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2021/01/14

■疑いのまなざし

COVID-19感染症に関して、私が一番気になるのは、「疑いのまなざし」を広げていることです。

私はマスクをすることに抵抗があるのですが、それは自分も感染しているということも含めて、「他者は感染しているのではないか」という疑いを前提にしているからです。
感染を拡大させないために、常に感染の可能性を踏まえて行動するのがいいとは思う一方、そういう生活を続けていると、他者を疑うことが基本的な他者を見るまなざしになってしまうのではないかという不安があるのです。

私は、基本的に「他者を信頼する」という生き方をずっと続けています。
そういう生き方をしてきた者にとっては、これは生理的に耐え難いことなのです。
しかし昨今の状況では、マスクをしないで電車に乗ったりお店に行ったりするわけにはいきません。いまやそれが社会のルールになってきていますし、なによりもそれがおかしいわけではないからです。

しかし、やはりマスクをすることにはストレスを感じます。
周りへの、あるいは自分への「不信」を表明しているような気がしてしまうからです。
加えて、マスクをすることで、何やら「安心」してしまうことにも違和感があります。

私は自宅や湯島の私のオフィスではマスクはしません。
まったく知らない人と会うことはほとんどありませんので、会うのはほとんどが友人や知人です。友人や知人に「疑いのまなざし」を持つことは、私にはできません。
それに感染させる可能性を持っている人は、会いには来ないと信じています。
私もそういうときは外出はしません。それは今に始まったことではありません。
しかし、相手はどう思っているでしょうか。マスクをしないことは昨今にあっては相手に失礼なのかもしれません。実に悩ましいのです。

そんなわけで、最近は次第にマスクをすることが増えてきました。
それはとりもなおさず、あなたや自分を信頼していませんというメッセージなのだと思うと、やはり気が重い。

ソーシャル・ディスタンスにも居心地の悪さを感じます。
私は感染したくないので、あなたとは近づきたくないというメッセージですから。
もちろんあなたに感染させたくないからという意味合いもありますが、もし相手に感染させる恐れがあるのなら、そもそも会わなければいい。
自分では気づいていなくても、その可能性はあるのだからと説明されても、すっきりしません。
ソーシャル・ディスタンスのマナーも、知らず知らずに、人の心に「疑いのまなざし」を植え付けていくのではないか。

しかし、ソーシャル・ディスタンスに関して、逆の受け止めをする人もいます。
たとえば、ロバート・キャンベルさんは、「ソーシャル・ディスタンスは、社会の中の自分自身の位置づけを知る、自分の居場所から他者との関係を見つめ直すことだとも捉えたい」と言います。そして、「それぞれが、その人に合った適切なソーシャル・ディスタンスを保持しつつ、他者の喜びや痛みをフェイクではなく確かな事実として理解するような連帯感に溢れた社会、そういう未来を是非迎えたい」と言うのです。

人の考えや感じ方はさまざまです。
ですから、マスクやソーシャル・ディスタンスが一概に「疑いのまなざし」を生み出していくと考える必要はないかもしれません。

しかし、私にはどうしても、マスクとソーシャル・ディスタンスには居心地の悪さが残ります。
それがどんな社会を育てていくのか。
気になって仕方がありません。
疑いのまなざしが、世界を覆い尽さねばいいのですが。

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