■節子への挽歌4842:貧しいものは救われる
節子
午前中、リフォーム工事の細かな作業の追加でクロス関係の人などが来てくれました。
その関係で、昼食を食べそこなったので、娘が回転寿司に行こうということになりました。私と違って、娘はお寿司が好きで、お寿司なら何でもいいのです。
待ち時間があるといやなので、確認してもらったら、空いていたので今日はスシローで昼食でした。
前回は意外とスシローもおいしいではないかと思い、予想以上に食べられたのですが、今日は食が進みませんでした。
2皿ほど食べたところで、全くおいしく感じられずに、食が進まなかったのです。
私につられてしまい、娘もあまり食べませんでした。
娘は、先日、武田さんにおいしいお寿司をごちそうになったので、まだその時の味覚が残っていて、おいしいと思わないのではないかというのです。
確かに言われてみるとそうかもしれません。
同じものを食べても、前回はおいしいと思ったのに、今日はおいしく感じない。
回転寿司は寿司ではないという人は、いつもきっとおいしいお寿司を食べているのでしょう。私のように、普段あまりおいしいお寿司を食べられない貧しい人は、どんな回転寿司もおいしく食べられる。
さてどちらが幸せか。
どんなお寿司もおいしく食べられるほうが幸せなのではないか。
そんな気がします。
いつもおいしいお寿司を食べられるのが、一番幸せではないかという考えもあるでしょうが、そのためにはたぶん失うものも多いはずです。
おいしいものは、たまに食べるのがいい。
分不相応な食事は、人を不幸にしかねません。
次回は断らないといけませんが、さて断れるでしょうか。
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