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2021/03/31

■「贈与」と「交換」

自然界ではいろいろな変化があり、そのせいで、私たちの食生活の食材も大きく変わってきています。

子どもの頃の好物が今ではもう食べられなくなっているものも少なくありません。
地球温暖化などというと何やら大きすぎてよくわかりませんが、身近なところでもさまざまな変化が起きています。しかし、そうしたことはグローバル化した市場社会では、新たなビジネスの発生によって、むしろ利用され、問題が見えなくなっているような気がします。

「変化」は必ずビジネスチャンスにしていくのが、資本主義のあり方ですが、もしかしたらそれは問題を先延ばしにしているだけかもしれません。
経済や産業のパラダイムを変えなければいけないと私は思い、できるだけそういう意識で行動しています。

福岡に住んでいる友人が、毎年、わざわざ椎田の浜まで潮干狩りに出かけて行って、おいしいアサリを送ってきてくれます。
椎田のアサリは、大きくてともかくおいしくて、椎田のアサリを一度食べてしまうと他のアサリは食べたくなくなるほどです。
しかし、年々、アサリが見つけにくくなってきたということはお聞きしていましたが、今年はついに潮干狩り禁止になったそうです。

その代わりにと、今年は合馬の筍が送られてきました。
友人といっても、私より少し年上の方なのですが、「春の挨拶」をしないと落ち着かないというのです。本来は私の方こそ、挨拶すべき立場なのですが、なぜか長年、その方の方が挨拶してきてくれるのです。
それに対して「返礼」するような「失礼」なことは、私はしません。
お返しもしないのは失礼ではないかと思う人が多いでしょうが、お返しなどしたら、商品交換と同じくなってしまい、その方の「挨拶」の気持ちに応えられないような気がするのです。
もちろん受け取ったお知らせの電話はしますが、お返しはしないまま、こういう関係が長いことつづいています。

先日、湯島のサロンで、こういうことが少し話題になりました。
金銭取引と贈与とはどこが違うのか、という話題です。
贈与を意味する「ギフト」には贈り物ということ以外に「毒」という意味があります。

贈与を受けてしまうと意識的にも無意識的にも、「借り」の気分が生まれます。
なにかでお返ししたくなる。
それで贈収賄が成り立つわけです。
先日話題になった総務省官僚の会食事件は、どんな言い訳をしようが、政策決定に影響を与えていますし、菅首相も無関係ではありません。
贈与はそれほど大きな力を持っているのです。

贈与ほど恐ろしいものはないのですが、多くの現代人は贈与で自らの身を守ろうとしているようにさえ思います。
今回、筍を送ってくださった友人は、そういう気持ちが全くない方ですので、返礼など考えては失礼なのです。長年もらいっぱなしですが、そんなことは微塵も気にはされないでしょう。おかしなお返しをすれば、もしかしたら2度とアサリは届かなくなるし、私たちの関係も変わるかもしれません。

ところでなぜアサリが取れなくなってしまったのか。
これも実は「贈与」が関係しています。
自然の贈与に甘えすぎて、アサリをとりすぎてしまったのでしょう。
最近は養殖した貝をまくところもありますが、それでは単に浜辺を利用しているだけに過ぎません。
自然からの贈与に対する「お返し」を考えると、もしかしたらこれまでの贈与交換経済とは違った「贈与」概念がわかるかもしれません。

改めてまた最近、贈与について考えだしていますが、考えれば考えるほど、贈与は難しい。

ところで、合馬の筍というので、刺身で食べてみましたが、残念ながらちょっと時間がたっていたのでえぐみがあってだめでした。
それであく抜きをして今日は煮物にしてもらいます。

筍は私の好物なのですが、筍もまた食べられなくなるのでしょうか。
自然から贈与される食べ物が大好きな私としては、やはりもっと自然との付き合いを深めようと改めて思います。
それこそが一番の「お返し」ではないかと思うのです。
贈与のお返しではなく、一方的な贈与こそが大切なのではないかと思います。

そういえば、「挨拶」も、贈与ですね。

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