心の世界を増殖させている。金銭信仰や金銭格差は新型コロナでさらに拡大するのではないかと思います。

自己と非自己に関しても、少し議論がありました。私は、自己と非自己という「二項対立」ではなく、むしろ日本古来の「二項同体」という考え方が馴染めるのですが、自己と非自己の付き合い方を根本から考え直すのがいいように思います。

いま話題の新型コロナは、コウモリと平和な関係を保っていたのに、そこから出ざるをえなくなって、自己保存のためにいま、新しい寄生先を探していて人間がその対象のひとつになったといわれていますが、ここからもさまざまな示唆が得られます。

他にも、たとえば、新型コロナウイルスとコミュニケーションできるのかとか、ウイルスは成長や老化をするのかなど、いろんな話題もでました。
参加者が少なかったこともあり、個々のテーマも少し深堀できたのですが、横道も多くて、肝心の免疫の話はちょっと不十分だったので、次回もまた「免疫」がテーマになるかもしれません。

報告の文責は私にあります。不正確な表現があればお許しください。

隔月を目途に益田さんのサロンは継続します。
新型コロナに関心のある人はぜひ参加して、益田さんと直接話してみてください。

Meneki201003

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2020/10/05

■平将門の居城は我孫子市の湖北にあった!!

我孫子市の湖北に住んでいる戸田七支さん(我孫子市の文化を守る会会員)は、平将門の居城は我孫子市の湖北にあったと主張しています。
戸田さんは、『将門記』にその根拠を見つけているのですが、残念ながらいわゆる「状況証拠」はあるのですが、「物証」が確認できていません。
湖北には将門神社や将門の井戸などもあって、おそらくその気になれば物証も見つけられるかもしれません。しかし、いまのところ、戸田さんの主張はなかなか広がっていません。

我孫子の市議の海津さんから、その話を聞いていたのですが、海津さんとまちづくり編集会議の櫻井さんが戸田さんに会いに行くと言うので同行しました。
湖北と言えば、その近くに中里薬師堂というのがあって、そこに残されていた十二神将像を今年初め見せてもらって感激したことがあります。どうもそれともつながっているようです。
http://cws.c.ooco.jp/action20.htm#0217

櫻井さんの車で連れて行ってもらったのですが、昨年、相馬霊場巡礼で歩いて、30キロ達成直前でダウンしたところの近くでした。
戸田さんの話は魅力的でした。一度、まちづくり編集会議でも話をしてもらおうと思いました。事実を知った人が増えれば、必ず誰かが動き出します。
相馬巡礼も年内にはもう一度チャレンジする予定です。

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■『手賀沼でやりたいことプレゼン大会(仮)』の報告

我孫子まちづくり編集会議は、地域社会を楽しくしたいと思っている人たちがお互いに支援しながら、新しい物語を生みだしていくオープン・プラットフォームづくりを目指していますが、今回、『手賀沼でやりたいことプレゼン大会(仮)』のテスト開催を開催しました。
これまでいろいろと話をしてきましたが、ともかく「議論」より「実践」ということになりました。それがタイトルの「大会(仮)のテスト開催」という表現になっています。

告知も“WE LOVE ABIKO”というフェイスブック・コミュニティに案内を投稿しただけで、まずはメンバー中心で小さくはじめ、体験知をシェアしながら活動の進め方も模索していこうということになったのです。
幸いに、“WE LOVE ABIKO”を通して知ってくださった方も含め、総勢14人の集まりになりました。10代の方の参加も2人ありました。

最初に会の趣旨などを説明した後、参加者の自己紹介、つづいて、手賀沼を舞台に『私がやりたいこと』を2人の人から発表してもらいました。
今回は、これまで話し合ってきた「手賀沼台船祭り」プロジェクトと「人をつなぐペーパーメディア」プロジェクトで、発表後、参加者それぞれが興味を持ったプロジェクトを選んで、グループ・ディスカッションを行いました。
何の働きかけもしなかったのですが、みごとに同じ人数に分かれました。
グループごとに話し合った後、それぞれからどんな話があったかを紹介してもらい、それを踏まえて全員で話し合いました。
結論的には、いずれの提案も仲間が増えて、具体的に前に動き出すことになりました。

最後に、こういう活動をこれからどう進めていったらいいかも話し合いました。
初めて参加してくださった方から、こういうスタイルの集まりを定期的に開催したらどうかとの提案もあり、早速、11月に第2回目の「テスト開催」を開催することになりました。
発表プロジェクトはまだ決まっていませんが、もしこれをお読みになって、自分も提案したいという方がいたらご連絡ください。ちょっとしたアイデアでも、思いを参加者に呼びかければ、みんなが「思い」を「かたち」にしてくれるかもしれません。そういうプラットフォームを目指したいと思っています。

我孫子まちづくり編集会議は、これから毎月、2回程度の開催を予定しています。
ちなみに、いまは「我孫子」とタイトルしていますが、地域は我孫子市に限ってはいません。柏や白井のメンバーもいますし、昨日は東京からの参加もありました。
とてもゆるやかな、楽しい集まりですので、ご関心のある方は気楽にご参加ください。

みんなが主役になって、そしてお互いにできることを引き受けながら、自分の住んでいる地域を楽しくしていく、そんな「みんなの支え合うつながり」を育てていければと思っています。

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