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2020/11/03

■湯島サロン「〈佐藤さん=ソクラテス〉説をめぐる一考察~そこに人生のヒントが見つかる、かもしれない」報告

私が話のダシになっているサロンなので、参加者は少ないといいなと思っていたのですが、幸か不幸かかなりの参加者になってしまいました。
しかも若い世代も多く、1歳の娘さんを連れて久しぶりに遠方から参加してくれた人や親子で参加してくれた人など、いつもとはちょっと雰囲気の違うサロンになりました。

鈴木さんは、しっかりしたレジメをつくってきてくれ、そこにはソクラテス関連だけではなく、鈴木さんの豊富な読書メモから引用されたさまざまな言葉が整理されていました。
〈佐藤さん=ソクラテス〉などという枠を外してそれを議論するのがいいと思ったのですが、不本意なことに私がまな板の上に乗せられがちで、本来のテーマの「人生のヒント」の話にはなかなか進まなかったのが残念でした。

そんなわけで、報告も書きづらく、誰かに変わってもらいたいほどですが、私以外の人が書き手になってくれそうもありませんので、仕方なく、鈴木さんの話の内容をはずしての私の感想を報告に代えます。
鈴木さんのお話は、当日のレジメにわかりやすくまとめられていますので、鈴木流「人生のヒント」のレジメを読みたい人は別個にご連絡ください。

以下、記憶に残っていることを少しだけ。いささか禅問答的な報告ですが。
ソクラテスも私も裸足でサンダルということに関連して、私も会社時代はネクタイをしていたと話したら、「なぜ?」と若者から問われてしまいました。当時は何の疑いも持っていなかったのです。服装に限らず、私たちは「社会の常識」によってすでにいろんなことを自粛させられているのかもしれません。みなさんの話を聞いていて、「衣食足って礼節を知る」は真理ではないなと思いました。

親子関係が実に素直な親子が初参加されていて、息子さんの方が激しく親に対する心情を吐露しました。それを聞いていて、ソクラテスの対話や会話の意図がだいぶわかりました。話を飛躍させれば、ソクラテスが従容として毒杯を飲んだ理由もわかるような気がしました。ちなみに、対話はある意味での「越境行為」ですが、それが起こす争いや絆はコインの裏表だなと改めて思いました。

もう一つ感じたのは、人は自分の世界の中でしか他者を見られないということです。
サロンでの鈴木さんの話は、参加者の一人が指摘していましたが、鈴木さんの生き方の話と受け止めても違和感はないのです。他者への批判は往々にして自らへの批判でもあるように、他者への共感は自らへの共感でもあると、改めて思いました。私たちは、他者を通していつも自分に出合っている。ソクラテスもそうだったのだろうなと思いました。

さて報告になったでしょうか。
なっていませんね。すみません。
鈴木さんには申し訳ないのですが、まあ寛容な鈴木さんは許してくれるでしょう。
しかし、サロンに参加された方たちは、それぞれにいろんな気づきを得たように思います。サロン終了後のみなさんの表情にそれを感じました。
私もまた、私自身の生き方の欠落部分に気づかせてもらいました。
鈴木さんに感謝しています。

さて脱ソクラテスを目指さなければいけません。

Sokuratessalon1

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