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2021/02/22

■第12回万葉集サロン「高市黒人ー〈わ〉の行方」報告

新しいステージに入った升田万葉集サロンは、新たな参加者も含めて14人とにぎやかでしたが、話題もにぎやかでした。面白い話題が多く、書きたいことは山ほどなのですが、いつも長くなるので、思い切って絞って報告します。

高市黒人(たけちくろひと)の歌に入る前に、そもそも万葉集って何だという私好みの問いかけがあったり、さらに「黒人」って本名なのかという興味深い問いかけがあったり、黒人の歌に入る前の話し合いもとても面白かったのですが、残念ながらこれは省略です。たぶんまた山部赤人編があると思うので、その時のお楽しみにしたいと思います。

雑談が収まったところで、升田さんは最初になんと縄文土器と弥生土器の写真を配って、こう話してくれました。縄文土器はきっと声を出して作ったに違いない。それに対して弥生土器は声を出さずに黙々と作ったのではないか。
たしかに写真を見ていると、そんな気がしてきます。それに、いわゆる火焔土器などは最初から「意図」があって整えていったようには思えない。手が自然と動いて(もしかしたら神から預かった声に従って)、土器が姿を現してきたとも思える。
縄文と弥生の間には人の意識の大きな断絶が感じられる。万葉集サロンでの言葉を使えば、縄文土器は「神の領域」「な」が導いているのではないか。

時代的には全く違うのですが、升田さんは黒人の歌に、縄文と弥生の間の断絶と同じものを感ずるというのです。
高市黒人の歌にも音がない、「な」もなければ、人も感じない。だからさみしい。
それまでの万葉歌人とは、「わ」の意識が変わってきている、だから歌の雰囲気も違っている、というわけです。

具体的に言えば、これまで読んできた歌は「序詞(神の言葉)」に支えられて「言(自分の思い)」を発していたのが、黒人の歌は「序詞」から離れて「言」をうたいだした。
これまでの升田万葉集サロンの流れを踏まえると、たとえば人麿の歌は「た」のなかで「わ」と「な」が共生していたが、黒人は「な」と距離を取り出したために、「わ」をうまく歌えずに、そこから叙景歌が生まれてきた。そして「な」に支えられていた「わ」の喪失の苦しみが、「な」から自立した「わ」を生みだしてきた。つまり黒人の歌は、古代人の「わ」の転換期を示唆しているのではないか、というのです。
壮大な話ですが、私はマルティン・ブーバーの「吾と汝」を思い出しました。
ようやく人々が神の世界から抜け出し、人の世界を創り出した。
神に活かされ自然に生きていた古代人が次第に内省的になってきた。

あるいは、神とつながる声の歌から人の操る文字の歌になったと言えるかもしれません。
そう考えると、万葉集と古今和歌集以降の歌の違いが納得できる気がします。
あんまり十分に理解できないままのまとめなので、升田さんからそんなことは言っていないと叱られるかもしれませんが、以上が私の理解です。きちんと消化できておらずにすみません。

ただサロンではこんな難しい話ばかりしていたわけではありません。
黒人の羇旅(たび)の歌八首を人麿の羇旅の歌八首と読み比べてみたり、万葉集巻7(作者不明歌群)の中の類歌類想歌を比べてみたりしてくれました。
そうした具体的な歌を通じて、「わ」の変質を語ってくれたのですが、これからのサロンでもう少し理解が進むのを楽しみにしています。

個々の歌に関してもやり取りがありましたし、他の話題もいろいろとあったのですが、今回はともかく話題が多くて、その一部しか紹介できないのが残念です。
当の升田さんも、今回は「詰め込みすぎた」と言っていましたし、そのために言いたいことを言い忘れたとも言っています。困ったものです。
黒人はもう一回くらいやってもいいかなと思いますが、升田さんのことですから、もうさらに先に進んでいるでしょう。しかしいつかまたもう一度、黒人をテーマにしてもらうことを頼もうと思います。
なにしろ高市黒人は、古代人の意識の転換を象徴し、その後の「わ」の行方を示唆している歌を詠んでくれているのですから。

*文中の「わ」「な」「た」に関して意味をお知りになりたい方はこれまでの簡単なまとめが次にあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2020/12/post-2dfaec.html

Manyou121
Manyou122

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