■節子への挽歌4833:「あいまいな喪失」
節子
今朝の朝日新聞の「いま考える「死」とは」と題する、柳田邦夫さんのインタビュー記事が掲載されています。
「あいまいな喪失」とは、「はっきりしないまま、解決することも、終結することもない喪失」のことで、死者の最期に時間を共にできないときに起こる喪失感です。
私には体験はありませんが、そのやりきれなさは想像できます。
立ち上がれなくなる人は少なくないでしょう。
私は両親も節子も、3人とも最期を共にできました。
節子とは最期はもちろんですが、死後も2晩ともに時間を過ごしました。
今はあまり記憶がありませんが、3晩かもしれません。
お通夜の後の夜は、広い葬儀場で、真夜中も節子と2人だけで過ごしました。
異様な体験もしましたが、ゆっくりと話せました。
ですから「あいまいな喪失」ではないのですが、それでもその喪失感から立ち直るのは時間がかかりました。
いやいまなお完全には立ち直れはいないかもしれません。
だからこそコロナによる死者との面会を拒否することには大きな違和感があります。
どう考えてもおかしい。
感染を防止することは難しい話ではないはずです。
感染予防という名目で、死に際に会えないとか死者との接触を認めないというのは、私には理解できません。
どこか間違っている。
その一事をもってしても、今のコロナ対策は基本から間違っているとしか思えません。
柳田さんは、インタビューに答えて、思い返す中に亡き人は生きていると言っています。
その言葉にも、心から共感できます。
仮想現実で死者をよみがえらせる技術には、共感は全くできない。
もっとも実際にそれが現実化したら、心が揺らぐかもしれませんが。
| 固定リンク
「妻への挽歌20」カテゴリの記事
- ■節子への挽歌5354:「畑に行かない券」のプレゼント(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5353:81歳まできてしまいました(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5352:落ちてきたひな鳥(2022.05.27)
- ■節子への挽歌5351:畑に2回も行きました(2022.05.26)
- ■節子への挽歌5350:元気がだいぶ戻りました(2022.05.25)
コメント