■節子への挽歌4935:ソクラテスカフェをしたいのですがうまくいきません
節子
サロンが始まる前に武田さんが湯島に着いたので食事を誘ってくれたようです。
しかし残念ながら私がまだ電車に乗る前だったので、ごちそうにはなれませんでした。
サロンには鈴木さんがお菓子を買ってきてくれたのですが、私には特別にどら焼きを買ってきてくれました。
こういう感じで、私はみんなからごちそうしてもらえるという不思議な存在になっています。
もしかしたら私はもう生きていなくて、お供えをもらっているのに、自分ではまだ死んでいることに気づかずにいるのかもしれません。
こういう落語もありましたが、そうでないとどうして証明できるでしょうか。
落語ではたしか、自分の遺体に出合って自分が死んでいたことに気づくのですが、そういう気づき方はあんまりうれしくありませんし、私の場合は、自分の遺体に出会っても、すんなり受け入れてしまい、見過ごすかもしれません。
まあそんなことはともかく、今日はオープンサロンでした。
その前に、鈴木さんから教えてもらった「ソクラテスカフェにようこそ」を一昨日読んだのですが、私が目指しているサロンをまた思い出しました。
それは参加者が自分の意見を自分の言葉で話し合うサロンです。
いまの湯島のサロンはそれとはかなり違うことに改めて気づかされました。
そこで今日は、そういうサロンを目指そうと思ったのです。
しかし残念ながら見事に失敗しました。
みんな知識でしか話さない。
最近の私の違和感はどうもそこにあるようです。
しかしそういうことを話してもなぜか伝わらない。
困ったものです。
節子との話が楽しかったのは、知識の話し合いではなかったからです。
お互いの自分の思いや考えをぶつけ合っていた。
知識が増えると話し合いは面白くなくなります。
知識の話し合いは、正しいか間違いかが議論できるからです。
でも考えや思いは、間違いとか正しいとかは評価できない。
それぞれが正しいはずだからです。
だから話し合っていると世界が広がる。
私がいま求めているのは、どうもそういう話し合いです。
さてどうやればそれができるのか。
あきらめずにもう少し努力してみようと思います。
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