■第13回万葉集サロン「高市黒人2:旅に彷徨う〈な〉無き〈わ〉」報告
今回は、前回に続き高市黒人が取り上げられました。
万葉集には「赤人」と「黒人」という人が出てきますが、先日、中西進さんも新聞で書いていましたが、私も昔からこの2人が気になっていました。
今回、升田さんは冒頭、「はり」(ハンノキの花)の写真を見せてくれて、「黒い色」は「赤い色」から生まれた「あこがれの色」だったのだという話をしてくれました。ハンノキからの草木染は黒い色を出してくれるのだそうです。
赤から黒?
火を燃やすと、赤い炎が煤(すす)をつくり、それににかわなどを混ぜて墨をつくって、黒い文字を生み出す。だから黒は決して闇の暗い世界ではなく、華やかな赤い世界につながっているというわけです。
万葉集とは直接つながりませんが、私はこの話を聞いて、万葉の時代のイメージが一変してしまいました。黒人はやはり赤人だったのだと考えたくなったほどです。
それはともかく、レジメに沿って、しっかりと黒人を紹介してくれました。
今回の話はぜひ小論にまとめて発表してほしい内容でした。
升田さんは、改めて万葉集の中で黒人の歌とされる18種の歌を、升田さんが「間違いなく黒人の歌だと思う歌(10首)」と「黒人作といわれているが不確定要素が強い歌(8首)」に分けて詠みあげてくれました。
前者には、序詞・枕詞が使用されていませんし、旅の歌なのに祭祀・賛美の詞もないのです。その10首だけで考えると黒人の人物像がはっきりとしてくると升田さんは言います。
そしてそこに升田さんは、黒人は「な」から解放されて、自然の中に彷徨する自立した「わ」を感ずる。しかもその「わ」は、自然に埋没しているのではなく、しっかりした自意識をもって自然と対峙し、自然を構図的に捉えていて、「絵師」のようだというのです。
やはり自立へと向かっている大伴家持の歌とは違うのです。
私の理解力では、升田さんのお話を正確にお伝えできなのが残念ですが、黒人の歌を2つに分けて考えるとまた見えてくる世界が違ってくるのは間違いありません。
今回の大きなテーマは「な」と「わ」の関係ですが、それはまた「いのちのつながり」にも広がっていきます。
そこで、升田さんはもう一つのテーマである「たび」について話題にしてくれました。
前回は黒人の「羈旅の歌8首」が話題になったように、黒人は旅の詩人といわれていますが、当時の「たび」は現代のような観光のための楽しい旅行や〇〇詣でではなく、天皇の行幸に付き従うとか、さらには防人のような強制労働的な意味合いのあるたびがほとんどだったようです。
もともと「たび」の本義は、家を離れることという意味だったと言います。
韓国語では、「離れること」を意味する「とび」が「たび」になったと、万葉集はもともと韓国語で歌われたと主張していた朴炳植さんの本で読んだことがありますが、升田さんの説明によれば、「た」とはこれまでもサロンで話題になった「タ(多)」であり、「び」は広い世界のある一定の場所(領域)を指す言葉だといいます。水辺、川辺などの「辺」は万葉の時代には「び」と発音されていて、神奈備(かむなび)と同じに、ある領域を指していたのです。
そこでは何が起こるかもしれない。旅に出ることは、生命力の弱まりへの恐れを生み出す。そこで思い出されるのが「家」。
では家には何があるのか。
そこには、たとえば「いのちのつながり」を持つ妻がいる。そこから、相聞歌の要素の上に、その苦悩や悲哀を表現しえたのが旅の歌だというのです。
そして、旅をする人と家族(主として妻)を結ぶものが、「紐」とか「衣」とか「斎」だということで、それぞれに関する歌をいくつか詠んでくれました。
そうした歌には、「わ」と「な」の霊的結合がうかがえます。
にもかかわらず、黒人の旅の歌には、それがない。
黒人の歌とされているものの中には、わずかにそれが表現されているものもありますが、升田さんはそれを先に書いた黒人作には入れないのです。
長くなってしまいましたが、いつもそうですが、ここに書いたことは升田さんのお話のほんの一部ですし、私の理解なので不正確かもしれません。
きちんと書こうと思うとこの数倍の量になるでしょう。
それに升田さんのお話はもっと広がっていましたし、話し合いにいたっては、それ以上に広がりましたので、とても紹介しきれません。
たとえば、家を離れることはいつも住んでいる自然(土)とも離れることでもあり、それも生命力を弱める一因だったのではないか、当時の夫婦とはどういう関係だったのか、わくわくするようなたびはなかったのか、心を癒し元気を回復させるような家は今はどうなっているのか、などなど。
私は、こうした話以上に想像を広げてしまい、黒人に出雲を感じて、なにやら日本という国家の基本がつくられたであろうこの万葉の時代の壮大な情景が見えてきたような気さえしました。
もしかしたら古代ギリシアの「イリアス」のような世界が、そこに描かれているのもしれません。それは、人が神から解放される壮大な物語です。
今回もまた、独りよがりの報告になってしまい、升田さんから怒られるかもしれませんが、今回は残念ながら参加できなかった常連の方もいますので少し詳しく報告させてもらいました。
次回はどう発展していくのか楽しみです。
この万葉集サロンは、話をしてくださる升田さんご自身も考えを広げながらのお話なので、話の筋立てが決まっているわけではありません。
そこにこのサロンの魅力があるのです。
ぜひもっと多くの人に、万葉の時代を楽しんでもらいたいと思っています。
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