■節子への挽歌4987:霧がかかったような時間
節子
今日から大型連休が始まります。
といっても最近は新型コロナの関係で、受け取り方はだいぶ違います。
以前とは違い、むしろ在宅可能な1週間というような感じでしょうか。
本来の「連休」の意味になってきているとも言えるかもしれません。
思い返せば、会社時代は大型連休といえば、わが家も家族でどこかに出かけていました。
しかし会社を辞めてからは、むしろ在宅でした。
観光地には平日のほうが人混みもなく行きやすかったからです。
こどもたちも親と同行する年齢ではなくなっていましたし。
節子がいなくなってからは、そもそも連休という概念が亡くなりました。
休みという概念さえなくなった。
休みは与えられるものという受け止め方が学校に通っている子供時代と25年間の会社生活時代にしみついてしまったため、そこからら抜け出るのは時間がかかりましたが、そういう考えから抜けられて、さあこれからは自分たちの時間を過ごそうと新しい生き方を始めてしばらくして、節子が病気になりました。
自由に設計できる時間を、共にする節子がいなくなったのは、皮肉な話です。
与えられる時間を生きるのでもなく、自分で時間を作り出すのでもなく、今もって霧がかかったようなぼんやりした時間を生きています。
いまでは時間感覚どころか季節の感覚も危うくなっています。
このおかしな時間感覚からはなかなか抜け出せません。
困ったものです。
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