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2020/10/16

■節子への挽歌4783:捨てる悼みと事霊

節子

改装のためにいろんなものの整理を少しずつしているのですが、今日は節子の写経の道具が出てきました。節子がいなくなった直後の整理では見落とされていたものです。
節子はどこかのお寺でも写経していましたが、あれはどこだったでしょうか。当時、私はまったく興味がなく、一緒しませんでした。
習字の道具や木目込み人形作りの道具、スケッチの絵具やパレットなども出てきました。
これらも封印されたままになっていたものです。

それにしてもいろんなものが出てきます。
テーブルクロスなどのクロス類もたくさん出てきました。
私用にわざわざ購入した料理用のエプロンも出てきました。
こうしたものがこれまで空間を占拠していたわけですが、今回はかなり整理しようと思います。ちょっと時間をかけながら、ですが。

私にはまったく見覚えのない物も、娘には記憶が残っている物も少なくありません。
物が人の記憶をよみがえらすのをこの数日何回も体験していますが、それもあって物の整理はなかなか進みません。私は「言霊」ならぬ「事霊」を感じているので、断捨離はまったく馴染めないのです。そもそも「断捨離」という言葉にも大きな違和感を持っています。

先日、30年ほど前に読んだ「日本人の言霊思想」という本が出てきたので、改めてそれを読みましたが、人麿の事霊と憶良の言霊という話がでてきました。言霊は事霊から生まれてきたことを思い出しました。私の事霊感は、この本を読んだ頃からのものだったのかもしれません。

「日本人の言霊思想」に限らず、昔読んだ本を最近、読むようになってきました。
以前読んだ頃のことを思い出しながら読むこともありますが、本もまた、昔の世界とつないでくれます。本に書かれていることは、内容だけではないのです。
物にも本にも、そこにはもう旅立ってしまった人たちが生きています。
だからそう簡単には捨てられないのです。

むかしの本を読み出すといろんなことが想起されて、本の内容よりも、そういう記憶の方が強くなってしまうこともあります。
それでまあ、結局は通読しないことが多いのですが、いろいろ思い出して、元気になることは多いです。
本は読むものではなく、触れるものだと考えていた時期があり、むやみに本を買っていた時期があります。

最近は経済的な理由で本は図書館から借りることが多いのですが、私が本をしっかりと読むようになったのは、そうなってからです。それまでは、本は触れるもの、毎日触れているだけで内容が伝わってくると信じていました。その頃の方が、いまよりもほんとの関係は深いような気もします。

捨てられずにいる物は、時に大工さんの後押しで捨ててきたものもありますが、捨てる痛みはいつも残ります。

 

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