■節子への挽歌4933:他者を心配するのは自分のため
節子
節子との別れを体験してから、どうも「別れ」に出合った人のことが気になるようになってしまいました。
それも友人に限っているわけではなく、知人でさえない人のことまで気になるのです。
いつもは特に口に出すことはないのですが、昨日、ふと友人に、ある人のことを思い出し、その人を知っている友人に、あの人は大丈夫かなあとメールしてしまいました。
その人は、私の小学校時代の同級生ですが、もう50年以上も会ったこともありません。
しかし、昨年、同じ同級生から彼女が最近離婚したことを知らされました。
みんなで旅行に行ったけれど、なぜか彼女は寂しそうだったというような話を聞いたのです。
ところが私のメールを見た友人は、逆に何事があったのだろうかと心配して、その人との共通の友人に電話したそうです。
みんな離婚のことはもちろん知っていたそうですが、彼女からはむしろ離婚してすっきりしたと聞いていたそうなので、彼女の娘さんに何かが起こったのかと心配したのだそうです。
結局、なんだか理由がわらずに、私に何かあったのかと訊いてきたので、離婚したと聞いているけれどと連絡したら、そんなことは知っているが心配ないと言われ、人騒がせなと怒られてしまいました。
しかし、彼女が電話した一人は、「でも、修ちゃんのように心配してくれる人がいるからいいわね」と言っていたそうです。
その言葉の意味はよくわかりませんが、だれか心配してくれる人がいると思えることは生きる支えになります。同時に、だれか心配する人がいるというのもまた生きる支えになる。改めてそのことに気づかせてもらいました。
節子がいなくなってから、「別れ」に出合った人が気になりだしたのは、自分自身の生きる支えがほしかったからなのです。
他者を心配するのは、自分のためなのです。
人はいつも、生きる支えを無意識に探しているのかもしれません。
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