■節子への挽歌4988:サロンは惰性的に続いていますが
節子
昨日は「できるだけ参加しないようにしてください」という呼びかけのサロンをやりました。
真意がうまく伝われば、誰も来ないだろうなと思っての呼びかけでしたが、残念ながら4人の人が参加しました。
私の言葉は、あまり素直には受け止められていないことがわかりました。
誰も来なかったら、思い切ってサロンを大きく変えようと思っていたのですが。
あるいは、サロンをこうしたらいいというラディカルな提案者が来てくれることも考えていたのですが。
残念ながらサロンの話は誰からも出ませんでした。
最近参加しなくなった人が、もしかしたらいつもと違うサロンを想定してきてくれるかもしれないという願いもかなえられませんでした。
私の意図は完全に失敗でした。
参加した人の中には、あれはむしろ私が参加してほしいという呼びかけをしていると思った人もいました。
なぜ私がそんなことを望むと思うのか、不思議ですが、その人はなぜか今のサロンには退屈していないようです。
もし私が参加してほしいと思うならば、参加してくださいと言った方が参加者は増えるはずです。
私は、反語的な表現はよく使いますので無理もないのですが、最近のサロンが、私が目指しているサロンとは違ったものになっていることに気づいてほしい気もしています。
まあ、自分でもどこがどう違うのかわかっているわけではないので、説明できないのですが、違和感は次第に高まってきています。
違和感を持って、参加しなくなった人も少なくありません。
サロンはただ話し合うだけではなく、そこから何かプロジェクトや物語が起こっていくこと、さらには私自身の生き方が変わっていくことを、一つの目的にしています。
でも最近は、話すだけの人が多くなってきているので、むしろ何かをしようという人は来なくなってきているような気もします。
サロンからいろんなことが始まったことを思い出すと、今のサロンは一体何だろうと、つい思ってしまうのですが、もしかしたらそれは私自身に新しい物語を始めたいという気持ちが萎えてしまっているからかもしれません。
それを参加者のせいにしている面は確かにあります。
サロンが退屈になってきているのは、私自身が退屈になってきていることの結果なのでしょうか。
しかし、サロンでは今もなお、新しい人との出会いは起こっています。
毎月、新たな参加者が数名はいますが、そのおかげで私の人生は続いているのかもしれません。
今日のサロンではそんなこともあったせいか、自分のことをかなり話してしまいました。
ついつい乗せられてしまったのかもしれません。
サロンをこれからどう展開していくか、少しきちんと考えてみようかと思います。
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