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2021/04/12

■第7回益田サロン「破傷風菌やジフテリア菌から考えた自分というものについて」報告

益田昭吾さんの第7回サロンは「自分とは何か」をテーマにしました。
切り口は破傷風菌やジフテリア菌。
益田サロンの底流にはいくつかの軸があるのですが、その一つが「生物は自らにとっての(直接の)環境を壊さない」ということです。この視点から、「自分」と「環境」をどう捉えるかを通して、「自分とは何か」が見えてくることになります。

益田さんはこういいます。
生命は環境がないと生きていけない。だから自らの宿主には危害は与えない。
ではなぜジフテリア菌は宿主である人間に害を与えるのか。
それはジフテリア菌に、人間に害を与える毒素を持ったファージが入り込んできて、それらが細菌を宿主にし、(その細菌のために良かれと思って?)宿主が宿っている人間に害を与えるからです。
言い換えれば、ジフテリア菌は、もしそうした毒素が入り込んでこなかったら、宿主である人間とは仲良く共存(ウィズ)できる常在菌でいられるのですが。

つづいて益田さんは破傷風菌についても説明してくれましたが、私の紹介では危ういので、益田さんからきちんとした説明を書いてもらいました。

人が感染症にかかるのは人が、その病原体にとって本来の宿主でない場合に限ります。病原体も生物ですから自分の存続を保証してくれる環境が必要です。ジフテリア菌や破傷風菌は人間に害を与える理由は大きく異なります。ジフテリア菌の場合、人は本来の宿主です。ジフテリア菌が人体を破壊するはずがないにもかかわらず、ジフテリアという病気が起こるのはジフテリア菌に寄生するファージという擬人生物が真の病原体であるからです。このファージにとって本来の環境というのはジフテリア菌であって人体ではないのです。つまりファージにとって人は本来の宿主でないという原則に反していません。 
破傷風の場合は少し事情が違います。破傷風菌は土壌を環境としているので人は宿主ではなく老廃物を栄養として供給してくれる存在です。いわば間接的な環境と言えます。従って破傷風菌も積極的に人を殺すようなことはしないはずです。ところが破傷風菌にプラスミドという擬生物が寄生すると破傷風菌は毒素を作るようになり人や大型の動物を殺して栄養を破傷風菌に与えるようになります。
つまりジフテリアも破傷風も真の病原体にとって理由はそれぞれ異なるが、人の体が本来の環境ではないからということになります。
言い換えれば、ジフテリア菌や破傷風菌は、もしそうした毒素を作る擬生物が入り込んでこなかったら、人間とは仲良く共存できる存在でいられるのです。
これらの細菌にとって病気を起こすのと起こさないとではどちらが本来の自分なのでしょうか。
人に感染症が生ずるのは真の病原体であるファージやプラスミド、人間は直接の環
境ではないと考えれば、病原体がなぜ人間に悪さをするかが理解できます。

とてもわかりやすい説明なので、ご理解いただけたと思います。
問題は「自分とは何か」です。
益田さんも問いかけているように、常在菌である場合と毒素を抱え込んだ場合と、どちらが本来の自分なのでしょうか。

ジフテリア菌にとっての直接の環境は人体ですが、ファージにとっての直接の環境はジフテリア菌。このように、自己と環境の構造は重層的に存在しているのですが、いずれの場合も、直接触れ合っている環境とは支え合っていると言ってもいいでしょう。
でもどこかで歯車が食い違うこともある。

たとえば益田さんはこういいます。
人間の脳が抱えている知能は、ジフテリア菌にとってのファージの毒素と同じようなものかもしれない。そして、脳が知能を発達させてしまったために、知能が自らの環境を脳だと思い出し、本来の自分を忘れて(我を忘れて)、今や脳にとっての環境である人間の身体に悪さを与えるようになってしまった。
それはちょうど、常在菌としての自分を否定して毒素を取り込んで本来の自分を忘れてしまったジフテリア菌と同じなのではないのか。
脳は個体(人体)を維持するために過剰に発達しすぎて、結局、人間は脳がないと生き延びられない状況にしてしまったというわけです。
こう考えていくと、自分と環境との区別はそう簡単ではないことがわかります。
言い換えれば、前回話題になった自己と非自己はそう簡単に分けることはできない。

そんな話から、自分とは何か、環境とは何かの話し合いになりました。

生命は環境がないと生きていけないのであれば、環境もまた生命の一部ではないか。
すべての生物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという「環世界」という捉え方がありますが、その考えによれば、環境もまた自分と不可分な存在とも言えます。環境も含めて「自分」だとも言える。

そこまで広げなくても、自分の捉え方には層(範囲)がありそうです。
そして拡張された「自分」の中心をどこに置くかで、自分の姿は大きく変わります。
たとえばジフテリア菌の自分を、人間やファージまで拡張したとしても、中心をジフテリア菌に置くのか、ファージに置くのか、はたまた人間に置くのかで、全く変わってくる。当然、自分にとっての「環境」も変わってくる。
こう考えていくと、自分というのは環境と同化して霧散してしまうとも考えられるわけで、ますます自分がわからなくなるのです。

しかし、間違いなく言えることは、自分をどう捉えるかで、利己と利他の捉え方や善悪の判断基準は変わっていくということです。
世界中すべての人が幸せにならないと自分の幸せはないという宮沢賢治の言葉が思い出されます。

ちなみに、「自分」という文字は、「自然の分身」という意味だったという字義の紹介もありました。「どこで分ける」かは大きな問題ですが。
また「分身」ですので、山川草木すべてつながっているとも言える。参加者からは東洋思想につながる話だという指摘もありました。
重層的な自分と環境の関係がどこかで次元を超えていくとしたら、自分は無限に広がっていくかもしれません。
これに関してもかなり話し合いがありました。

益田さんの問題意識は、「心を環境とするXとは何か」。それがわかれば、心によって動いている私たちの生き方を変えられるかもしれず、もしかしたら「自殺」を止められるかもしれない。
さらに、自分と環境との境界をゆるやかなものにし、環境の中で自分を思い切り広げていけば、平和が来るかもしれません。そのためにも、「X」は重要な鍵かもしれません。
あまりに大きなテーマになったので、その先は次回以降に持ち越すことになりました。

今回、私が改めて感じたことは、自分をどう捉えるかによって世界は大きく変わるということです。
病原体の話から、私たちの生き方を少し考えてみようという益田さんの意図は、今回はかなり進んだような気がします。
次回が楽しみです。
次回のサロンにも、ぜひ多くの人に参加してほしいと思っています。

*報告はいつもながら私の主観でまとめていますので、文責はすべて私にあります。

Masuda202104

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