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2020/12/01

■湯島サロン「資本主義の先に何があるか?」報告

坪田さんから斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』の紹介をしてもらうサロンは、14人の参加者がありました。
大きなテーマは、改めて経済や社会のあり方を考えようということです。
斎藤さんは30代の若者ですが、サロンにも30代の若者が2人参加しました。
ちなみに、斎藤さんはマルクス研究会の最高峰の賞といわれるドイッチャー記念賞を世界歴代最年少で受賞しています。
提唱しているのは、「脱成長経済」です。

坪田さんは、『人新世の「資本論」』の内容を、しっかりとまとめてきてくれて、各章にわたって内容をていねいに説明してくれました。そして最後に、全体を200字で要約してくれました。それを掲載させてもらいます。

気候変動は人類絶滅の危機。SDGsはまやかし。資本主義では対応不可能。マルクスが晩年に考えたように生産力至上主義を捨て、「脱成長コミュニズム」で対応するほかない。水、エネルギー、教育などを〈コモン〉として共同管理すべき。環境負荷をグローバル・サウスに押しつける「外部化社会」を脱しよう。その挺子が「気候正義」と「食料主権」。「信頼」と「相互扶助」を基礎に参加型民主主義を拡張していこう。

キーワードは、「脱成長コミュニズム」「コモンの共同管理」「気候正義と食料主権」「信頼と相互扶助を基礎にした参加型民主主義」です。要約にはありませんが、もう一つ「多様なローカル運動」も出てきました。
このキーワードはいずれも湯島のサロンで1回ならず登場した概念です。

参加者は、私も含めて、同書を読んでいない人が多かったのですが、同書を読んだ30代の参加者は、合理性と計画経済が20世紀の重化学工業と結びついたために、生産の拡大が社会主義のように思われてしまったが、マルクスの原点では、合理性は抑制のために使われていたという指摘に着目すべきだと問題提起しました。
私の認識不足で、その意味を消化できずに、理念と政治とはいつも反転するものだなどというコメントをしてしまい、議論が深められなかったことを、後になって反省しました。マルクス理解は人によって真反対のことがありますので注意しなければいけません。

もう一人の30代の若者は、弱者が切り捨てられる今の資本制社会の中ではレールに乗れないと生きていけない、と激しく発言しました。
前の30代若者もそうですが、どうも今の社会では、30代の知性は「生きる意味」を見出しにくいようです。2人の強い感受性に、言葉の無力さを改めて感ずるとともに、先日の20代の若者の身体知サロンとはまた全く別のエネルギーを感じました。

彼らの誘導のおかげで、コミュニケーションの捉え方やレールに乗った生き方は幸せなのかなどといった、話にまで広がりました。
斎藤さんが示唆する「価値の反転」とまではいきませんでしたが。

新自由主義的な欲望の資本主義はいま、新型コロナのおかげで、その限界や矛盾が少しずつ見えるようになってきています。斎藤さんが言うように、「資本主義では対応不可能」という認識も高まってきています。
そうしたなかで、改めて、マルクス資本論への関心が戻ってきている。

マルクスは、多くの経済学者と違って、資本主義を歴史を超えたものとは捉えていません。むしろ資本主義は人類の歴史にとっては、一時的な形態だと捉えています。
しかし、まだまだほとんどの人が「資本主義」を批判しながらも、資本主義の枠の中で考えています。資本主義の枠の中で考えている限り、何も変わらない。

たまたまですが、資本主義の枠を超えて暮らしている霜里農場の金子友子さんが参加していました。
彼女たちの生き方から考えると、「脱成長コミュニズム」などという言葉は私にはむなしく響きますが、実際には重なるところもあります。
そういう意味では、霜里農場の実践は示唆に富んでいます。

食料主権に絡んで、金子さんには種苗法の問題を少し話してもらいました。
食は文化の基本であるばかりではなく、生きる基本であり、身体知につながっています。昨今の食文化の劣化には資本主義の象徴を感じていますが、斎藤さんが「食料主権」に注目していることに安堵します。歴史における多くの革命や圧政は、「食」を起点にしているといわれます。

大切なのは、「脱成長経済」は「定常経済」なのかということです。
定常経済は、200年近く前にすでにジョン・スチュアート・ミルが理想の経済として提唱しています。そもそも「成長」とは何かがきちんと語られなければいけません。
そのあたりの「ビジョン」は、本書ではまだ明らかにはなっていないようですが、坪田さんはこれから斎藤さんは書いていくだろうと期待しています。

希望の資本主義は1970代くらいまでは人々を豊かにしてきました。
しかし、1970年代に流れは反転し、希望ではなく欲望の資本主義へと変質し、経済は市場の拡大に向かい、人々は消費者へと駆り立てられました。そして、「顧客の創造」が企業の役割にされだしました。マルクスが危惧したように、汎商品化が進み、今や人間さえもが「商品」になりだしています。

1970年代は、また経済成長の限界が語られだした時期でもありました。
そこからSDGs運動へとつながっていくわけですが、斎藤さんは「SDGsは大衆のアヘンである」と、いささか過激に語っています。
確かに、気候変動危機は臨界点を越えはじめているのかもしれません。

そういう状況の中で、マルクスの「資本論」に戻ろうという動きが高まっているわけです。資本論を通して、資本主義の先を考える。できれば来年の湯島サロンの大きなテーマのひとつにしたいと思います。

Sihonron20201127

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