■節子への挽歌4924:自然との交流
節子
娘家族と同居して以来、私の朝食の場所は2階になりました。
そこから毎朝、日の出が見えるのです。
朝、太陽が顔を出す場所は季節によってかなり動いています。
年末年始の頃は手賀沼大橋の先に日の出が見えましたが、そこから夏に向けてどんどん北側に場所を変えていきます。
今日はもう大橋から外れて手賀沼に張り出した傾斜林に来ています。
まもなくわが家からは日の出も見えなくなります。
自然も刻々と様相を変えているのです。
最近、畑も庭の手入れもやめたのですが、そのぶん、よく外の景色を見るようになったおかげで、今まであまり気づかなかった自然の変化も今まで以上に実感するようになってきています。
畑で直接に土や草と触れ合うのとちょっと距離を置いて自然と触れ合うのとでは、全く違うことを知りました。
自然からもらっているものの大きさを、最近やっと少しわかってきた気がします。
これもCOVID-19のおかげかもしれません。
最近は無為に過ごすことが多くなったので、なんとなく外を見ることが増えました。
幸いに目の前に大きな樹木に覆われた斜面林もありますし、手賀沼の湖面も見えます。
空もよく見える。
そういう風景を見ていると、喜怒哀楽の感情が高まってくるような気がします。
生きている自然と私の心身が同調するような気もします。
このまま自然に吸い込まれたら、どんなに幸せだろうかと思うこともありますし、逆に自然の気持ちが私を高揚させることもある。
自然はみんな生きている。
子どもの頃の感覚が少し蘇ってくるような気もします。
同棲し始めた頃の散歩を時々思い出します。
あの頃は自然がみんな私たちを祝福してくれていました。
いまはどうなのでしょうか。
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コメント
たまに会うカミさんと昨年の暮れに家から立川まで11キロを歩きました。
程よい距離で歩く中には武蔵野の雑木林も多く、2人で森林浴を満喫しました。
誰かと歩くと幸せを感じるのですが、1人でも歩けます。
いずれにすても歩くと幸せを感じます。
投稿: 吉本精樹 | 2021/02/16 18:07
吉本さん
ありがとうございます。
うらやましいですね。
国木田独歩ではないですが、武蔵野の雑木林を11キロも歩くとは。
しかもご夫婦で。
私は最近めっきり歩かなくなりました。
春になったら、相馬霊場巡礼のまだ歩き残しているところを歩こうかと思っています。
まだ50キロほど残っているのです。
投稿: 佐藤修 | 2021/02/17 09:24