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2020/12/15

■升田万葉集サロン第1期のまとめ

升田万葉集サロンの過去12回(第1回~11回および番外編)での話を升田さんにまとめてもらいました。

 ■「た」から覚醒する「わ」

「歌(序詞)」+「言」→「神の領域」+「人の領域」。歌の構造をこのように説明した。「序詞」は修辞ではなく、下の語と意味上、感覚上、融即的に深くかかわる。

階級を持たない「た」の世界の原質は、神と共生する意識の温床としての霊的世界にある。「た」は「他」ではなく「多」として無意識的な空間を形成し、「わ」はその中でゆるやかに共生する。

神の領域「歌(序詞)」に依ることで、人の領域「言」を自由に発声している。「歌(序詞)」の原質が自然をはじめとする神々の心(ことば)にあるから、それに依る信頼は「言」を、自由にした。したがって、「言」は、自我の主張語ではない。むろん、記号化した言語でもない。からかい、悪口、反発、憧れ、情熱、労苦、悲涙…全てゆるやかに受容し、集団共有の感興、連帯感が歌を明るくする。神の領域は、共生を広げ、互いの理解を思いでつなぎ、「言」のコミュニケーションを助ける。

かつて聞いた神の言葉(神話)は、言い伝えられてゆく内に慣用というフィルターが懸けられ、異なる方向へと転換する。『万葉集』は、その変わりゆく前後のありようをとどめた“存在史”である。

やがて神と人との分化が「歌」の様相を変化させ、個の抒情へとかたむいてゆく。

このような“存在史”の中で、「た」から「わ」が覚醒するありようが見えてくるが、「文学」意識とはまだ遠いかもしれない。特に、作者不明歌(東歌)においてはである。が、将来に文学とは何かを問うときの礎として大切に思う、人間の営為の一つである。

 ■「な」と「名」

「わ」と対峙する最小単位の「な」。「な」を意識して「わ」は新しい自分を意識できる。そして、「な」の「名」がさらに、「た」の中の「わ」の存在の意味を想起させるであろう。

神話は、神々の名によって世界に秩序が生まれ、天地が創造されて行くところから始まる。「名のり」の「のる」は、「名」が呪性を持つことを示しているが、「名」は属性を示し、「名」付けることによって生命が付着し、そのものに霊性が定まる。

生命は永遠であり回帰するという思想は「名」が永遠の生命を持つことは、物語、伝説や日分などに象徴されている。

古代の「名」のりは、生命をもらう(あげる)ことにつながる。雄略天皇の赤猪子の話(記)は、一見美談のようにもきこえるが、異なる解釈ができるであろう。ことは、「名」を聞いたところから始まっている。『万葉集』巻頭歌の雄略天皇の歌に、「家聞かな 名告らされ」とあるのもそれと不可分ではない。

 ■人麿の詩性

人麿の詩性を、死者の「わ」と交換する霊性から見てゆく。
近江荒都歌を読み直して、それをたしかめたい。同時代の高市黒人の近江の歌とくらべてみても、宮廷歌人と称される人麿の方が、作者不明歌の世界に遥かに近い。

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