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2020/10/15

■コミュニティということ

前の記事(「家族ということ」)の続きです。

生きているといろいろなことがあります。
いいことばかりではありません。
苦しみも悩みも、辛いことも悲しいこともある。
怪我もすれば病気にもかかるし、死も避けられません。
でも、だからこそ生きているよろこびがある。

新型コロナウイルスの感染ばかりが騒がれますが、私の友人は胃がんで余命宣告され、最近亡くなりましたが、彼は一切、新型コロナを気にしませんでした。そんな余裕はなかったのです。何回も会いましたが、コロナの話は一度も出ませんでした。
自宅療養でしたが、事態が急変し、緊急入院したことを病院の医師から連絡を受け、万一の場合、延命手術をするかどうかを医師から訊かれて、あわてて病院に行きました。
彼は一人暮らしだったので、私が入院の保証人でした。

医師と話しましたが、病院はいまコロナで面会できないといわれました。
しかし、もしかしたら最後になるかもしれません。ここで会わずに帰ったら後悔するでしょう。そう思って医師と看護師に相談しました。
看護師の方がそういう場合は医師の許可があれば大丈夫だと言ってくれました。
医師ももちろん許可してくれました。
以来、私以外の友人にも案内して会いに行ってもらいました。
コロナ感染を気にしていた友人も会いに来てくれました。
そして、彼は生きる意欲を回復して一度自宅に戻れました。
最期はとても幸せそうな表情で、安らかに逝きました。

新型コロナウイルス感染症だったために、家族が死に目に会えなかったという有名なタレントの報道がありましたが、もしそれが本当であれば、実に悲しい話です。
だれが何と言おうと遺族は会うべきでしたし、医療関係者は会わせるべきでした。
それが人の道です。ルールも法も人の道のためにこそある。
感染しないように注意することは大切ですが、感染を広げないことも含めて、いくらでも方法はあるはずです。
それに万一、感染しても、遺族は会わないで見送るよりもよかったと思うでしょう。

これは家族に限ったことではありません。
親しい友人の場合にも言えることです。
「家族遺棄社会」という本に、こんな言葉がありました。

感染リスクを顧みず直接会ってくれる人がいるというのは親しさの指標。

これは全く同感です。
逆に言えば、感染リスクがあるからと言って、会うことを諦めるような付き合いであれば、それは知人ではあっても、友人とは言えないでしょう。
そういう意味での「友人」がどのくらいいるか。
それこそがその人の生活圏の豊かさの指標です。

「コミュニティ」という言葉がよく使われるようになりましたが、コミュニティとは「重い荷物も背負い合う人のつながり」と考えている私にとっては、ほとんどのコミュニティ論は言葉だけの遊びです。
そう簡単にコミュニティはつくれません。その人の長年の生き方が生みだすのが、コミュニティだろうと思います。

コロナ感染の不安感が、社会からコミュニティをなくしてしまうような不安があります。
マスクもせずに、毎週、湯島でサロンを開いているのは、こうした私のコミュニティ観の表れでもあります。
少なくとも私は、コミュニティがなければ生きていけない弱い存在ですので。

 

 

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