■節子への挽歌4960:娘がいるから生きている
節子
昨日、湯島のサロンに久しぶりに榎戸さんが来てくれました。
彼女は知らなければよかったことを知ってしまい、そのために自分の生き方を変えてまで、その「社会問題」に取り組んでいる人です。
最初は母親がご健在で、その「事件」の当事者だったのですが、無念なことに母親を見送ることになってしまいました。
今も活動はしていますが、本来であれば海外での悠々自適な暮らしを楽しんでいるはずだったのに、今は資材を投入して活動をつづけています。
その彼女がぽつりと言いました。
娘がいるから生きている、と。
昨日のサロンで、今度「生きる意味」をテーマにしたサロンをやろうと思っていると言ったのですが、昨日の感じではなかなか難しそうです。
でも榎戸さんのこの言葉で、やることにしました。
この挽歌では最初の頃に書いていた記憶がありますが、私に「生きる意味」を与えてくれたのは「節子」でした。それは別に思っていただけではなく、時々、他者にも口にしていましたから、知っている人も少なくありませんでした。
ですから、節子がいなくなった後、私は生きる意味を失ってしまい、生き続けられるだろうかと心配した人もるわけです。
結果的に、それからもう14年目になってもまだ私は生きている。
我ながらおかしいなと思ったこともあるのですが、最近は、節子が現世にいるかどうかは問題ではないのだということに気づきました。
そう考えるのはなんだか詭弁のような気もするのですが、そのあたりのことを話し合えればと思っているのです。
でもまあ難しいでしょうね。
しかし、生きている以上、必ず「意味」はあるはずです。
それを話し合うのは、それこそ意味があるはずです。
この歳になって、こんな青臭いことを考え出すとは、いかにも未熟すぎる。
自らの愚かさが、歳と共にわかってくる。
それはあんまり楽しいことはないのですが、自らの愚かさに気づくことは成長のあかしでもありますから喜ぶべきことです。
ただちょっと遅過ぎますが。
困ったものではあります。
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