■湯島サロン「生きづらさ・生きやすさ」報告
3日前の案内の平日開催だったにもかかわらず6人の人が参加してくださいました。
しかも初参加の人がお一人。
今回は「生きる意味」をテーマにしたサロンの前座として「生きづらさ・生きやすさ」をテーマにしました。
思い立っての安直な呼びかけにも関わらず、生々しい体験談もあって、話し合いからいろんな示唆をいただきました。
「生きる意味」のサロンを開催することの意味も少し考えを深められました。
参加してくださったみなさんに感謝いたします。
やはりマスコミ情報や書籍の知識などから得ることの限界を痛感させられました。
「いま、本当に生きづらい時代なのだろうか」という気もしてきました。
サロン参加者の7人のうち、現在「生きづらさ」を感じている人は2人だけでした。
といっても、他の方がみんな「生きやすい」わけではありません。
あるひとから、そもそも「生きづらさ」という言葉は昔なかったのではないかと指摘されました。みんな貧しく生きづらいことが生きる意味だった時代もあったわけです。
そこで問題は、「生きづらさ」の基準は何かです。
経済的に貧窮し、食べるものさえ手に入らない状況であれば、それは生きづらいと言えるでしょう。ある人は、最近、そういう人も増えてきているようだと指摘されました。
生きづらさとは、食べるものが手に入りにくいことという意味もあることは間違いありません。しかし、世の中にはあふれるほどに食べるものがあり、大量の食べられるものが廃棄されているというおかしな現実もあります。
お金がないとそういう食べ物を食べることができないという社会になってしまった。
私には、どう考えてもおかしい気がします。
生きづらいと言った人のおひとりは、「居場所がない」というのが理由だと言われました。しかし、お話を聞いていて、その方にはある意味では居場所がたくさんあるような気もしました。居場所はどうも物理的な場所、あるいは社会的な活動の立場ではなさそうで、人間関係が絡んでいるようです。
お金がなくて生きづらいという人もいました。しかし、私にはお金がありすぎて生きづらくなっている人も少なくないような気がします。
創刊上げて
そう考えると、「生きづらさ・生きやすさ」は極めて主観的な意識や感情の問題かもしれません。
生きづらくて仕事を転々としてきたという体験を語ってくれた人もいました。
仕事を転々と変われるというのは、生きやすさではないかと私は指摘させてもらいましたが、生きづらさと生きやすさは裏表かもしれません。
こういうことに関しては、最近またブームになっている「贈与論」や「コミュニズム論」などの新解釈が参考になるかもしれません。
あまりの生きづらさに日本を脱出しパリで仏教に出会って帰国し、その後は仏教を学ぶことで生き続けられるようになったという体験を話してくれた人もいます。
仏教が残してきた仏典などの中にはたくさんの生きる知恵や生きづらさを解消するヒントがある、というのです。そして今は、そういうことでいろんな人の相談に乗っているそうです。他者の相談に乗ることもまた、生きる意味につながっているように思います。
ここに、宗教の大きな意味があるように思います。
5月には宗教をテーマにしたサロンを開催する予定です。
とまあ、こんな感じの話し合いのなかで、様々な話題が出ました。
現在の経済体制や教育の問題、株式投資と投機の話、日本における僧籍の取得方法、お金がなくても生きられるのではないかというような話、などなど。
こうした多彩な話し合いがサロンの魅力なのです。
ちなみに、今回のサロンにはなんと千葉県のいすみ市に半分転居した方が2人参加されました。いすみの生活と東京の生活は大きく違うようです。そこにも生きることの意味を考えるヒントがありそうです。
というわけで、5月に予定している「生きる意味」サロンのための示唆がたくさんあったサロンでした。
コロナ感染防止のために今回はお菓子はやめたのですが、大福を持ってきた人やサロンが延びていたので次のお客様が持ってきてくれたペコちゃん焼きをみんなで食べてしまいました。困ったものです。
しかし、改めてサロンにはお菓子も必要だと思いました。次回からまた復活です。
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