■節子への挽歌4944:「先生」という呼称
節子
サロンへのうっ憤を少し吐き出したついでに、もう一つ書きたくなりました。
これも最近のストレスの一つです。
湯島のサロンで、時々、話す人を「〇〇先生」と呼ぶ人が出てきたのです。
湯島のサロンの趣旨をまったく理解していない。
蹴とばしたくなりますが、まあいつも我慢しています。
私も時に「先生」と呼ばれそうなときがありました。
学校の教員や病院の医師であれば、学校や病院で「先生」と呼ばれてもいいでしょうが、そうではない私が「先生」と呼ばれて私が感ずるのは、一言でいえば「不快感」です。
説明するのはやめますが、私は医師や教員でも学校や病院以外では「先生」と呼ぶのは失礼だと思っています。
ですからたとえ大学教授でも医師でも、湯島では「先生」などと呼ぶような失礼なことはしません。
そういう考えを持っているので、私自身、「先生」と呼ばれるのは本当に不快なのです。
しかし、そう相手に行っても、相手は私の謙虚さと受け取ってしまうので。
私は「謙虚」なのではなく、「心底不快」なのですが、それがわからない。
たぶん学校で洗脳されてしまい、さらに社会に出て狡猾に生きてきたとしか思えない。
そういう人には同情しますが、どうも好きにはなれない。
湯島のサロンはもちろんですが、私は相手が中学生でも高校生でも、「〇〇くん」とは呼びません。もちろん親しい人は別にして呼び捨ては絶対しません。
会社時代も後輩であろうと新入社員であろうと必ず「さん」づけで呼んでいて、ある時に上司から「嫌味」のようなことを言われたことさえあります。
湯島ではサロンが始まる前に基本的にここではだれも同じ立場ですと説明しますが、にもかかわらず「先生」などと呼ぶ人が最近出てきたのです。
どうでもいいように思われるかもしれませんが、個人の尊厳の村長を理念とするサロンの雰囲気は、そうした小さなことで変化していくのです。
だから誰かが「先生」という言葉を使うと、蹴とばしたくなるのですが、それを我慢しているとストレスがたまってくる。
困ったものです。
私のそういう姿勢を一番理解してくれていたのは、たぶん、節子です。
ただししっかりと理解するまでかなり時間がかかったと思いますが。
そして、私のそうした生き方を支えてくれたのは節子です。
私の今の生き方の半分は節子が創ってくれた。
そう思います。
他者をどう呼ぶか。
それでその人のすべてがわかるような気がします。
節子はいつも、人の本質を感じて、私に気づかせてくれました。最近節子がいないので、なかなか人の本質を気づかせてもらえないのが残念です。
それが必ずしも悪いわけではないのですが。
| 固定リンク
「妻への挽歌20」カテゴリの記事
- ■節子への挽歌5354:「畑に行かない券」のプレゼント(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5353:81歳まできてしまいました(2022.05.30)
- ■節子への挽歌5352:落ちてきたひな鳥(2022.05.27)
- ■節子への挽歌5351:畑に2回も行きました(2022.05.26)
- ■節子への挽歌5350:元気がだいぶ戻りました(2022.05.25)
コメント