■節子への挽歌4877:変えるのも変えないのも、できるのは「自分」だけ
節子
昨日、湯島で「仲直り」をテーマにしたサロンをやりました。
その中で、隣の人と、それぞれが最近、怒りを感じた人について語り合うセッションがありました。
その時に、私は誰も思い浮かばなかったのです。
最近は誰にも「怒り」を感じない。
誰とも「仲違い」していない。
これは一見、平和そうに見えますが、むしろ危険な兆候だと直感的に思いました。
軽い「仲」しかもっていないのではないか。
つまり怒りを感ずるほどのきちんとした付き合いをしていないということですから。
節子とは年中、仲違いしていましたが。
その時に、私とペアを組んだのは、最近、母子で湯島のサロンの参加するようになった母親です。
彼女は夫とも息子とも関係がいささか複雑ですが、悪いのはすべて自分だと考えて、自分を直そうとしているようです。
直せるのは自分だけと私も考えているのですが、その話を聞いていて、直さないようにできるのも自分だけだと気づきました。
今の自分を、そのまま全面的に受け入れることの意味を、これまで私はあまり考えてこなかった。あまり考えることなく、しかし、今のままの自分をそのまま素直に受け入れる生き方を大事にしてきた。
どこかにおかしさがあるような気がしてきました。
変えるのも変えないのも、できるのは「自分」だけ。
さてこの問題は少し考えてみようと思います。
節子との思い出にヒントがいろいろとありそうです。
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