■節子への挽歌4902:「死にたくない」
節子
幼馴染の友人から電話がかかってきました。
ちょっとした相談だったのですが、それが終わった後、たまには東京にも出てきたらと言いました。
そうしたらウイルスに感染して死にたくないから行かないという答えが返ってきました。
彼女は、数年前に熱海のマンションに転居し、今は毎日、人の少ない山のトレッキングを楽しんでいるようです。
とても聡明で、若いころは社会的な活動もしていましたし、定年で仕事を辞めた後は、大学に通いだし、新しい経済のありようを学んでいたはずです。
その後、伴侶をなくし、自宅を処分し今は熱海に住んでいますが、転居時に伴侶が残した「資本論」5冊を私に送ってきてくれました。
私は「資本論」は持っていなかったのですが、別の友人が改めて資本論を読みだしたということもあり、読もうかと思っていたところでした。
ただ自分の蔵書になってしまうと読む気が起きなくなるのが私の性格なので、いまもまだ積んだままになっています。
彼女はとても活動家で、琵琶の演奏会を開いたりしていましたが、今は人と会う活動はやめているようです。
そして「感染しないように」ひとりウォーキングに励んでいるわけです。
でも数回も「死にたくないから」という言葉を聞いて何か違和感を感じました。
共通の友人の、これも女性ですが、彼女にこの話を伝えました。
というのも、実は彼女は私にではなく、彼女に電話したのにつながらなかったので私に電話してきたのです。
そうしたらその彼女(ややこしいですが)が、「私はいつでも〈死にたい〉と思っている」と書いてきました。もちろん自殺願望ではないと注釈付きで。
それで私も返信しました。
私は、「生きていても死んでいても、まあいいか」だと。
生きるとは何なのか、最近、よくわからなくなってきました。
というか、どうでもいいかと思うようになってきました。
いよいよ涅槃が近づいてきたのかもしれません。
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