« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »

2021年5月

2021/05/31

■節子への挽歌5032:今年2度目の畑作業

節子

ユカが今日も手伝ってくれて、今年2度目の畑仕事(開拓作業)をしました。
もう少し見晴らしがよくなるまで、一人ではいささか危険なので、ユカが同行してくれる時だけしか行かずに、しかも1時間以内と決めました。
フェイスブックでのみなさんから「無理をするな」といわれましたが、ユカによると、私の場合は「無理」ではなく「無茶」なのだそうです。だから監視が必要だというのです。

さて今日はいよいよ昔の花壇のところの野草を刈ることにしました。
いまは野草で覆われていますが、節子がいた頃はチューリップが満開だったり、百日草が満開だったり、グラジオラスや芝桜が一面に広がったり、とてもきれいで、道を散歩する人から感謝されたこともあります。

今日は残念ながら花壇まではいかずに、その入り口のところでタイムアップ。
まあこの調子だと10回以上通わないと、土も見えてこない。
野菜や花を植える時期は終わっているかもしれません。
でも野草や土や虫たちとは交流できるでしょう。

野草の中で草刈りをしていた時に、近くの青木さんがユカに声をかけたそうです。
最近、お父さんは来ないけれど、元気なの、と。
1年以上通っていないので、私はもう死んでしまったのかと思われていたのかもしれません。

そういえば、私の嫌いな野草も増えていました。
セイタカアワダチソウが復活していたのに驚きました。
もしかしたら、野草たちも私が死んでしまったのかと思っていたのかもしれません。
昆虫も少ないような気がしますが、まだ私に心を許していないのかもしれません。

自然との触れ合いはとても面白いです。
きれいになった状況をいつお見せできるかいまのところわかりませんが、もうじき一人でも来られるようになるでしょう。

| | コメント (0)

2021/05/30

■節子への挽歌5031:80歳になりました

節子

80歳になりました。
朝起きてフェイスブックをひらいたら、誕生日おめでとうメッセージが書き込まれていました。

最初に書き込んでくれたのは、節子もよく知っている田中弥生さんです。
それを皮切りに、いろんな人がメッセージを書き込んでくれました。
最初の数名だけにはコメントをお返ししました。

今日もサロンを開いいたのですが、最初に来た中嶋さんが、誕生日おめでとうと言って、養殖ではないたい焼きを持ってきてくれました。
本当は一緒に食べようと言うつもりだったのだと思いますが、今日は食欲が全くなく、勝手にもらって帰ることにしました。
しかし、湯島に来てからは、誕生日のことも忘れていましたが、まさか中嶋さんが思い出させてくれるとは思ってもいませんでした。

サロンをしているうちに、また誕生日のことを完全に失念。
帰宅すると、今日の夕食は手巻き寿司だと言うので、何かあったのかと訊いたら、今日は誕生日でしょうとユカに言われました。

最近は誕生日に全く関心を失っています。
節子がいた頃は、家族の誰かの誕生日はいつも手巻き寿司パーティでした。
それを思い出して、今日はいつもは別々に食事をしているジュン家族も来るのかと訊いたら、決まっているでしょう東京都、また叱られました。

にこが私の絵を描いてプレゼントしてくれました。
服装は上下ともいつものTシャツと薄茶色のズボンで、しかも裸足になっています。
顔にはしっかりと大きなシミがある。目が大きいこと以外は正確です。

2021

娘たちからはプレゼントはありませんでした。
何をプレゼントしても私が喜ばないので、もうあきらめたのでしょう。

食事の後、トランプの神経衰弱をやることになりました。
最近幼稚園でやっているのだそうです。
ちょっと手加減しましたが、孫が一番でした。
トランプをやったのは、久しぶりです。

それにしても80歳まで生きるとは思ってもいませんでした。
節子がいなくても、なかなか現世から自由になれません。

困ったものです。

| | コメント (0)

2021/05/28

■節子への挽歌5030:「鬼滅の刃」23冊読了

節子

「鬼滅の刃」を読了しました。
2日で、23冊を読んだので、それなりにつかれました。

最初はむしろ読みにくく、やめたいような気分でしたが、読んでいるうちに少しずつリズムになれて、半分くらい読み進んだところから、少し共感できるようになり、作者の心境が伝わってくるような気がしました。
そこからは、筋を追うというよりは作者の世界を覗き見るような気持の方が強くなりまし、さらに作者を通して現在の日本の社会が見えてきた気がします。
とても従順で寛容な人たちが、表情を無くしてさらに受動的になり、個人を失っている社会の実相が伝わってくる気がしました。
「鬼滅の刃」ではなく「自滅の刃」のような感じです。

私が大きく読み違えているのかもしれませんが、読後に残ったのは、極めてあったかい、しかし実に哀しい話で、そのあげくには自分たちだけの小さな幸せに逃げ込むビジョンさえ見えてくる。
この本がこれほど話題になっていることに、いささかの不安を持ちました。

もっともこれは読了直後の感想ですので、変わるかもしれません。
しかし今のところ、誰かに推薦しようという気は全く起こりません。
理解力が衰えてきてるのかもしれませんが。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5029:地区社協の委員になってしまいました

節子

地区社会福祉協議会の坂巻さんが、私の委員委嘱状を持ってきてくれました。
前回の総会に間に合わなかったので、わざわざ持参してくれたのです。
まあせっかく持参してくれましたが、すぐにゴミ箱行きです。
無駄な話です。

ちょっとだけ先日の総会についてお話ししました。
坂巻さんのように、実際に活動している役員にとっては、いろいろと感ずることも多いでしょう。

私が社会福祉協議会の委員になるのは想像もつかない話です。
そういう福祉活動を一番否定的に捉えてきたからです。
しかし自治会の会長の、いわゆる「充て職」だと思っていたのですが、そうではなくて、会長がだれかを推薦するのだそうです。きちんとそれが引き継がれていたらと思います。
期間中でも、もし誰か見つかったら推薦しようと思います。

もし節子がいたら、間違いなく節子を推薦しました。
とても残念です。
節子は民生委員もしていましたが、地区社会福祉協議会の現場の活動は、節子向きのように思います。

私は市の社会福祉協議会は好きにはなれませんが、地区社協の活動には好感を持っています。でも今の対英では、やはりあまりモチベーションは出てきません。
節子がいたらどういうでしょうか。

まあ否定せずに、できることはやっていこうと思います。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5028:今日もコミックで始まりました

節子

今朝は早起きして、またコミック「鬼滅の刃」です。
一気にまた4冊読みました。
残りあと3冊。
これは午後に読む予定です。

午前中は予定が入っているからです。
ここまでは一気に読みましたが、最後は少しゆっくりと読みたいですから。
これまで読んだ内容の章かも必要ですし。

「鬼滅の刃」の作者の世界は、私とは全く別の世界ですが、つながるものも感じます。
読んでいて思い出したのは、萩尾望都さんの「ポーの一族」です。
両者には共通の時空間意識を感じます。

しかし「鬼滅の刃」の人間観は、とても奇妙です。
改めて書こうと思いますが、最近の私の「人間観」にもどこかでつながっているのです。
最近、数か月、感じていたことや考えていたことと奇妙につながっている。
やはりすべては意味がある。

「鬼滅の刃」を読む気になったのは、読む時期になっていたのでしょう。
すべてのことには意味がある。つまり必然的な流れなのです。

ちなみに、「鬼滅の刃」は実に悲しい物語です。
時空を超えた「いのち」の物語です。
サロンで話題にしているトランスヒューマニズムの世界にもつながっています。
万葉集サロンの「な」と「あ」の世界ともつながっている。
そんな気もします。

コミック漬けは一時中断し、これから朝食です。
午前中は、市役所に行って青木さん(副市長)に将門の居館が我孫子にあったという説を唱えている戸田さんをお引き合わせして、レクチャーしてもらう予定ですが、「鬼滅の刃」も将門伝説につながっているのだそうです。
これについての本も、Tさんが貸してくれました。

不思議なもので、すべてのものはこうやってつながっていくのです。

 

| | コメント (0)

2021/05/27

■節子への挽歌5027:コミック三昧

節子

コミック三昧の2日です。
昨日は横山光輝の「三国志」、今日は今話題の「鬼滅の刃」です。
「三国志」は図書館から借りて読んでいるので、一挙にというわけにいきません。

私の前に借りる人がいて、その人は4巻ずつを1週間で読んでいるようです。
私はその人が返却したらやはり4巻借りて、翌日に返却しています。
昨日はようやく22巻まで読了しました。
ちょうど劉備が死んで、新しい3国体制になったところで、一応、ひと段落ついたところです。

「鬼滅の刃」は、サロンでい話題になり、人生を管理哲学的に生きている参加者が絶賛したのです。
それで読んでみようと思い、フェイスブックで誰か貸してくれないかと書いたら、早速にTさんが息子から全冊を借りて持ってきてくれたのです。
Tさんは節子はあったことがないかもしれませんが、わざわざわが家まで献花に来てくれた人です。
私は、Tさんの息子さんにも会ったことがありますが、もう高校生だそうです。

昨日は、私自身は夕方、友人からの相談で出かける以外は用事はなかったので、ほぼ1日、コミック漬けで、16巻まで一気に読み終えました。
最初は正直、全く理解できず、いささか苦痛でしたが、3巻ほどからリズムがわかり、読みやすくなり、10巻を超えたあたりから、少し理解、というか共感できるようになり、16巻あたりからはちょっと心にしみるようになりました。
これほど話題になった理由も少しわかってきました。

しかし一気に読んだせいか、疲れ切りました。
もうこれ以上は無理なので、寝ることにします。

 

| | コメント (0)

■湯島サロン「みんなの請願支援センターを設立します」報告

先日の濱中さんのサロン「忍び寄る茶色の世界」で、濱中さんから提案のあった「みんなの請願支援センター」について、改めて濱中さんに構想を話してもらい、みんなで話し合うサロンを開催しました。

参加者は少なかったのですが、みんな濱中さんの提案に共感する人だったので、じっくりした議論ができました。
濱中さんは構想するだけでなく、すでに実際に国会議員に働きかけたり、実態調査をしたりするなど、かなり具体的に動いています。
みんなの請願支援センター設立準備会も発足し、まもなくホームページもできます。

この活動は、濱中さんもお話しされている通り、昨今の「茶色の世界」化の動きに対する民主主義を守る実践活動です。
憲法16条が明記しているように、政権に対して異議を申し立て、制度や政策を見直す働きかけを選挙とは違った仕組みで、実現できる仕組みが日本にもあるのです。
しかしそれがほとんど国民には開かれておらず、逆に利権がらみでしか使われていないのが実状です。
濱中さんは、そうした状況を変え、請願権を私たち一人ひとりの手に取り戻そうと呼びかけているのです。そこに「みんなの」と命名した意味があります。

ちなみに、年齢制限や国籍制限のある選挙権とは違い、請願権は未成年者にも外国人にも認められています。最近起こった入管でのスリランカのウィシュマさんにも請願権はあったのです。もちろん中学生であろうと請願を通して政治に関わっていけるのですが、実際にはこの制度について知っている人はほとんどいないでしょう。
そうした状況を変えていくことから始めなければいけません。

「請願」という表現に違和感を持つ人もいるでしょうが、「政治に対して具体的に働きかけられる請願権という受益権の行使をみんなと一緒に考えていきたい」という濱中さんの呼びかけを広げていきたいと思います。
それでまた時々、「みんなの請願支援センター設立準備会」の集まりを湯島でもやっていきたいと思っています。関心のある方には別途案内をするようにしますので、ご連絡いただければと思います。
ご連絡いただいた方には、準備会の活動に関してもご連絡できるようにしていきたいと思います。

なお、準備会では、請願権をテーマにした公開フォーラムも企画中です。
また改めてご案内しますので、ぜひご参加いただければと思います。

Seigan

| | コメント (0)

2021/05/26

■節子への挽歌5026:畑にユカが付き合ってくれました

節子

ほぼ1年ぶりでしょうか、畑に行ってきました。
野草が覆い繁っているのでもう行きたくはなかったのです。
それにもうじき使えなくなるでしょうから、畑は無理でしょう。
経済的にも負担しきれなくなってきているので、解約したほうがいいのですが、節子を思い出すとそうもいかないのです。

ところがユカが手伝ってくれると言うので、今日、恐る恐る出かけました。
案の定、野草に覆われて、踏み入るのさえ大変です。
ともかく近隣の家に迷惑にならないように、隣接の野草を刈り取ることから始めました。
しかし持って行った草刈り鎌は錆びていて切れ味が悪く大変でした。しかし自然の中にいると身体が動き出します。ユカはもうこれくらいでと何回も言うのですが、もう少しやろうと頑張って、1時間を過ぎました。
1時間を過ぎた頃から立ち眩み状況というか、どこかおかしくなってきて、限界を感じました。
一人で来ていたら、一昨年のように、倒れてしまったかもしれません。

作業をやめたのですが、立つのさえ難しい。
しばらく休んで、何とか帰宅できました。
そのまま2時間ほどはどうも元に戻らず、半分寝ながら、回復を待ちました。
困ったものです。

しかし昼食も食べずに休んでいたら逆に調子がよくなってきたような気がします。
身体の違和感は以前ありますが、なんとなく、精神的には元気が戻ってきた。
野草から元気をもらったのかもしれません。

畑はまた再開しようと思います。
ゆっくりと、畑が使えることのできるまでですが。

午後はそんなわけで、椅子に座って読書でした。
読書といっても漫画です。
まずは図書館から借りて来た横山光輝の「三国志」。
その後、昨日、坪倉さんから借りた「鬼滅の刃」を読みだそうと思いますが、集中的に読破したいので、まずは「三国志」を読むことにしました。
とりあえず22巻まで借りたので、それを読み終えました。
明日からは「鬼滅の刃」です。

というわけで、今日は開墾作業と漫画で終わりました。

| | コメント (0)

2021/05/25

■節子への挽歌5025:久しぶりの都内の自転車

節子

午前中、会社の税務申告のために本郷税務署に行きました。
郵送すれば済む話なのですが、今年は自転車で行くことにしました。
コロナが問題になりだしてから、自転車に乗る機会がなくなっていたのです。

自転車はこの2年ほど、湯島の部屋のベランダに雨ざらしになったまま放置してありました。
そのため乗れるかどうか心配でしたが、案の定、車輪がうまく回らない。
油切れだったようですが、回しているうちに何とか走れそうになったので、自転車出かけました。

途中、東大の構内を通る予定でしたが、これもコロナのためか、春日門が閉まっていては入れません。
仕方なく春日通を本郷3丁目に回って、行くことにしましたが、ここは人手も多く、あぶないのです。
でもまあ何とか税務署につきましたが、意外と混んでいました。

だいぶ待ちましたが、私のは提出だけなので2~3分で完了しました。
会社(㈱コンセプトワークショップ〉は利益を上げる会社ではなく、仕事をする会社なので、私が定期的に資金を振り込んで維持しています。その債務(私個人にとっては債権)も今期でほぼ1000万円になってしまいました。
そろそろ解散しないといけないかもしれません。
会社にしておく意味はほとんどなく、しかも毎年事業税は納入しないといけませんし、一昨年のように手続きミスで追徴金まで負担しなければいけなくなりました。
しかし、節子と一緒に始めた会社なので、なんとなく残して起きた気がするのです。
まあ、そろそろ経済的な負担能力の限界を超えつつあるので、維持できるのもこの2~3年でしょう。

もう一件、文京区のシビックセンターに行く用事があったのですが、自転車は壊れかけたミニサイクルなので、疲れ切ってしまい、そのまま帰りたくなりました。
しかし本郷3丁目にもどたっら、そこから春日通りの下り坂を走るのもいいなと思い直しました。
シビックセンターは坂の真下にあるのです。
それでついつい爽快に下ってしまいました。
で、結局帰りは自転車を押しながら登ってきましたが、もう死ぬほど疲れました。

この自転車も危ないので廃棄したほうがよさそうです。
でも天気に恵まれた初夏のような気持のいい日でしたので、疲れましたが、元気が出ました。
やはり身体を使うのは気分のいいものです。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5024:意味のない言葉で話す人が増えてきてしまった

節子

私が大切にして生きていることの一つは、自分の言葉で話す人です。
ということは、自分の世界を生きている人です。
しかし都会にはこういう人は多くはありません。

節子も私と会ったときには、自分の言葉よりも世間の言葉で話そうとしていたような気がします。
私の勝手な見解では、人は他者の言葉を学び、他者の言葉で話し出し、自分の世界を世間の世界に合わせようとする。そのうちにだんだん世間の言葉に呪縛されていき、世間の言葉で話し、世間の世界に生きることが大人になることだと思ってします。
学校はその訓練の場であり、それになじめない子供は不登校になり、あげくの果てに引きこもりやニートになる。
かなり雑な言い方ですが、そんな気がしています。

琵琶湖の近くで育った節子は、都会からやってきて、都会の言葉、つまり世間の言葉を使うはずの私が、自分の言葉で話すのに戸惑ったことでしょう。
そしてそれにむしろ魅かれてしまった。
地に足ついた誠実な生き方をするはずだった節子は、まあそれで人生を私に預けてしまったのかもしれません。
いまから思えば、罪深い話です。

節子の人生が幸せだったかどうかはわかりませんが、少なくとも、節子は「自分を生きた」ことは間違いない。
いまとなっては、そして私としては、そう思うしかありません。いや、そう思いたい。

意味のない言葉で話す人が増えてきてしまった。
私には退屈な時代になってしまったとしか思えない。
それは、しかし、私もまた「言葉」で成り立つ世界に浸ってしまったということかもしれません。
だからまた土と動植物と触れ合おうと思い出したのです。
彼らには「言葉」はありませんから。

今朝は早起きして、まだ空き地になっている畑らしいところに行こうかと思ったのですが、一人で言って倒れてしまうといけないので、今朝はやめました。
昨夜も4時に目が覚めてしまったのですが、腸のあたりに何か違和感を感じました。
気のせいだとは思いますが、最近、身体的にもいろいろ違和感を感ずることが増えてきました。

困ったものです。

 

| | コメント (0)

2021/05/24

■節子への挽歌5023:土いじりを再開することにしました

節子

長いこと、土と無縁でしたが、再開しようと思います。
それで捨ててしまった長靴をまた買いに行きました。
さすがに一人では自信がないので、ユカにも手伝ってもらおうと思い、ユカにも長靴を買ってもらいました。
ユカは土いじりが嫌いですので、交渉には難航しましたが、まあ気が向いた時だけ軽く手伝ってくれるという条件です。

長靴を買いに行ったついでに野菜の苗も見ましたが、まだあまり自信がないので、苗を買うのはやめました。
私はどちらかというと、土壌や動物や植物が育つのを見るのが好きなのですが、収穫にはあまり関心はありません。
土も植物も生きているが伝わってきます。
以前、野草が伸びていくのが見ていると感じられると言って友人に笑われましたが、時に話しているのが聞こえるような気もします。

そういえば、最近、時々湯島のサロンに来る“あやさん”は、いつも湯島のベランダの植物たちに話しかけています。
節子も、ちょっとえこひいきがありましたが、話しかけていました。
だから節子がいた時には庭の草花や花木は元気だったのです。

最近、ユカが水耕栽培ではありますが、草花や野菜を育てています。
私は土が好きなのですが、ユカは土が嫌いなのです。

さて今日から土いじりを始めようとおもったのですが、なんだか疲労感がまだ残っていて、結局今日は長靴を買いに行くので終わりました。
最近、私の時間の速度はとても遅くなってきています。
これがいいのか悪いののかわかりませんが、まあ無理をすることはないでしょう。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5022:日本の市民活動がどうも好きになれません

節子

昨日、杉並の引きこもり家族会の集まりに行ってきました。
こういう自助グループの集まりは、苦手なのですが、友人から誘われたのとそこに参加している人の中に数名、湯島のサロンの参加者がいるので、気が進まないまま行きました。

3時間の、なんだか生ぬるい集まりでしたが、最後はちょっと報われたような気がしました。
時評編にも書いたのですが、最初に少し話をさせてもらいましたが、そこで「引きこもりって何ですか」「家族と当事者って何ですか」「みなさんはこの回に何をしに来ているのですか」という、3つの問いかけをしました。
受け取り用によっては、ケンカを売っているような問いかけです。

それから参加者、20人ほどでしたが、それぞれがその3つの問いに答えながら、自分のことを話してくれました。
とてもいい話をしてくる人もいましたが、基調はやはり私には「甘やかされた感じ」でした。
まあこんなこと青核と、さらにケンカを売っているのかと思われそうですが。

私にとっての「いい話」とは本音を表しながら「語る」話です。
いくら本音でも「放す」話は退屈です。

最後に報われたというのは、彼らが主役になって、新しい物語が始まりそうになったことです。
今朝、起きて、フェイスブックを見たら、昨日の集まりに参加した人から、こんなコメントが届いていました。

新しい物語を自分で創る、それは自分にしか創れないものだから、そう信じられる仲間と出会える家族会が増えたらいいなと思います。
今日はそのきっかけとなる問いをいただけたと思いました。ありがとうございました。

疲れが少しやわらぎました。
思いが届いた人が一人だけでもいたようです。

 

| | コメント (0)

2021/05/23

■引きこもり家族会の集まりに顔を出してきました

今日は都内のある地区の引きこもり家族会の集まりに参加しました。
私はこの種の集まりがあまり好きではありません。
でもまあそれをやっている友人から誘われると断れません。

 そこでいささか「性格の悪さ」を活かして、3つの問いかけをはじめにしました。
「ひきこもりってなんですか」
「家族と当事者は違うのですか」
「この会で皆さんは何をしたのですか」
捉えようによっては、ケンカを吹っかけているのか、というような問いかけです。

 昨日のテレビで、琵琶湖は、水面と底の水がかき混ぜられる壮大なシステムのおかげで純度を保ってきたが、いま、その仕組みが崩れつつあるという話があったようですが、この種の会も、時々、かき混ぜないと濁ってしまいかねません。でもそれが難しい。
そこで、今日は部外者の私がその役割を果たそうと、上記の3つの問いかけをしたのです。

 もう一つ、冒頭に余計な話もしてしまいました。
日本は新型コロナ流行のかなり前から、みんな「引きこもり生活」になってきている、と。
みんなそれぞれの小さな「タコつぼ」の世界に引きこもっているのに、その意識さえない。
だからこそ、自分の世界と違う「タコつぼ」にいる人を「引きこもり」といって、責めることで自分の引きこもりをごまかしている。

 そうしたら参加者から「あなたも引きこもりではないか」といわれました。
その通り。
人間はみんなそれぞれの世界に引きこもって生きている。
それの何が悪いのか。
「引きこもりだから自分は特別なのだ」と思っている「当事者」意識が私は好きになれないのです。困ったものですが。

でも最後は、ちょっとうれしい話になりました。
新しい物語がはじまるといいのですが。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5021:社会の反応に過敏になってきているのかもしれません

節子

昨日、湯島に行く途中、我孫子駅前の交番によりました。
私たちの地域を担当しているお巡りさんの松戸さんに、自治会の人たちに、何かあったら松戸さんに相談したらいいということを書いた回覧を渡しに行ったのです。
書くこと自体は、一昨日、松戸さんがわが家に来た時に話して了解は得ています。

地域の交番のおまわりさんは、それぞれ担当地区を持っていて、時々、パトロールもしているのですが、そういうことを知っている人は少ないかもしれません。
私も自治会会長になるまで知りませんでした。

これはおまわりさんに限りません。
地域には、その地域の人たちの生活を支えるさまざまな活動が行われていますが、それらはあまり見えていません。
見えていないばかりか、それらがテーマごとに一方的に行われていて、本来手段であるべきそうした活動が「目的」化しているようにさえ思うことがあります。

もう30年ほど前ですが、地域福祉が日本でも話題になりだした頃、福祉が「市場の餌食」にされるような懸念をもって、少しだけ関わったことがありますが、案の定、福祉は産業化されてしまいました。
当時、北九州市にも関わっていたのですが、当時の北九州市はしっかりした地域福祉活動をしていましたが、そういう動きはあまり広がらなかったように思います。
住民と専門部署が一緒になって取り組んでいた北九州市の動きがもっと掘り下げられたら、いまのような「私営化」された福祉行政にはならなかったでしょう。

話が挽歌から時評のような内容になってきてしまいました。
話を戻して、松戸さんの話です。
残念ながら松戸さんは前日は夜勤だったので、交番には不在でした。
代わりの方に渡してくださいと回覧文書を渡してきました。
そこで交番というかおまわりさんの基本的な姿勢を感じました。
ちょっと違和感がありました。

こういうちょっとしたことから、いまの社会の問題が垣間見えます。
最近、私は過敏になっているのかもしれません。
困ったものです。
節子もときにそう言うことがあったような気もしますが。

 

| | コメント (0)

2021/05/22

■新型コロナのおかげで自分の本性も見えてきます

新型コロナ騒ぎは、社会の実相だけではなく、人の本性を露わにしてくれます。
私は、人の本性などあまり見たくないのですが、どうしても見えてきてしまう。
ですから私の本性もまた、露わになってきているのでしょう。

「本性」は、自分が捉えている「自分」とは違います。
ですから、自分の本性には自分でさえ驚くこともあるわけです。
でもまあ、それも含めて、自分であることは間違いありません。

私は、新型コロナ感染症に対して特別の関心はないと思っています。
もっと注意すべき病気はたくさんありますし、新型コロナだけに関心を向けるわけにはいきません。新型コロナ感染症がなぜこんなにも特別視されるのかがわかっていません。
病気は何も「単一の存在」ではなく、さまざまな要因(病因)で身体は病んでいくと思っています。新型コロナだけに注意を向けることは、むしろ危険でさえある。
近代西欧医学にはどこか違和感があるのです。

それに感染防止は自分で行うべきで、外部からマスクをしろとか外出を控えろなどといわれて応じるようなことは私には全く関心がありません。
むしろそうした風潮が社会を覆っていることこそが、他人任せの防止策になって、実際には感染を広めているようにさえ思います。
手段に目を向けさせられ、肝心の目的がおろそかになっているという、昨今のよくある現象が感じられるのです。

マスクをして外出しなければ感染が防止されるわけではないでしょう。まずは感染しても発症しない身体にしなければいけないと私は思っていますし、何もそれは新型コロナに限った話ではありません。コロナ話に覆われているテレビは、大切なことを見えなくしてしまっているような気がします。そのほうが気になります。

と思いながらも、無意識のままにマスクをし、外出を控えがちな自分に時々気づきます。緊急事態宣言をいいことに、やるべきことを回避したがっている自分にも時々気づきます。
お上(体制)を批判しながら、お上(体制)に乗じて、いいとこどりしようとしている自分に出会うと、情けなくなります。

いまもワクチン接種を予約したかと兄からまた電話がありました。
ワクチン対応で兄弟関係が悪化しそうです。
それはともかく、どうも自分との関係も悪化しそうです。

困ったものです。

| | コメント (0)

■節子への挽歌5020:昨夜は夢ばかり見ていました

節子

最近、夢をよく見ます。
昼間、人と会う機会が減ったせいか、実にたくさんの人に合うのです。
初めて会う人も少なくありませんし、よく知っている人ともよく合います。
どちらかというと、初対面の人が多いのが不思議です。

昨夜会った「亀沼さん」という人は、初めて聞くお名前ですし、その人が石垣の掃除が得意だということまで、友人に教えてもらいました。なんで「石垣」なのかよくわかりませんが、夢は本当に不思議です。

夢には私が全く知らないと思っていることがよく出てきますので、そこから集合無意識や阿頼耶識などの存在が納得できます。あるいは時間が一方向に流れているのも、たまたまこの現世だけの話であることも納得できます。
夢の中で「大発見」したという話も残っていますが、そう考えると理に適っていますし、同時に「発見」ということはみんなの共有財産であることも納得できます。
コロンブスが、アメリカ大陸を「発見」した話と同じに思えます。

夢には節子も時々出てきます。
とりわけ主役ではありませんが、節子が出てくると心があったかくなるのは不思議です。

昨日は久しぶりに金縛りのような夢を見ました。
夢の中で夢を見るのは久しぶりですが、夢の中で私が金縛りの夢を見ているのです。
夢の中でさえ、夢から目を覚ませないという夢です。
これまで金縛りにあったことは何回かありますし、夢から目覚められなくなったこともありますが、夢の中の夢で、夢から覚められなかったのはたぶん初めてです。
おかしな夢でしたが、目覚めたところに節子がいたような気がしますが、定かではありません。

それにしても昨夜はたくさんの夢を見た。
しかもほとんどが知らない人ばかりでした。
家の近くに出かけたはずなのに、帰りはいつになっても家に着かない。
時間と空間と仲間が、まったくおかしかった。
脳の血管が2本、切れそうになっているからでしょうか。

この挽歌を書き始めた時には、昨夜観た夢のいくつかを覚えていた気がしますが、書いているうちに忘れてきて、いまはもうあまり覚えていません。
夢は本当に不思議です。
夢の中に埋没したほうが、面白いのかもしれません。

 

| | コメント (0)

■湯島サロン「トランスヒューマニズム-意識とはなにか」のご案内

山森さんの第5回サロンは、前回の話を踏まえて、「意識」をテーマにします。

前回のサロンでは、トランスヒューマン(超人間)を目指した先端技術の動向を紹介してくれましたが、そうしたことがもたらす課題を深く考察するには、「人間とは何なのか」「我々の道徳性や理性、差別の気持ち(感情)や欲望などはどこから生まれるのか」、そして「意識とはなにか」を考えていく必要があると山森さんは考えています。
今回は、その分野での最近の状況を消化していただいたうえで、前回、あまり議論できなかった「トランスヒューマニズム」をどう受けとめるかも含めて、話し合いたいと思います。

新型コロナで目先の対応に追われがちな毎日ですが、だからこそ、私たちは、いったいどこに向かっているのか、技術や産業の世界で何が動いているのか、をしっかりと考えてみたいと思います。
私たちの生活に深くつながっていく問題ですので、生活を大事にされているみなさんの参加をお待ちします。

なおできるだけ話し合いの時間をとりたいので、参加者には前回の資料(間に合えば今回の資料も)をデータでお届けしたいと思いますので、参加者は必ず事前にご連絡ください。資料に併せて、山森さんからのメッセージもお送りいたします。

〇日時:2021年6月20日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「トランスヒューマニズム-意識とはなにか」
〇話題提供者:山森俊治さん(遺伝子と詩吟を愛する理学博士)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

| | コメント (0)

2021/05/21

■見えないうちにどんどん社会に組み込まれていく不安

日本人の財政への無関心は、源泉徴収という納税方式に一因があると言われています。
たしかに自分で直接納税したという感覚よりも、徴税されるという感覚が強い人が多いかもしれません。
「節税」などという言葉が堂々と使われるのも、奇妙な話です。税は少なければ少ないほうがいいと多くの人は思っているわけです。私には理解できません。節電なら理解できるのですが。

もちろんそれは「税の納め方」だけのせいではないでしょう。
日本では「税とは何か」の議論も少ないように思います。
私には、そもそも「納税の義務」という概念も違和感があります。
国民主権の国家であれば、少なくとも「義務」ではなくて「責務」というべきです。
どこかにも書きましたが、国民主権国家の憲法に「国民の義務」などという言葉があるのは私には理解できません。でも疑問を持つ人は少ないようです。

国家という仕組みのおかげで、経済活動ができるので、そこから得た利益の一部を国家の仕組みを維持するために税として納めるというのが私の税の捉え方です。もしそうならば消費税の説明がつきません。
生きていくためには生活必需品を「消費」しなければいけませんが、それに課税されるというのでは、国民主権ではなく、支配者への貢ぎ物のような感じがしてなりません。
消費税と所得税は理念が全く違います。理念の違うものが、同じ「税」という言葉で一括されることが私には理解できません。
このあたりはもう少し詳しく書かないと理解してもらえないかもしれません。

自治会をやっているといろいろと社会の実相も見えてくるのですが、たとえば日赤や社会福祉協議会への寄付、あるいは赤い羽根共同募金など、自治会単位で一括行われるような傾向があることに気づきます。
こういうことは自治会の役員でもやらないと意識することはあまりないでしょう。

15年ほど前に会長をやった時には、社会福祉協議会への一括会費納入はおかしいのではないかという議論が少しありました。
あるいは赤い羽根の募金は、各戸に募金をお願いして回していました。
しかし今は私たちの自治会でも世帯当たり一定額を決めて、自治会費から一括振り込んでいます。誰もおかしいという人はいないようです。
もちろんそうした風潮に流されずに、個人単位で寄付などを呼びかけている自治会もありますが、その手間暇を考えると、とても大変ですし、時に人間関係をこじらせるようなことも起こらないとは限りません。だから一括納入方式が増えているはずです。

しかし、こういうやり方だと、いつの間にか寄付していること自体の意識がなくなってきます。まさに源泉徴収文化と同じです。そのため、寄付先の組織の経営や活動への関心は弱まっていきかねません。
こういう風潮は決してよくないのだと思いますが、それに抗って、異を唱える勇気は私にはありません。

これはほんの一例ですが、いくら偉そうなことを言っても、実際には時流に流されている自分によく出合います。やはり時流には克てないのでしょうか。
困ったものです。
いつの時代も、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」のでしょうか。

自治会の会長をやっていると、各世帯への回覧物が回ってきます。
それを見ていて感ずることも多いです。
あくまでも主観的な意見ですが、ほとんどが「無駄」としか思えません。
各世帯で取ってくださいと言っても結局、残って帰ってくることも少なくありません。
誰も読まないだろう立派な小冊子も少なくありません。
こういうものをつくることで活動をやっていると思うようになる恐れもないとは言えません。そういう印刷物を制作することで成り立っている会社もあります。
まさにグレーバーが指摘した「ブルシット・ジョブ」の多さに辟易します。

とまあ、こんなことを考えさせられることが多く、自治会会長はストレスの多い仕事です。
私は、毎月、会長報告という形で、全世帯に回覧させてもらうつもりです。できるだけこうしたことも意識してもらおうと思っていますが、あまり身勝手にやってしまうと次の会長に迷惑をかけかねません。

悩ましい話です。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5019:社会にどんどん組み込まれていく気がします

節子

自治会の会長として、毎月、活動報告を書いて回覧することにしました。
前の会長の時もやっていましたが、途中で挫折したような気がします。
というよりも報告する材料が途絶えたか、節子の病状が悪化したかのいずれかです。
まあ私の場合、それはつながっていることですが。

というのも前回の会長の時のことをまったく思い出せないのです。
あの頃の12年は、私の記憶からすっぽりと抜けているのです。
いや34年というべきでしょうか。

今日もまた駅前のおまわりさんの松戸さんがきたり、日赤からの寄付要請があったりしています。
最近は、日赤や社会福祉協議会への寄付、あるいは赤い羽根共同募金など、自治会単位で一括行われるようになってきています。
もちろんそうした風潮に流されずに、個人単位で行っているところもありますが、その手間暇も大きいので、私たちの自治会はもう数年前から予め1世帯当たりの寄付額を役員会で決めて、事務的に行うようになっているのです。

しかし、こういうやり方だと、いつの間にか寄付していること自体の意識がなくなってきます。
こういう風潮は決してよくないのだと思いますが、それに抗って、異を唱える勇気はありません。
いくら偉そうなことを言っても、実際には時流に流されている自分によく出合います。

やはり時流には克てないのでしょうか。

| | コメント (0)

■節子への挽歌5018:健全な老化は順調に進んでいるようです

節子

今日は名戸ヶ谷病院の脳神経外科の定期検査日です。
今回は心臓の超音波検査をしました。
なにやらいくつか指摘を受けましたが、要は健全な老化に属する話で問題はありませんでした。

しかし健全な老化のおかげで、まあ時にいろんなことも起きます。
困ったものですが、逆に老化現象が現れなかったらこれまた恐ろしい話です。
肉体は次第に滅んでいくのが健全でしょうから。

若いころは身体などほとんど意識していませんでしたが、最近は身体を意識することが多くなりました。
頭の後ろがもやっとしたり、視界がゆらいだり、腰が痛んだり、足が重かったり、まあいろいろとあります。
身体の存在を意識すること自体が「老化」の始まりなのでしょう。

いま一番不都合なのは視力の衰えです。
読書速度が遅くなっただけではなく、読書意欲が大きく減退してきています。
もう本など読むのはやめたらということかもしれません。

 

| | コメント (0)

■平将門ゆかりの場所のウォーキングツアーのテスト版の記録

先日紹介した平将門ゆかりの場所のウォーキングツアーのテスト版の記録を櫻井さんがユーチューブにまとめてくれました。20分ですが、よかったらご覧ください。近いうちに公開ウォーキングツアーのご案内もさせてもらう予定です。

https://youtu.be/w_38DsmX-_g

| | コメント (0)

2021/05/20

■節子への挽歌5017:地区社会福祉協議会の総会での出来事

節子

初めて地区社会福祉協議会の総会に出席しました。
自治会の会長の役割かと思っていたら、どうもそうではないようで、たまたま私たちの自治会では会長が委員になるようです。
そうと知っていたら、誰かもっと適切な人を選んだのですが、と思いました。

私はかつては我孫子の社会福祉協議会には異を唱えたこともあり、あまりいい関係ではなかったからです。
それに社会福祉協議会の運営には大きな違和感をもっています。
しかし地区社会福祉協議会の地道な活動には昔から意義を感じています。
節子も民生委員をしていましたから、活動の実態については少しは知っていました。
真面目な節子はたとえ夫とはいえ、守秘義務があるので話せないとこともあると言っていましたが。

いつものように定刻直前に会場に着きました。まず出席者の多さに驚きましたが、ちょっとしたトラブルがありました。私の席が見当たらないのです。
私は参加の連絡は出していたのですが、なにやら手違いがあったようです。
私を見つけた役員のSさん(なぜか直前にまた案内を届けてくれました)が出てきて、対応してくれました。
不思議なことに、私が投函した委嘱同意書も職員が見つかったといって、謝罪がありました。
私は席はどこでもいいと言ったのですが、席もすぐに作ってくれました。なんだか狐に包まれた感じでした。
偶然ですが、つくられた席の隣が知り合いでした。
私が知っている人は、役員や来賓以外は、その人ひとりだけだったのですが、これも偶然でしょうか。

総会は形式通りの、しかし長い総会でした。
質問もよくわからない話やいささか身勝手な質問(いずれも多分大きな組織にいたであろう男性からの意見発言)で、いささかうんざりしましたが、報告者の真面目さには感心しました。

ところで問題はそこからです。
会が終了し、帰ろうと思ったら、会長がわざわざ私のところにやってきました。
新任の委員は私だけではなく、10人以上います。
しかも今回、私は一言も発言していません。

にもかかわらずなぜ私のところにあいさつに来たのか、不審に思ったのですが、話していると何か私のことを知っているようです。
そこで不躾ながら、どうして私のことをご存じなのですかと質問しました。
私の自治会から地区社協の役員になっているSさんから私のことを聞いたそうです。
ちなみにSさんも私のことをそう詳しくは知らないはずです。

しかし、会長(女性です)の話しぶりから、どうも私のことがわかっているようです。
もし彼女が社会福祉協議会や市の職員から私のことを何か聞いているとしたら、あまり「いい話」ではないでしょう。

しかし、彼女から、ぜひいろいろと協力してほしいと言われると無礙には断れません。
ふと節子の顔を思い出してしまいました。
これは節子のいたずらではないのか。
そう思わされたのです。

社会福祉協議会関連の資料や書籍は最近すべて廃棄してしまいました。
こうと知っていたら残しておくのでした。
資料を捨てると接点ができる。これまで何回も経験してきたことがまた起こりました。

 

| | コメント (0)

■会議などに出て、いつも思うこと

自治会の会長を引き受けたことから、いろいろな会議に出席する機会が増えています。
今日は地区社会福祉協議会の総会に参加しました。
内容に関しても思うことは多かったのですが、それはそれとして、こういう会議に出ていつも感ずることがあります。

それは参加者にペットボトルのお茶が配布されることです。
そしてほとんどの人がそれを飲まないことです。
飲まないペットボトルはそれぞれが持ち帰ります。

こういうスタイルが基本になったのはいつの頃からでしょうか。
むかしは、参加者に事務局側がお茶をいれ配ってくれました。
会議にお茶をいれる仕事は、とても大事な仕事だと思っている私には、最初から違和感がありました。これではいい会議はできないし、環境負荷も増えるばかりだし、といつも苦々しく思っていました。
当初は口をつけずにそのまま置いてきたのですが、最近は持ち帰るようになりました。事務局の人からいつも持って帰るように促されるからです。

私自身が事務局側になるような集まりの場合には、大きなペットボトルと紙コップを置いて、各自自由に飲むようにしてもらっていましたが、最近はついついペットボトルを出す風潮に抗えずに、先日の自治会の役員会では各自にペットボトルを準備してしまいました。せめて缶にすべきだと反省しています。

マイクロプラスチック問題への関心がようやく高まりだしました。
生活者の一人として、できることに取り組まなければいけません。
それにしても過剰包装の流れはコロナでさらに過剰化しています。

コロナ対策のためには、何でもが大目に見られる風潮にも、不安を感じます。

 

| | コメント (0)

■5月オープンサロンのご案内

5月のオープンサロンは平日の25日(火曜日)開催です。
気が向いたらどうぞ。
久しぶりにオープンカフェスタイルです。
ぜひとも「話題」をご持参ください。

〇日時:2021年5月25日(火曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
ttp://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5016:テレビ体操再開

節子

最近、9時前に寝る癖がついてしまいました。
午後8時以降は電話には出ないと昔から決めているのですが、携帯電話も時々、午後8時には切ってしまいます。
電話は緊急のために、常時、出るのがいいのかもしれませんが、日常的には午前8時から午後8時までが、私の昔からのルールなのです。

先日は兄から午後8時前に携帯電話に電話があったのですが、あいにく早めに切ってしまっていたので、家の電話にも私が出なかったので、心配をかけてしまいました。
まあユカが出てくれたので、大丈夫でしたが、それもあって、最近は兄も私よりもユカに電話をかけてくることが多くなりました。
電話は私はどうも好きになれません。

ましてやzoomlineなどはもっと苦手ですが、ますますそういうリモートミーティングが増えそうで、自治会の活動や地域活動にまで使われだしています。
遠隔地はともかく、地域の活動では原則として私は参加しないようにしていますが、意外とみんな慣れていくようです。
こういう環境に慣れていくと、人はどうなっていくのでしょうか。
だんだん身体を動かすことが少なくなり、足がなくなってしまうかもしれません。

そういえば、先日、腰を痛めたため、テレビ体操をやめたのですが、もう腰は治ったのに、テレビ体操はほとんどやらなくなってしまいました。
やらないとやらないで、すぐになじんでしまう。
困ったものです。

今日はまだテレビ体操の始まる前の時間です。
今朝からテレビ体操再開しようと思います。

今日は幸いに、自治会関係の集まりが午前午後と2つもあります。
人にも会えるでしょう。
ただマスクをしていると、どうも会った気がしません。
なんだか調子が悪いのはマスクのせいかもしれません。

 

| | コメント (0)

2021/05/19

■節子への挽歌5015:リビングに居座ってしまう毎日

節子

玄関のバラが満開です。

20210514
今年は庭もジュンが手入れしてくれたので、きれいになり、花もいろいろと咲いています。
時々、にこが花を節子に届けてくれますので、節子も庭の花に囲まれています。

2階のベランダは一向に整理が進みません。
やろうやろうと思いながら、やりだせないでいるうちに、梅雨入りになりそうです。
畑も同じ状況で、気が重いです。

私の気分は天気とかなりつながっています。
みんなもそうかもしれませんが、特に影響を受けやすい気がします。
一時は、少し切れていて、天気をあまり感じませんでしたが、最近はまた天気次第になってきています。

この2日ほど、天気がよくなかったので、何もやる気が起きずに、また怠惰病が始まってしまいそうです。
困ったものです。

そうは言いながら少しずつ生活環境を整えだそうと思います。
パソコン環境も、友人のおかげでほぼ正常化しました。
にもかかわらず、デスクトップよりもリビングにあるノートパソコンばかり使っています。
場所も食卓が私の居場所になってしまっています。
今日も外出時以外は、ほぼリビングにいました。
これを変えられれば、生活もまた正常化するのですが。

ちなみにリビングには節子がいます。

 

| | コメント (0)

■湯島サロン「自分にとっての生きる意味」報告

私としては、4月以来の大きなテーマの総括を意識して企画したサロンだったのですが、開催日が近づくにつれて、何を話したらいいか迷いが出てきて、問題提起もできないままに、いささか私自身をさらけ出しすぎてしまった赤面サロンになってしまいました。
そんなわけで、報告もなかなか書きにくいです。

最初に参加者それぞれから「生きる意味」ということに関して一言ずつコメントしてもらい、その後、第2ラウンドで、各自から今度は「自分にとっての生きる意味」を語ってもらうことにしました。

第1ラウンドは順調に回りました。
第2ラウンドは私から話させてもらいましたが、迷いをそのまま話したためか、いろいろと突っ込まれてしまい、なんだかかなり「いじられてしまった」感じで、次の人になかなか回らず、話が広がってしまいました。
誘いに乗ってしまい、いささか話しすぎてしまったような気がします。
困ったものです。

次第にそれぞれの「生きる意味」も話されだしましたが、答えを出すことが目的ではなく、それぞれが惰性で生きるのではなく、時にちょっと立ち止まって考えようというのが趣旨だったので、話の流れに任すことにしました。

話を聞いていて、感じたことを書いて報告に代えます。

大きくは4つくらいの生き方に別れるような気がしました。
①誰か特定の人(たち)のために生きる(他者が生きる意味を与えてくれる)
②自分の楽しみを得るために生きる(自分の中にこそ生きる意味がある)
③使命を果たすために生きる(生きる意味は与えられている)
④生きているから生きる(生きる意味は問うべきではない)

①は他者のために生きることですが、他者が特定の人か、不特定多数の、たとえば「社会のため」「国家のため」「会社のため」かで全く異質なものになります。
②は明快ですが、この生き方だと自分の命を自由に扱えることになりかねません。
③は、その「使命」とは誰のためかということになり、①と②に還元されてしまいます。
④は「生きる意味」など考える意味がないということになります。

こう整理してしまうと、あまりにも退屈な感じがしますが、それぞれ私には大きな示唆を感じます。
たとえば、この後、「自殺」や「安楽死」のテーマを取り上げたいと思っていたのですが、そこにもつながっていくはずです。
あるいは「社会のため」とか「会社のため」という言葉の無意味さ(危険性)もわかってくるはずです。
そして、昨今ではみんな④の世界に取り込まれているのではないかということにも気づかされるはずです。
ちなみに、サロンでは「使命」などそれぞれに関して、具体的な話もありました。
「生きる意味」といえば定番のヴィクトール・フランクルの話もでました。

おかしな報告になってしまいました。
こんなはずではなかったのですが。
「〈な〉と〈あ〉と〈た〉」「自己非自己と利己利他」「トランスヒューマニズム」「宗教と信仰」「自我と関係」などを集大成するまとめのサロンを構想していたのですが、羊頭狗肉ですみません。

でもちょっとだけ、「生きていることを無駄にしていないだろうか」と考えてくれる人がいたらうれしいです。そうすればコロナパンデミックの中での生き方も変わるかもしれません。

ちなみに、「4つの生き方」については、オープンサロンなので話題にしていきたいと思っています。
サロンもできればいいなと思っています。賛同者がいたら、懲りずにまたやろうと思っています。

Ikiru20210616

| | コメント (0)

2021/05/17

■節子への挽歌5014:節子の絵を半分廃棄しました

節子

まだ片づけは進行中ですが、今日は使っていない食器を、近くでやっていた「子猫の譲渡会」主催のフリーマーケットにユカが持っていきました。
前回もいくつか持っていったようですが、今回はちょっとクラシックな感じの珈琲カップセットなどを持っていったようです。
私に相談すると、私がどうも渋るような気配を見せるので、もう私には相談しませんし、私も見ないようにしています。
物に対する思い出は人によって違いますから、判断は分かれるのとやはり私にはどうも愛着がありすぎるのです。

今日はまた、ジュンが地下室に保存してあった、節子の描いた油絵を運び出しました。
地下室は湿気が高いので、額の後ろの支え板が一部ボロボロになってしまっていました。
思い切って一部を廃棄することにしました。
節子の絵はずっと玄関に飾っていますが、ピエロとか壺の絵は、今回は廃棄対象になりました。楽屋キャンパスも廃棄しました。
まあ時間はかかりますが、こうやって少しずつ整理されていくわけです。

思い出がある物の廃棄は、どうしても時間がかかります。
しかしいつかはみんな廃棄されることになるでしょう。
ちょっと寂しい気もしますが。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5013:コロナワクチン対応から見えてくること

節子

私の友人たちは、新型コロナ感染症のワクチンに関して、その姿勢が2つに分かれています。
ワクチンを拒否する人とワクチンを待ち望む人です。
私は前者ですが、かといって後者を否定するつもりはありません。

ワクチンには「ある意図」が含まれていて、ワクチンを接種すると管理される対象になる陰謀だと言う人もいますが、仮にもしそうだとしてもだからといって目くじらを立てるつもりはありません。
そもそもすでに私たちは、管理の対象として「操作されて生きている」のですから。
生政治はもうそこまで来ているように思います。

個人情報が抜き取られてしまうからといってインターネットの利用を避けたり、マイナンバーカードに反対したりする人もいますが、すでにそんな程度の情報はもう完全に管理下に置かれていると思います。
だから私はほとんど心配していません。

いまもなおテレビではコロナ関連情報がよく流されていますが、私にはもはや興味はありません。
現実とは全く乖離されているように思うからです。
報道している人たちが、みんなロボットにしか見えてこなくなりました。

毎日、こうも同じような話をしている人たちはいったい何なのだろうかとさえ思います。
見ている人も同じですが。
そしてつい数か月前までは、私もそういう存在の一人でした。
困ったものです。

コロナ感染症を軽視しているわけではありません。
私は発症したくないので、私なりの注意はしています。
それは自らの免疫力を高めるという方法です。
「免疫力」という言葉は医学の世界にはないそうですが、医学などという狭い未熟な専門家の言葉などには制約されたくありません。
専門家が狭い知識を独占し、権威づける風潮は私の好みではありません。
専門家ほど、専門分野のことを知らない人はいないといつも思っています。
まあ不正確な表現ですが。
つまり、知らないことを知っていることが知っているということだというのが私の考えです。

しかし、ワクチンへの対応を見ていると、意外なこともあわかります。
意外な人がワクチンを拒否し、意外な人がワクチンにすがっていることがある。
他者を理解するのは、本当に難しい。
まあ、自分を理解するのも難しいですが。

ちなみに、ワクチンへの態度は、私と節子とは正反対でしょう。
それはたぶん間違いないでしょう。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5012:「私の生きる意味は妻」

節子

昨日のサロンはいささか恥ずかしいサロンになりました。
結局、「私の生きる意味は妻」という話をしてしまったのです。
もう少しわかりやすく話したかったので、考えているうちにだんだん頭が混乱してきて、そのまま話してしまったのです。
そこからいろいろと突っ込まれて、さらにいろいろと話してしまいました。
ちょっとまた話し過ぎてしまいました。

人は自分一人で生きているわけではありません。
人生には必ず「伴侶」がいる。
伴侶は妻や夫とは限りません。
いわゆるパートナーであり、「人」という文字の右側の支え棒になる存在です。
しかも、その支え棒もまた私がいないと倒れてしまう。
お互いが支え合って存在できている。
そういうことを話したかったのですが、うまく話せませんでした。
話せないというよりも、考えが整理できなかったということなのですが。

サロンでは私の話が話題になりすぎて」、参加者みなさんの話はあまり聞けませんでしたが、お一人、「自分は次代につないでいくのが役割」という人がいました。先人から受け継いだものだけではなく、それに何かを加えてという意味だったと思います。
共感できる面もありますが、それがいいことかどうかはわからない。
むしろ次代につなげるのを止めるのもまた役割かもしれない。

サロンが終わってからも、いろいろと考えるヒントをもらいました。
久しぶりに私には面白いサロンでした。

 

| | コメント (0)

■湯島サロン「主権国家における憲法とは何か」のご案内

5月3日に憲法サロンを開催しましたが、どうもすっきりしないので、改めて今年はもう一度、憲法サロンを開催します。
今回は「主権国家における憲法とは何か」について、私の考えを1015分ほど話させてもらい、そこから話し合いができればと思います。

歴史の長いヨーロッパと先住民を無視して新たに建国したアメリカとは、当然ながら「憲法」の捉え方が全く違います。国の成り立ち方が全く違うからです。にもかかわらず、同じ「憲法」という言葉が使われているところがややこしいのかもしれません。そういう点をこそ明確にするのが「憲法学者」の役割ではないかと思いますが、私にはそういう議論はあまり聞こえてきません。

10分で話すのは難しいかもしれませんが、そんな話をしながら、「憲法」を考えるとは、「国家」を考えることであり、私たち一人ひとりの生活を考えることであるというところまで話を持っていければと思っています。
この話を契機に、6月から「国家」をテーマにしたサロンを始められないかと思っています。

なお、私以外でも、「憲法を自分はこう捉えている」というご意見のある方は、ぜひお話ししていただければと思います。ただし、自論の発表は10分以内におさめていただくようにお願いします。
話し合いを中心にしたいと思いますので。

〇日時:2021年5月30日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

| | コメント (0)

2021/05/16

■節子への挽歌5011:生きている意味と生きる意味

節子

今日は「自分にとっての生きる意味」をテーマにしたサロンです。
難しい、しかもめんどくさいテーマなので、何人集まるかわかりませんが、このサロンを呼びかけた時には、箴言やエピソードなどを集めて、最初に私から少し話をさせてもらう予定でした。私に「生きる意味」を与えてくれていたのは節子だったという話もするつもりでした。

しかしこの数日、そうした準備をしようといろいろと考えているうちに、そういう話をやめることにしました。
いろいろと考えているうちに、サロンでこのテーマを選んだことの意味が、自分でもわからなくなってきたのです。

サロンを企画した時の「意図」は、人は利他的であり、支え合う存在、という方向に話を持っていこうと思っていました。
生きているのは「自分」のためではなく、「他者」のためでもなく、「特定の誰か」のためではないかということを議論しようと思っていたのです。
しかし、考えているうちに、どうもうまくまとまらなくなってきました。
そして、私がかつて考えていた「私の生きる意味は節子」という命題の意味が揺らいできたのです。
この挽歌のどこかにも、そういうことを書いた気がしますが、それを探して読む気もしなくなった。
事実、節子がいなくなったのに、どうして私は生きているのか。
もちろんいかように説明はつけられますが、考えすぎたせいか、これまでの思考が無意味なような気さえしてきたのです。

もともと私は、物事を素直に受け止めるので、生きていることも素直に受け入れられます。その意味を問うことなど、あまりしたことがない。
ただ「生きている意味」と「生きる意味」とは違います。
そうした原点にまた引き戻されてしまいました。
生きている以上、生きる意味があるに違いない。
そこからもう一度考え直してみようと思います。

今日はどんな議論になるでしょうか。
どんな人が集まるかによって決まってくるでしょうが。

 

| | コメント (0)

2021/05/15

■節子への挽歌5009:私も社会福祉協議会に関わることになりました

節子

自治会の会長になると地区社会福祉協議会の委員になるようで、今日は役員の坂巻さんが書類を届けてくれました。
20日に総会があるので、その資料も含めてです。

節子は転居前の久寺家で民生委員をしていました。
もし病気にならなかったら、坂巻さんともきっと知り合いになったでしょう。
坂巻さんは、市議の坂巻さんの母親です。
坂巻さんが市長選に立候補した時に私もささやかに応援したので、以来、まちなかで会うと挨拶してくれます。コロナ騒ぎがなければ、議員を囲んでの自治会の集まりも開きたいところですが、それも当分は難しいでしょう。

地域社会はいろいろな仕事を通じて生まれる人のつながりでできています。」
ここでいう「仕事」はもちろん経済活動における仕事ではありません。

地域が住みやすくなるためには、さまざまな住民たちの仕事が見えないところで行われているのです。そういう仕事がもっと意識されていいと思いますが、なぜかみんなそういう仕事は軽く扱われがちです。
そういう風潮に抗いたいのですが、なかなかうまくいきません。

もっとも、私は昨今の社会福祉協議会の活動にはかなり批判的です。
地に足がついている様にはとても思えない。
まだまだ行政による施し福祉の姿勢から抜け出そうとしていないからです。
今回は、しかし実際にどのような活動が行われているかを改めて知る機会になりそうです。
節子がいたら、節子に頼むところですが。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5008:体調はよくなりましたが、体力の劣化は否めません

節子

生活のリズムはなかなか元に戻りません。
腰を痛めて以来、自重していた朝のテレビ体操もしばらくさぼっていたのですが、今朝は久しぶりにやりました。しばらくやっていなかっただけなのに、身体がバランスを崩しやすくなっていることに気づかされます。

先日、胃もやられたので、昨日はコーヒーを避けていました。
今日もコーヒーをやめて、薄目の紅茶にしました。
昨日の夕食は思い切りヴェジタリアンでしたが、今朝もレタスをたっぷり食べました。

節子もそうでしたが、食事をするのも結構疲れます。
入浴もつかれる。
最近、よく「疲れた」という言葉を発しているようで、ユカからはその言葉を聞くと私も疲れるので止めてといわれています。
しかし自然と口から出ていくのです。
困ったものです。
生命の大きな流れには抗いようはないので、素直に従うしかありません。

2人で静かに老いながら、ひっそりと一緒にいなくなっていく。
そういうあこがれの別れ方は。もうできなくなりました。
疲れたと言いながら、未練がましくいなくなっていく。
そんな終わり方しか選択できないような気がしてきました。

困ったものです。

 

| | コメント (0)

2021/05/14

■節子への挽歌5007:今年初めて靴を履きました

節子

今日は今年初めて靴を履きました。
ずっとサンダルで過ごしていますが、今日は副市長に昨年、我孫子に転居してきた日本舞踏の家元のご夫妻を紹介しに行くのですが、日本舞踏の家元のご夫妻を同行するのにサンダルではいかにもおかしいと思ったからです。
それに副市長室にもサンダルで入室するのは、少し気になります。

しかし、どうも少し考えすぎだったようです。

まず若月流の家元ご夫妻は、お2人とも和洋でピシッと決めてきましたが、私の靴を見て、かつらさんは笑いました。サンダルでいいのにというのです。
副市長にあったら、彼もカジュアルでいいのにというのです。

いささか自己規制してしまいました。
時代は大きく変わってきているようです。

それに久しぶりに靴はどうもやはり違和感があります。
もうすっかりサンダルがなじんでしまったようです。

昨年は新型コロナで迷惑を賭けてはいけないと思い、市役所にはいきませんでしたので、青木さんに会おうのも1年半ぶりくらいです。
久しぶりだったので、我孫子まちづくり編集会議や将門プロジェクトの話を簡単に報告しました。
青木さんも、将門ファンのようで、話を真剣に聞いてくれました。
生涯学習部長の木下さんも読んでおいてくださり、とてもいい時間が持てました。
若月流の家元のお2人も喜んでくれました。
一歩前進、新しい物語が始まりそうです。

節子がいたら、どうなっていたでしょうか。
節子は将門にはあまり興味を持たなかったかもしれませんが、歌舞伎や舞踏には関心を持ったことでしょう。

今日は夏のような暑い日でした。

| | コメント (0)

■節子への挽歌5006:「はいはい、わかりました」

節子

今朝はまた初夏に戻ったようないい天気です。
昨日は食事に注意していたのですが、そのおかげもあって今日は快調です。

昨日、兄から電話があり、新型コロナのワクチン接種の予約ができた。お前も他者への感染予防のためにきちんと接種するようにと厳しく言われました。
私の性格を知っているので、私がワクチン接種を受けないことを知っているのです。
反論するとまたケンカになるので、「はいはい、わかりました」と応えておきました。

最近、この「はいはい、わかりました」を使うようになりました。
便利な言葉です。
人となかよくやっていくための言葉かもしれません。
もっともちょっとアクセントを変えていってしまうと逆効果ですが。

それで昨日気づいたのですが、この言葉は、節子がよく使っていた気がします。
節子の場合は、それは「聞き流す姿勢」を表す言葉でした。
私たちはよくケンカをしましたが、この言葉を節子が使うようになってから、ケンカは少なくなったような気がします。

節子は、その言葉の意味もよく話していました。
どうせすぐに意見が変わるのだから、即反論せずに聞き流しおくのが私(修)と付き合う最良の方法だというのです。
そうした節子の言い分には反論できないので、受け入れていました。
しかし、「はいはい、わかりました」といわれると次の言葉が出てこない。
双方が考えてしまう状況が生まれるかもしれません。
とてもいろんな意味で、面白い言葉かもしれません。

節子は今なお、私にいろんなことを気づかせてくれる存在なのです。

 

| | コメント (0)

2021/05/13

■節子への挽歌5005:また胃痛で眠れませんでした

節子

昨日はあったかないい天気だったのに、今日は温度も低い雨天です。
寒暖の差が大きいとどうも調子が出ません。

昨日は我孫子の仲間たちと将門伝説ゆかりの地を歩いてまわりました。
時評編に簡単に書いたとおり、平将門の居城が我孫子の湖北地区にあったという新説を唱えている戸田さんにあったから、それをみんなに知ってもらいたいという戸田さんに思いに役に立てないかというのが、そのきっかけです。
こういう性分は。なかなか変わりません。
余計なお世話の困った話なのですが。

今日は10人の参加者がありましたが、中には初対面の人も2人いました。
その2人は、むしろ郷土史に詳しい人です。
そのおひとりから、終わった後、メールをいただきました。
あまり話もしませんでしたが、なにか親近感を持ってくれたようで、うれしい内容でした。

私には、悪い性向があって、権威や専門家に対してはどちらかというと無意識に拒否反応が出てしまうのですが、昨日、参加されたおふたりはいずれも温厚で、知識を押し付けるタイプではなかったのです。
そういう人に出会うと、私自身の愚かさを思い知らされます。
反権威指向はまた権威指向の表れかもしれません。

4時間のウォーキングの後、希望者で沼南の道の館で昼食をご一緒しました。
野菜レストランを予定していたのですが、休業だったのです。
五目焼きそばを頼んだのですが、量が多くてやっと食べました。
それが悪かったようで、夜中からまた胃が痛くなりました。

夜中に起きて胃薬を飲んだのですが、最近の生活の乱れが出てきているのかもしれません。
いや、体力の衰えでしょうか。

どうも生活のリズムがまた狂いだしていて、戻りません。
節子がいたらなあ、と思います。

 

| | コメント (0)

■平将門ゆかりの場所のウォーキングツアーのテスト版報告

昨日は将門プロジェクト準備会主催で、我孫子と柏にある将門ゆかりの場所のウォーキングツアーのテスト版を行いました。
こういう時期だったので、今回は市外からの参加は見合せ、内輪だけのテスト版として行いました。市外から申し込みいただいた方、申し訳ありませんでした。

前半は我孫子で、「将門記」にある「其記文に曰く、王城を下総国の亭南に建つべし。兼ねて檥橋を以って号して京の山崎と為。相馬郡大井の津を以って京の大津と為む」に沿って、王城址、檥橋、大井の津に比定した場所を回りました。
平将門の居館が、我孫子市の湖北にあったと新設を主張している、我孫子の文化を守る会の戸田七支さんが企画案内してくれました。戸田さんによれば、実際にこのコースを将門を意識してみんなで歩くのは今回が初めてだそうです。
戸田さんの説明がなければ、将門はあまり意識できませんが、戸田さんのおかげで、かつての香取海さも見えてくるようでした。創造力を楽しむコースでした。
戸田さんのお考えに興味のある方はご連絡いただければ、戸田さんの論考を書いた小文をお届けします。

後半は、手賀沼をはさんで対岸の柏市沼南の将門神社や福満寺、香取神社などを越岡さんの案内で回りました。こちらはその近辺に将門通りとか王城通りとか道路サインもあります。将門を思わせるような、生活習慣もいまだに残っているようです。
先日、私は一人で岩井の将門神社を訪れましたが、越岡さんのお話を聞きながらだとその小さな祠が、全く違って見えてきました。ガイドの力の大きさを感じました。
越岡さんのおかげで福満寺の奥にある将門の夫人が使っていたという井戸も見せてもらいました。

通算4時間。ちょっとハードでしたが、戸田さんと越岡さんのおかげで、なかなか体験できない4時間になり、魅力的なコースやプログラムが企画できそうです。
実際に歩いてみると、いろいろなことに気づきます。

今回の体験を踏まえて、6月か7月にぜひ公開のウォーキングツアーを呼びかけさせてもらう予定です。我孫子編と柏編の2回に分けるかもしれません。
今回参加した10人のみなさんとまたコースや内容を検討していく予定です。
戸田さんの講演会は、最近すこしずつ開催されだしていますが、これも企画できればと思います。
新型コロナの動向次第ということもありますが、最初に回った我孫子の観音寺(日秀神社)ではたまたま居合わせたご住職が、普段は入れない堂内に入れてくださり、さらに疫病退散のお札までみんなに下さいました。将門の霊力で、コロナも静まってくれるでしょう。

ちなみにそのお札には、最近観音寺で見つかった古くからのお札の版木に彫られた記号のような文字が刷られています。戸田さんは神代文字にも関心があるのですが、これこそ神代文字だとおっしゃっています。
神代文字もいろいろありますが、たしかにこれは神代文字といわれるものの一つでしょう。

将門プロジェクトは、ますます面白くなりそうです。
ご関心のある方はぜひ仲間になってください。
写真の一部を掲載させてもらいます。

 

Img_20210512_090355_20210513164401 Img_20210512_091505 Img_20210512_091618

  

 Img_20210512_095122 Img_20210512_100544 Img_20210512_101048 Img_20210512_113513 Img_20210512_114807 Img_20210512_114354 Img_20210512_121857 Img_20210512_122056 Img_20210512_123205 Img_20210512_123914 Img_20210512_125055 Img_20210512_135048

| | コメント (0)

2021/05/11

■節子への挽歌5004:カブトムシ

節子

昨日、帰宅したらにこがとんで出てきました。
虫かごを私に見せて、今日、これを捕まえたと言って、うれしそうに見せてくれました。
見ると大きなカブトムシがいました。

にこは今日、検査で病院に行ったのですが、その外で見つけたようです。
にこは以前から、いろんな昆虫を見つけて、私に見せてくれます。
私よりも、昆虫に好かれているのかもしれません。

それもそのはず、にこはつかめた昆虫を自分の虫かごに入れて、えさを与えて、翌日には逃がしてやるのです。
私はなかなか逃がさずぬ、むしろ同居させたいのですが、うまくいったためしがありません。
結局は、昆虫は虫かごや部屋の中で死んでしまうことが多いのです。
娘はそれを知っているので、きっと1日の滞在で逃がすようににこに教えているのでしょう。
私は反面教師だったわけです。

我孫子も昔は庭に様々な昆虫がとんできました。
いまでは、たとえば玉虫やゲンゴロウは来なくなりました。
蝶々も少なくなりましたし、蝉も少なくなってきたように思います。

我が家の庭は、節子がいなくなった後は、できるだけ草木を茂らせて、昆虫たちの場にしたいと思っていましたが、結果は逆でした。
バッタも住みつきませんでしたし、沢蟹はもちろん、魚さえ全滅してしまいました。
適度な手入れは必要なのです。
娘はそうした庭をバッサリと刈り取ってしまい、池までつぶしたいと言っています。

私もそうでしたが、親からの学び方はいろいろあります。
どうもわが家は、反面教師の血が流れているようです。

カブトムシは虫かごの中で用意された蜜を幸せそうに食べています。
娘はいつ来てもいいように、昆虫用のエサは用意しているようです。
これだけは私に似ています。
ちょっとほっとします。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5003:なぜか記憶から消えない思い出

節子

自治会の会長を引き受けたおかげで、いろいろな人が訪ねてきます。
社会の中の、ある役割を引き受けると、こういう形で人のつながりは広がっていくのだと改めて実感します。
人の活動は役割が支えているのかもしれませんね。

会社時代に全社的な大きなプロジェクトに取り組んだ時に、そのことを痛感しました。
その体験が、私の生き方を変える契機になったような気もします。
他動詞や受動態ではなく自動詞や能動態で生きる人生へと、です。
それがうまくいっているかどうかは大変疑問ですが。

今日は、地元の消防団の団長がやってきましたが、先日は地域の防犯カメラの件で、野田電器の野田さんが来ました。
野田さんのお名前は節子から聞いたことがあります。
それよりも、もう40年近く前に話した記憶があります。
なぜか記憶に残っています。

40年前、まだ我孫子に転居してきたばかりの時でしたが、自宅から駅に行く途中に、野田さんがやっている野田電器のお店がありました。
なぜかそこで野菜を売っていたのです。
通りがかりに、その店先に並んでいた野菜(多分地元の野菜)が目につき、それがあまりに安かったので、そこにいた野田さんに話しかけたような記憶があります。
何を話したかは全く覚えていませんし、買ったかどうかもわかりません。
しかしなぜかその時に声をかけさせてもらった記憶がずっと残っていたのです。

2回目に野田さんのお名前を聞いたのは節子からです。
節子が始めた駅前の花壇整理の活動への協力のお願いに、駅前商店会をうかがったと聞きました。
その時の商店会の会長が野田さんでした。
野田電器は駅前にはないのに、なんで野田さんが会長をやっているのかと不思議に思いましたが、なぜかその時も、あの野田さんなら会長も引き受けるだろうなと思いました。
根拠は全くありません。

前にも書いたことがあるかもしれませんが、たった10分の立ち話で、記憶がずっと残り、年賀状のやり取りが最後まで続いた人もいます。
人の出会いは、現世だけではないと私が思う理由の一つです。

それはともいかく、自宅にやってきた野田さんは私よりもずっと若かった。
それで妻が花かご会でお世話になったと聞いていますが、と話したら、それは親父の方ですね、と言われました。
今はもう引退し、お店は息子さんに継いだのだそうです。
もう40年近くたっていますから、当然の話です。
私にはあまり時間感覚がないので、そういうことにさえ気づかない。

私は、記憶力は弱いのですが、なぜか時々、とんでもなく小さなシーンを忘れずに覚えているのです。
しかも時々、なぜかそのイメージが浮かんでくる。
何か意味があるのでしょうか。

| | コメント (0)

■湯島サロン「「コロナ禍の」ポップな「シュウキョウ」/スピリチュアリティとレリジョン」報告

コロナ感染の広がりや「緊急事態宣言」状況の中で、多くの人がなんとはなしの漠然とした「不安」におそわれているいま、改めて「宗教」のことを素直に考えてみたらどうかという思いで始めた「宗教」テーマサロンの第1回目は、宗教にも通じていて、自らの信仰も実践している荒金さんにお願いしました。
サロンは、なぜ「ポップなシュウキョウ」なのかの話から始まりました。

「シュウキョウ」とあえてカタカナ表記にしたのは、制度宗教・教団宗教的な枠組みから離れて、個人にとっての「宗教」をテーマにしたかったからだそうです。たしかに、「宗教」というとほとんどの人は教団宗教を思い出して、制度論になってしまいがちです。私の友人の中には、宗教を「おおもと(宗)の教え」と捉えて拒否感を持っている人もいます。
「ポップな」と形容詞を加えたのは、そこに「民衆の・私の」という視点を強調したかったからだそうです。人々を支配したり秩序を維持したりする宗教を語るのではなく、個人の生き方を視点において考えたいということでしょうか。
さらに、副題に「スピリチュアリティとレリジョン」と付け加えているほどの念の深さに、荒金さんの生々しい問題意識とメッセージが現れています。

参加者の中には、強烈な「宗教嫌い」を表明する人、その「宗教嫌い」を理解できないと言う人、最近出家した人、僧侶なのに今の制度宗教に辛辣な意見を持っている人、宗教などはあまり意識しないけれど毎年サンチャゴなどの「巡礼行為」を行っている人、ちょっと霊的な体験もある人、などなどいろいろな人がいました。
そこからも推測されるように、話し合いはかなりハードな異論のぶつけ合いになりました。「神とは何か」という話から、科学と宗教、介護と医療、宗教と戦争、アニミズムと一神教、さらにはイタリアの哲学者アガンベンの話まで出てきてしまいましたが、結論的に言えば、みんな結局は人智の及ばないことへの畏れの念をもっていて、みんな「信心深い」というのが、私の主観的な(勝手な)感想です。
この結論には異議ありという人も多いでしょうが。

話し合いの展開は、荒金さんの意図通りにはならなかったかもしれませんが、示唆に富む話し合いが行われた刺激的なサロンでした。それだけに報告が難しいです。

一昔前ですが、宇宙飛行士が引退後、宗教関係の活動に入ったことがよく話題になりました。生き方を一変させた人もいますし、心霊科学教会を立ち上げた人もいます。地球外体験という、異質な世界と触れ合うことで、なにかが生まれたのかもしれません。
私は、それが宗教の一つの起源ではないかと思っています。
しかし、それを「宗教」といっていいのかどうか、むしろ「信仰」というべきではないか、では「宗教」と「信仰」とはどう違うのか。それはあまり議論にはなりませんでしたが、今回のサロンの底流にあったテーマだったと思います。

もう一つ、副題にあるピリチュアリティとレリジョンもあまり言及されませんでした。
荒金さんはサロン終了後、やはり「宗教」という語の持つ制度性や権力から脱却できなかった。スピリチュアルなものへの言及がもっとあると思っていたのに、と感想をくれました。たしかに、そこまでいかなかったのですが、だからこそ逆にそういう問題が、日本では「宗教」という言葉にはあまり含意されていなことが浮き彫りにされたようにも思います。

私自身はたくさんの示唆をいただきました。
サロン終了後、「嘘(方便)と宗教」の話を電話でしてきてくれた参加者がいます。
それを発展させれば「嘘と真実」の話になっていくでしょう。
その先には「科学と宗教は同じもの」という見解もあるかもしれません。
事実、最近では「科学が宗教になった」という人もいます。
まあそれぞれ言葉の意味や使い方は違うので、あまり一緒くたに議論するのは危険ですが、なにか大きなテーマにたどりつきそうな気もします。

そういう意味では、山森さんが連続してやってくださっている先端技術の動向のサロン、たとえば前回のポスト・ヒューマニズムの話につながっていくような気がします。
そこに「もう一つのポスト・ヒューマン」をイメージすることもできます。

体験したことのない世界に触れると人の意識は変わっていく。
新型コロナウイルスとの遭遇は、「未知との遭遇」とは言えないかもしれませんが、人智を超えたなにかが、そこにあるような気がしてなりません。実際には、人智の中に収めようという動きが強いですが、私はそれになじめません。

29日に神道のサロンをやりますが、その後も、宗教と信仰の話題のサロンを継続させたいと思っています。
どなたか話題提供、問題提起などしたいという人がいたら気楽にご連絡ください。
サロンですので、気楽な問題提起で大丈夫です。
「ポップなシュウキョウ」について、話し合い考え合うサロンが継続できればうれしいです。

Aragane2021

| | コメント (0)

2021/05/10

■節子への挽歌5002:母の日の墓参り

節子

昨日、ユカからお墓参りを勧められました。
帰宅した時間が早かったので行こうと行けば行けたのですが、なんだか疲れてしまっていて、明日にしようと言ってしまいました。

夕方にこが庭に咲いた大きな椿やバラの花を節子に供えに来てくれました。
仏壇を見たら、カーネーションの花が供えられていました。
「母の日」だったのです。
気がついたのはすでにそかったので、昨日はお墓参りには行けませんでした。

今日の午後、時間ができたので、ユカと一緒に墓参りに行きました。
お墓にもカーネーションを備えてきました。
久しぶりにきちんと般若心経を唱えました。
最近毎朝の般若心経も簡略版にしてしまっています。
心を入れ替えなければいけません。

母の日の墓参りはそう多くないようで、人は誰もいませんでしたし、カーネーションが供えてあるお墓は見当たりませんでした。
ユカが自分からお墓参りに行こうと誘ってくれるのは久しぶりです。

ちょっと嬉しい気がしました。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5001:最近の怠惰ぶり

節子

最近の怠惰ぶりを少し書いておきましょう。
この3日間、2つのことで挽歌をさぼってしまいました。
「トレッドストーン」と「三国志」です。
困ったものです。

「トレッドストーン」は、映画「ボーン・アイデンティティ」のスピンオフドラマです。
1時間ドラマの10話を3日で全部見てしまいました。
映画とのつながりをもう少し期待していましたが、実際には別の流れの作品でした。
あんまりおもしろいとは思いませんが、10話でもまだ終わっていないようです。
1話見ただけで私の好みとは違うなと思ってしまったのですが、止められずに毎日3話ずつ見てしまい、結局、10話見てしまいました。
昼間は見られないので、在宅時間しか見られないので、挽歌よりも優先されてしまったのです。

もう一つは、漫画「三国志」です。
いまさらなぜ「三国志」なのですが、中国・韓国・台湾の共同制作というのに興味を以ってテレビドラマ(これは50話です)を見てしまったのです。
そこにはこれまでの三国志とは全く違った物語があり、ついつい毎回見てしまうのですが、見ているうちに、従来の三国志も読み直したくなってしまったのです。
しかし最近は小説を読む気力がないので、横山光輝の有名な漫画を読むことにしました。
それが図書館にあることが分かったのです。
漫画といってもそう簡単に読めるわけではなく、1巻に1時間近くかかってしまうのです。
結局、この4日間で、9巻まで読みました。

とまあそんなわけで、この3日間は、漫画とテレビで時間がとられ、挽歌が書けなかったのです。
困ったものです。
でもまあ節子なら、修ならよくあることだと笑うだけでしょう。

もっともこれだけで過ごしていたわけではありません。
一編の雑誌記事を探すための資料探しもやりましたし(まだ見つかりません)、自治会の仕事もしました。湯島でサロンもやりましたし、友人と激論もしました。
でもまあ「怠惰な3日間」だったことは否定できません。

なくてもいいような時間を過ごしている毎日のような気がしてなりません。
コロナ禍が私も襲ってきているのかもしれません。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌5000:挽歌も5000回に達してしまいました

挽歌も5000回目になりました。

よくまあ長生きをしたものです。
困ったものです。
節子に叱られそうです。
いや喜んでくれるでしょうか。
いささか微妙ですね。

といっても、実は節子が行ってしまってから今日で5000日目ではありません。
最近また挽歌を時々さぼっているので、番号がずれてしまっています。
たぶん今日は節子が旅立ってから5016日目なのです。
追いついてもまたすぐ追い抜かれてしまう。

リフォームの過程で生活リズムが狂ってしまい、元に戻らなくなってしまいました。
長年書いていたホームページの更新も半年近く止まってしまっていますし、計画を立てて生活する習慣もなくなってしまっています。
やらなければいけないことはたくさんありますが、まあいいかという先延ばし文化が身につきすぎてしまいました。

以前なら5000回を節目に頑張ろうなどと思ったかもしれませんが、最近はそういう発想がなくなってきました。
怠惰な生活にすっかり慣れてきてしまった。
さてさてどうなっていくでしょうか。

 

| | コメント (0)

■湯島サロン「聖母神社と天上聖母」のご案内

日本の神道における「聖母信仰」について、昨年、日本の聖母研究者である本間浩さんからお話をお聞きしましたが、その報告でも書いたように、本間さんは、「今回はプロローグだ」と言って、さまざまな話題を紹介し、問いかけもしてくれました。
いよいよ本論がはじまります。

今回は、主に神功皇后を祭神として祀る北九州地方の「聖母神社」と、東シナ海周辺地域において「天上聖母」として知られる媽祖(まそ)に対する信仰の実態から、日本のみならず東シナ海周辺地域において広くまたがる聖母信仰についてのお話です。
時間があれば、16世紀の日本でみられたキリシタン信仰の中での「聖母」への信心にも言及し、日本の聖母に対する観念を考えていきたいと本間さんは言っています。
ますます話は壮大になってきました。

私にとっては、また初めて知る言葉「天上聖母」に出会えるだけでも、神道を考える視野が大きく変わりそうでわくわくします。
新型コロナもまだ収まっていないかもしれませんが、さまざまな「聖母」がサロンを守ってくれると祈りながらの2回目の本間神道サロンです。

新型コロナには十分ご注意の上、ご参加ください。
参加者は事前にご連絡ください。

〇日時:2021年5月29日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「聖母神社と天上聖母」
〇話題提供者:本間浩さん(神道学博士/日本の聖母研究者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

| | コメント (0)

2021/05/09

■三国志の秘密

いま、BSイレブンで、中国・韓国・台湾共同制作のテレビドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms」が放映されています。

原題のタイトルに“Secret”とついているように、これまでの三国志とは視点が全く違います。それでついつい毎回観てしまっているのですが、観ているうちに、本来の「三国志」にも興味を持ち始めました。
しかしいまさら小説を読むまでには至らず、むかしはやった横山光輝の漫画三国志を読むことにしました。幸いに近くの図書館に全巻そろっていたのです。
昨日までに6巻まで読みました。
私は、三国志はあまり好きではなかったので、こうして観るのも読むのも初めてです。

 ドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms」は次回が待ち遠しいほど面白いです。
中国ドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms」オフィシャルサイト| ソニー・ピクチャーズ (sonypictures.jp)
内容は矛盾だらけで、めちゃくちゃなつくりですし、登場人物の顔はみんな同じようですが、なかに魅力的な人物が登場します。
郭嘉です。
歴史書などではあまり評判のよくない人物ですが、このテレビドラマでは実に魅力的です。
顔も他の人とは見分けられる顔です。

もう一つの関心は、このドラマが中国・韓国・台湾共同制作という点です。
政治の世界と全く別の世界がそこにはあるのでしょう。

 

| | コメント (0)

2021/05/06

■節子への挽歌4999:「もっと宇宙とつながりなさい」

節子

新聞の夕刊を読んでいたら、俳優のサヘル・ローズさんがコラムで中井貴一さんから「もっと宇宙とつながりなさい」と声をかけられた話を書いていました。
舞台でうまく演じられなかった時にかけられた言葉のようです。
最近は新聞の夕刊はほとんど見ないのですが、なぜか今日は開く気になって、開いたページに目をやったらこの言葉が目に入ってきたのです。
サヘル・ローズさんのことは以前、テレビの「こころの時代」で人柄を少し知っていましたし、中井貴一さんは私が好きな俳優です。節子も好きでした。

「もっと宇宙とつながりなさい」

私も最近、意識しているのが、これです。
私の場合は、「つながる」というような能動的な意識ではなく、むしろ「ひきうける」というような受動的な感情なのですが、気分的には同じような気がします。
宇宙は私なのかもしれないというような感覚も、最近は少しわかりだしているような気もします。

しかし、それにもかかわらず、最近の私は自閉している気がします。
心がどうにも開かない、というか、動かない。
椅子にじっと座っていたい気分にまた陥っています。
せっかくよくなった腰の痛みがまたぶり返しそうですが、逆にそれをどこかで期待している面もある。
宇宙につながれば、自分は孤独ではないことを感じられますが、逆に孤独に浸りたい気分も、最近浮かんできます。

コロナによるステイホームの影響が、どうも私にも出てきているようです。
毎週湯島に出かけているものの、以前に比べたら、在宅時間は激増しています。
さてさてどうしたものでしょうか。

 

| | コメント (0)

■湯島サロン「みんなの請願支援センターを設立します」のご案内

4月の「忍び寄る茶色の世界」のサロンで、濱中さんが少し紹介された「みんなの請願支援センター」について、改めて濱中さんに構想を話してもらい、みんなで話し合うサロンを開催します。

前回のサロンでも濱中さんは「茶色の世界はすでに存在します」と話していましたが、それを放置することなく、「気がついた人から手をあげられる請願権という受益権の行使をみなさんと一緒にこれから考えていきたい」という濱中さんの呼びかけに共感されたみなさんの参加をお待ちしています。

組織を立ち上げるのはそう難しくはありませんが、その組織が実際に動き出し、目的を果たしていくように育てていくのは簡単ではありません。いかにエネルギッシュな濱中さんでも限界があります。そこで一人でも多くの共感者や仲間を増やしていく必要があります。
そのためにも、濱中さんの構想をしっかりとお聞きして、その構想が育っていくためにどうしたらいいかを話し合うサロンから始めることにしたいと思います。

前回のサロンに参加していない方ももちろん歓迎ですし、ご自身でも請願したいような問題を抱えている方も是非ご参加ください。
濱中さんの構想を切り口に、まさに「みんなの」請願権の実現支援のための方策を話し合えればと思います。

緊急事態宣言が問題になっている状況ですが、新型コロナ感染防止には十分ご留意の上、ご参加くださいますようお願いいたします。
こういう時期であればこそ、行動を起こさなければいけないと思っています。

〇日時:2021年5月22日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「みんなの請願支援センターを設立します」
〇話題提供者:濱中都己さん(みんなの請願支援センター設立準備会代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌4998:資料に埋もれた半日

節子

昨日はある雑誌記事を探すことから資料の整理になってしまい、資料に埋もれた大変な日になってしまいました。
昨年の家のリフォームで書籍や資料などが雑然と山積みされている状況からいまだに抜け出せないでいるのですが、サロンの関係である雑誌記事をある人に送りたくて、その記事を探すことにしました。
書類の整理の過程で、その記事のコピーを見たのですが、それをどこに入れてしまったかがわからないのです。
たぶん今年になってから2回は出合っているので、すぐ近くにあるはずなのですが。

私は論理の記憶力はとても悪いのですが、イメージの記憶力はさほど悪くないのです。
それとなぜか「合うべきもの」とはよく出合うのです。
その記事は某大学教授の書いたものですが、その人とはある研究会で1年だけご一緒しただけですが、その主張に共感し、その著書も読ませてもらいました。

その著書は見つかったのですが、雑誌記事が出てこない。
ネットで調べれば見つかるのかもしれませんが、どうしてもコピーして残しておいたものを見つけたいのです。
ところがそれが見つからない。
それを探そうとしていたら、部屋中に資料が広がってしまったのです。
なにしろリフォームの時に、何でもかんでもを箱に入れこんだので、いろんなものがごちゃ混ぜになっているのです。

むかし企画した面白いプロジェクトの提案書が出てきたり、懐かしい研究会や会議の記録が出てきたり、さらには友人の書いた論文や雑誌記事も出てきました。
私もしっかりと仕事をしていた時期もあったのです。

むかし書いた文章やインタビュー記事を読むと、時に「感心」してしまうこともあります。そして、そこまで考えていたのならどうしてもっときちんと取り組まなかったのかと後悔したりすることもあります。そうしていたら、今のような生き方ではなくなっていたかもしれません。
しかし、やはり今の生き方が私にはぴったりだなとも思いますが。

ちなみに丸半日かけたにもかかわらず、その記事は見つかりませんでした。
今日もまたたぶん探す羽目になるでしょう。
気になると放っておけないのが私の性分なものですから。

困ったものです。

| | コメント (0)

2021/05/05

■仕事って何だろうか

自治会の関係で、防犯指導員連絡協議会から活動を分担してくれる人を推薦してほしいという要請がありました。
文書ではその内容がよくわからないので、自治会の防犯指導員からどんな仕事なのかを責任者に確認してほしいと言われました。
そこで電話してみました。

どんな仕事なのか内容を教えてくれませんか、とお聞きしたところ、「仕事といってもボランティアですが…」と話しだされました。
内容は明確で、電話した目的は達せられたのですが(私でもできそうなのでやってもいいなとつい思ってしまったのですが)、気になったのは「仕事といってもボランティア」という言葉が気になりました。
こういう体験をよくします。
ボランティア活動と仕事は違うのか?

私は活動と引き換えに決められた金銭をもらう活動は「稼ぎ」であって、「仕事」ではないと考えています。
まあ実際には、会話ではついついそれも「仕事」といってしまうことはありますが、本来の「仕事」は「自主的に働くこと」だと思っています。お金のための活動は「稼ぎ」で、できるだけしたくないというのが私の本音です。

まあどうでもいいような話ですが、私の子どもの頃はそう思っている人も少なくなかったような気がします。対価としてのお金はもらったとしても、それが目的ではなかったのではないかと思います。

自分たちの住んでいる村や町を住みやすくするためにみんなで道普請に汗をかく、それが仕事だったのではないか。金銭的な報酬ではなく、生活を支えられるとか人のつながりが育つというような大きな報酬があった。そういう状況の中では、困ったら誰かが助けてくれるから、餓死や孤立死は起こらない。
そんな気がしてなりません。

しかし、金銭の魅力を知ってしまうにつれて、あるいは金銭を稼ぐことを強制させられる資本主義社会になるにつれて、「稼ぐ仕事」をする人が増えてきた。そしていつの間にか、稼ぐことが「仕事」になってしまった。それが高じて、お金をもらわない活動は仕事とは言わなくなってきたのかもしれません。
いまでは、だから自治会の中においてでさえ、「稼ぎを目的にしない活動」は「仕事」ではないと言うような根っからの金銭主義者が増えてきているのです。
そして、あげくの果てにはみんな仕事をしなくなってきた。
そんな気がしてなりません。

少なくとも「仕事」は「お金」のためにやるのではない。
そういう発想にかえれば、過労死もなくなれば、格差もなくなるかもしれません。
そういう社会になってほしいなと思っています。お金はなくても(たぶん)生きていけますが、「仕事」がないと生きるのが楽しくなるような気がします。

 

| | コメント (0)

■第8回益田サロン「メビウスの帯を使って生物と環境の関係を考える」のご案内

細菌学者の益田昭吾さんの第8回サロンは、引き続き、「自分と何か」にこだわり、もう少し議論を深めたいと思います。

ただ今回はちょっと視点を変えて、前にも話題になった「メビウスの帯」(裏も表もない平面)を使って生物と環境、自己と非自己の関係をモデル化してみようという取り組みです。
自己と非自己、生物と環境を同次元で二元論的に捉えるのではなく、次元を組み込んでトポロジカルに考えるという視点は魅力的です。
自己(生物)がいつの間にか非自己(環境)になり、非自己(環境)がいつの間にか自己(生物)になっていると考えると、まさに大きなエコシステムも感じます。

といってもピンとこない人もいるかもしれませんが、そこで、益田さんは、もうひとつの対として「夢想と現実」を取り上げるそうです。
夢想が自己で現実が非自己としてみると、現実というのは取り留めもない自己を安定して存在できるようにしてくれる役割があるのではないかと益田さんは言います。

私自身は、それでもまだピンときませんが、なんとなくわかりそうな気にはなります。
「夢想と現実」といえば、むしろ、有名な『荘子』の「胡蝶の夢」を思い出しますが、私は、「胡蝶の夢」を自己と非自己という視点で考えたことがなかったので、これまた魅力的な視点です。

なにやら難しそうな気もしますが、実在主義者の益田さんのことですから、具体的に話しながら、参加者と一緒にモデル化してくれるでしょう。
少なくとも、「自分とは何か」を考える示唆、あるいは生きやすくなるためのヒントがもらえるだろうと思います。

なお、今回のサロンでは参加者それぞれが「メビウスの帯」を作って、それを使った手作業が入る予定なので、できれば参加者は使い慣れたハサミを持ってきてほしいということです。

益田サロンの魅力は、万葉集サロンと同じく、参加者と一緒になって考えるサロンです。
細菌学もトポロジーもまったく知らない人でも、歓迎です。わからないことは質問すれば、益田さんは応じてくれますので。
自分とは何かに悩んでいる人は、ぜひ気楽に参加してください。

〇日時:2021年6月6日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「メビウスの帯を使って生物と環境の関係を考える」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌4997:毎朝何となく不安なのは、節子がいないからかもしれない

節子

全滅したと思っていた子メダカが数匹、頑張っていました。
ともかくとても小さいので注意しないと確認できないのです。
だから水も捨てずに残していたのですが、昨日、よく見たら少なくとも一匹泳いでいました。幻覚ではないでしょう。
やはり生命力は素晴らしい。

湯島にメダカは、月曜日に行ったときはとても元気でした。
それで4サロンの間は室内にいてもらおうと、小さな水槽に移して、みんなと共にいてもらいました。
最初は一匹だけにしていたのですが、それだと落ち着かなく泳ぎ回っているので、さびしいのかと思いもう一匹も小さな水槽に移しました。
そうしたら落ち着いたのです。
帰る時に大きな水槽に戻そうと思っていたのですが、戻すのが難しく、まあしばらくはこのままでいいかと思い直し、そのままにしてきました。
今度湯島に行くのは9日なのですが、元気でいてくれるといいのですが。
むしろそちらの方が心配になってきました。
生き物の環境を維持するのは難しいです。

自宅の大きくなっているメダカは元気です。
水槽の水は1週間に一回くらい替えていますが、ちょっとさぼると苔で緑になってしまいます。
苔が繁殖しない工夫をしなければいけませんが、そうしたことを最近はまったくやらなくなってしまいました。
だんだん怠惰になってきているのですが、それでも時折、水槽で泳いでいるメダカを見ることは増えています。
まあそれが一番メダカを元気づけることでしょう。
時にはちゃんと声をかけています。

水槽を見ていると心が安堵します。
人を癒す最高の存在は、やはり生命なのでしょう。
以前は、目が覚めて、最初に目に入ってくる生き物は節子でした。
だから毎日元気だったのですが。
いま毎朝何となく不安なのは、節子がいないからかもしれないと今朝気づきました。

今日もいい天気になってくれるといいのですが。
昨夜は9時前に寝たので、今日は5時前に目が覚めてしまいました。

 

| | コメント (0)

2021/05/04

■節子への挽歌4996:もう長くない友人

節子

昨日のサロンは面白かったですが、サロンの後、久しぶりにサロンに来た武田さんと川本さんから誘われて焼き肉を食べに行きました。
コロナ感染症が広がりだしてからは、夜の会食は基本的に断っているのですが、今日は憲法記念日でもあることからお誘いに乗ることにしました。
憲法と関係があるのかといわれそうですが、自由を大切に知るということでつながっているのです。コロナのせいで、為政者に行動を規制されるのは憲法の精神にもとるというのがこじつけの理由です。

2時間ほど3人で話しましたが、気になるのは武田さんの元気なさです。
そのくせ、今日は私と対照的で、私をめずらしく褒めるのです。
けなし合うのが私たちの関係なのですが。

みんな歳をとったものです。
川本さんは、相変わらずわが道を行くという感じですが。

そういえば、もう一人、長くはないのではないかといううわさが聞こえてきた友人がいます。
彼は私を仲がいい親友と思っているようですが、私はこれまで何回も嫌な思いをさせられているので、どうも声をかける気にならない。
彼の奥さんからも声をかけてほしいというような電話があったのですが、まだ声をかけられずにいます。
私としてはめずらしいことなのですが、節子が絡んだ不快な思い出があることもあって、ちょっと許せないのです。それに私が何を言っても、嘘だろうという疑い深さがあまりにも長く続いているため、話すのさえ気が進まないのです。
節子がもしいて、私が彼を好きになれない理由を聞いたら、笑い飛ばすでしょうが。

それはともかく、少しずつ同世代の友人知人はいなくなりだしています。
だからそんな些末なことにこだわることはないのですが、こだわってしまうと抜け出せなくなる。
これも歳のせいでしょうか。
しかし人生の終わり方は、それまでの生き方の結果なのがよくわかります。

やはり気は重いですが、彼に声をかけてみようかという気になってきました。
不快にさせられるのは覚悟のうえで。

 

| | コメント (0)

■5月憲法サロン報告

恒例の、憲法をテーマにした湯島のサロンは、今年は「私にとっての日本国憲法の意味」を話し合うことにしました。
外に出かけたくなるような行楽日和と緊急事態宣言下という、二重の悪条件にもかかわらず14人の人が集まりました。やはり憲法記念日という日があることには大きな意味があります。

Kenpo2021

最初にそれぞれから、「私(自分)にとっての日本国憲法の意味」を一言ずつ話してもらってから話し合いに入ることにしました。
ところが、一言では終わらない人も多く、しかも「自分にとって」というよりも「社会にとって」あるいは「みんなにとって」という話が多かった気がします。
なかには、毎朝、日本国憲法の前文を音読しているという人もいましたが、日本国憲法と生活との距離は遠い一方で、しかし、憲法に関しては語りたい人も多いようです。

問いかけた責任から、私にとっての憲法の意味を話させてもらいました。
日本国憲法は、私の人生を守ってくれるものです。もし日本国憲法がなければ、戦場への派遣指示を受け取っても拒めませんし、ヘイトスピーチを浴びせられても身を守れない。外出禁止を言われたら湯島のサロンにも来られなくなります。
日本国憲法は私の行動を制約するものではなく、私の生き方の指針を与えてくれる「私の守り神」なのです。

日本国憲法には「国民の義務」という表現がありますが、憲法は本来、どういう国にするかの大きなビジョンや方針を定めたものです。
憲法は一般に為政者に向けての指針といわれます。ですから、為政者が国民に向けて定める法律とは性格が全く違うのですが、日本語では同じく「法」という文字を使うために混同されているように思います。そのうえ、日本国憲法には「国民の義務」などという文字も明記されていますから、混同してしまうのです。

日本国憲法の文章表現に関して、逐条ごとに赤ペンを入れたリンカーンクラブの武田さんも今回は参加されていましたが、日本国憲法をよく読めば日本語としてもおかしな文章はたくさんあります。そうしたおかしな表現を直すことも「改憲」というとしたら、「改憲」とか「護憲」とかいう議論は本来成り立ちません。憲法にとって大切なのは、その「こころ」ではないかと思います。そして、その「こころ」を入れるのは、日本の場合は、主権者たる国民のはずです。

憲法は、為政者の暴走を回避するためのものだとしたら、暴走を回避するためには、国民が憲法への関心を高め、憲法を拠り所にして政治をしっかりと監視しなければいけません。
しかし、昨今の状況はどうでしょうか。ご都合主義な憲法解釈や為政者の違憲行動が広がっているにもかかわらず、国民はなすすべもなく、あきらめ気味なのではないでしょうか。さらに生活や生命の不安の前に、関心を持つ余裕さえ失いがちです。
そういう状況を変えなければいけないのではないか。

イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、世界の立憲法治国家においては、次第に「例外状態」が常態化しつつあると言っています。「例外状態」というのは、ドイツ法の概念で、憲法や法の支配を緊急事態宣言などによって一時的に停止する状態のことですが、たとえばテロ事件やコロナパンデミックを背景にして、国民の自由や権利の制約に対する人々の抵抗感が弱まってきていることは否定できません。
地球環境問題も、そうした動きを正当化する要因の一つといってもいいでしょう。
私たちは、今、さまざまな脅威(おどし)におびえさせられながら生きている。

昨今のコロナ感染症パンデミックは、そうした国民の自由や人権が制約されている状況を一挙に加速させると同時に、可視化してくれました。
そういう問題は、憲法とは別の話だと思う人もいるかもしれませんが、むしろこういう状況であればこそ、しっかりと憲法と生活のつながりを考えなければいけないのではない。日本国憲法はもはや「空気のような存在」ではなくなってきているのです。

サロンでの議論はこういう話とはほとんど別の話で盛り上がっていました。
示唆に富む話もたくさんありましたが、報告しだすときりがありませんのですべて省略。
参加者はそれぞれに日本国憲法について、いろいろと考えを巡らせ、憲法は決して自分の生活と無縁ではないという感じを強められたのではないかと思います。

日本国憲法には為政者の暴走を止める材料がたくさん含まれています。
私たち国民は、そうした憲法の力をもっと活用して、さらに生きやすい国と世界にしていく意識を持つことが大切だと改めて思いました。

今回、初めて湯島のサロンに参加してくださった方は、翌日こんなメールをくださいました。

帰ってからも憲法が気になってこんなの見てました。
https://www.youtube.com/watch?v=L4xiKi2pHLM&t=2552s
おかげさまで憲法三昧の一日を過ごすことができました。

この方がみたのは、2007年に放映された「NHKスペシャル 日本国憲法誕生」です。
こうした動画を見るだけで、日本国憲法への愛着も高まり、親近感が高まるはずです。
そして動きたくなる。

憲法について話したい人がいたらいつでも大歓迎です。
ぜひご連絡ください。

なお、案内文で紹介した、丸山真男さんの講演記録の一部を次のサイトに一時的に掲載しています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/.../04/post-f72fd6.html
私が大学に入学した1960年の53日に講演された記録です。
もしまだお読みでない方がいたら、お読みいただければうれしいです。

 

| | コメント (0)

2021/05/03

■節子への挽歌4995:今年も憲法を読みました

節子

今日は憲法記念日です。
湯島で憲法をテーマにしたサロンです。

毎年、この日、私は日本国憲法の前文と第3章を読みます。
今朝もまず、そこを読みました。
しかし最近はあまり読んでも元気が出なくなっています。
どう考えても、日本国憲法は、私に国家のために尽くせと言っているようにしか思えないからです。これは私の憲法ではなく、国家の憲法であることは仕方がないとしても。その目線の高さは読むたびに憲法嫌いになるのです。

しかしこの憲法があればこそ、私は今の生活を維持できるのも間違いない。
だから嫌いな憲法でも大事にしなければいけない。
それが最近の私の憲法観です。

大学できちんと聴いた授業はあまりないのですが、「憲法」と「刑法」だけはさぼらずに聴いたはずです。その頃は、日本国憲法が好きでした。
しかし最近はちょっと違います。

節子がいた頃は節子と憲法を話題にした話ができました。
節子がいなくなってからは、湯島で憲法を話題にすることになってきています。
コロナ騒ぎで参加する人は少ないでしょうが、このこと自体が、憲法に関係しているような気もします。
メーデーが51日ではなくなったように、憲法記念日ももうあまり意味がなくなってしまっているのかもしれません。

前文と第3章を読みましたが、さびしいことに何の感情も起こってこない。
読みすぎるのもよくないのかもしれません。
今日のサロンで、刺激をもらえるといいのですが。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌4994:悲劇

節子

腰の痛みがだいぶ良くなったのですが、昨夜はよかれと思って、湯船に20分以上も使っていました。
あたためたほうがいいだろうと思ったのです。

ところがそれがよくなかった。
湯船が出ようと思ったら、昨日と同じ痛みが腰に走った。
あたためてはいけなかったようです。
それでまた冷湿布をし、またすぐ寝てしまいました。
幸いに起きたら、だいぶ良くなっていて、大丈夫そうです。

しかし、これが今日のタイトルの「悲劇」ではないのです。
起きて、窓辺においてあるメダカの水槽に、いつものようにエサをやりました。
昨日、腰の痛みに注意しながら、水槽の水を変えたのですが、きれいになった水の中で、7匹のメダカは元気でした。

ところがそのとなりに置いていた小さな水槽にいたはずの子メダカが1匹も見当たらないのです。
親と一緒だと食べられてしまうので、大きくなるまで分けているのですが、それが見当たらない。
一昨日、友人が来た時には、たしかにそれを見つけていたので、昨日のうちにいなくなってしまったのです。

そういえば、昨日の午前中は陽に当たっていて、小さな水槽はあったまっていましたので、日陰に移したのですが、ビン自体の温度がかなり高くなっていたので、温度変化にやられたのかもしれません。
子メダカは小さいので、注意しないと見えないほどですが、よく見ても、メダカの遺体らしきものはみつかりません。
しかし何回見てもいないのです。
子メダカは6~7匹いた気がしますが、全滅してしまったようです。

また子メダカが産まれてくれるといいのですが。

 

| | コメント (0)

2021/05/02

■節子への挽歌4993:ちょっとよくなりました

節子

ぎっくり腰症状をフェイスブックに書いたら、早速、対処法のメールが来ました。
フェイスブックで問いかけるとすぐに誰かが応えてくれる。私にとってはとてもありがたいアドバイザーなのです。

今回最初に届いたのは、ヨガをやっている方からの腰のリセットの勧めです。
基本的には上向きに寝て、膝を立てて、左右・前後に動かす運動ですが、それをやったら、かなり改善されました。
要は、最近、椅子に座り続けることが多かったのが原因のようです。
たしかに歩くことが減ってしまった。
それに2階生活になったので、家の中でもあまり階段を使わなくなったのです。
部屋も前とは違い、ほぼ一部屋在住になっています。
外にも出る機会が減りました。

腰が痛いので今日はまた椅子に座り続けています。
これがよくないのでしょう。
でも何となく歩く気にならない。

最近は、ネット環境のおかげで、別に歩かなくても、いろんなことができます。
昨日と違って電話は来ないのですが、メールはいろいろときます。
うれしいメールもあれば、ちょっと面倒なメールもある。
それに返事を出しているとあっという間に時間が過ぎてしまう。

まさに最近はみんないつも世界とつながっている感覚を持ててしまう。
パソコンの前に座っているだけで、いろんな人からアクセスがあるので、退屈しないのです。
まあこちらが返信するので、やり取りが続くのですが。

もうこうなると、身体など不要の長物だとさえ思えてしまう。
おかしな時代になってしまいました。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌4992:ぎっくり腰?

節子

昨日、夕方、立ち上がろうとしたら腰に痛みを感じました。
それもあまり体験したことのない、痛みです。
うわさに聞いていたぎっくり腰でしょうか。

注意しないといけないと思い、すぐに湿布を張りましたが、痛みは定着しました。
注意しないと大変です。

重い荷物を持ち上げたりした記憶はないのですが、この数日、椅子に座り続ける姿勢が続いたためでしょうか。
いつも娘から注意されていますが、私の椅子の座り方は、いわゆる「ふんぞりがえり」スタイルが多くて、とても悪いのです。
そのため私のお気に入りのソファーも背中がボロボロになっていますし、椅子もボロボロなのです。
湯島でも座り方が悪くて、節子からも注意されていましたが、いまだに直っていないのです。

そんな座り方だと、腰のあたりに無理な力が働きます。
それがたまって腰を痛めたのでしょう。
困ったものです。

この連休中に土仕事とかいろいろとやりたいことがあったのですが、この調子だとやれそうもありません。
明日のサロンは行けるでしょうが、しばらくは注意しないといけません。

今日の外出予定もすべてやめ、様子を見ることにしました。
だからといって、座っていてはさらに悪化しかねない。
どうしたらいいか迷うところです。

 

| | コメント (0)

2021/05/01

■節子への挽歌4991:突然の旧知の人からの電話へのいやみ

節子

今日は不思議な日です。
なぜか昔の知り合いからの突然の電話が3件もありました。
これだけ重なると、単なる偶然とは思えません。
しかも、いずれもあまり楽しい内容ではなく、ついつい余計な「いやみ」を言ってしまいました。
困ったものです。

2人は節子がよく知っている人。
節子が元気だったころは、湯島にもよく来ていた人です。
そのうちの1人は今も時々来ますが、1人はもうさっぱりです。
活動がうまく展開しているからでしょう。
困っていない人は湯島にはあまり来ないのです。

人はみんな薄情なものです。そういう人が、私の世界からいなくなってもらうのはうれしいことなので、追うことはしません。また困ったら来るでしょうし。
そういう人にこそ、親切に対応すべきなのですが、ついついいやみを言ってしまうのは、私もまた。その人と同じように「貧しい」からでしょう。
言った後に、しまったと思いましたが、少し胸はすっきりしました。
なんとまあ「貧しい」ことか。

3人目は節子も知っている人の奥さんです。
私は夫婦ともよく知っています。
奥さんはいい人ですが、特に私と付き合いの深い夫にはこれまで不快な思いをさせられています。彼自身は、私を不快にさせたなどとは思っていないかもしれませんが、節子にも関わることなので、私には忘れられずにいるのです。
そこで、ついつい奥さんにまで「いやみ」を言ってしまいました。
これまたなんとまあ、私の貧しいことか。
でもまあ、奥さんの頼みにはこたえようとは思っています。

3人あての電話が終わって、少ししてから、すっきりどころではない、自己嫌悪に陥ってしまいました。
最近どうも私自身の精神状況がよくありません。
困ったものです。

そういえば、今日、わが家にパソコンを直しに来てくれたSさんも、最近はちょっとストレスで他者にあたってしまうというような話をしていました。
私も最近、同様な状況に陥っているのかもしれません。

まだ3時ですが、もうこれ以上、級友からの電話がないことを祈るばかりですS
しかしもし電話があったら、今度こそ、いやみだけは絶対に言わないようにしようと思います。
いや、電話に出ないほうがいいかもしれません。

今日は風が強い。
私のストレスも吹き飛ばしてほしいです。

 

| | コメント (0)

■5月3日、「憲法」をテーマにしたサロンを予定通り開催します

私は毎年、憲法記念日には、日本国憲法の前文と第3章を読むようにしていますが、その前後に誰かとテーマを決めて憲法に関して話をする場をつくっています。
この数年は、その場は湯島のサロンになっています。

今年はどういうテーマにしようか決めかねていましたが、「私にとっての日本国憲法の意味」にすることにしました。
これに関して私が話すわけではなく、参加者それぞれが、このテーマで話をしてもらい、そのあと、みんなで話し合えればと思っています。

というと何やら難しそうで、参加したくないと思われそうなのですが、たとえば「私にとっては日本国憲法はあまり関心のないもの」というような一言でもいいのです。
できれば一瞬でもいいので、みんながそれぞれ日本国憲法を思い出してもらえればサロンの目的は達成されると思っています。

しかしそれでは逆に物足りないという人もいると思いますので、私が大学に入学した年の53日に丸山真男さんが講演した記録の一部を、できれば読んできてもらい、その感想を話し合えればと思っています。
その記録は、サロン開催前後に次のサイトに保存していますので、できればお読みいただければと思います。
現代における態度決定(丸山真男 1960年5月3日憲法記念講演会における講演): CWS private (cocolog-nifty.com)

サロンには参加できないという方も、この記録だけでも読んでいただければ嬉しいです。

サロンはいつものように下記のとおり開催します。

〇日時:2021年5月3日(月曜日)午後2時~4時
〇テーマ:憲法を話題にしたオープンサロン
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

| | コメント (0)

現代における態度決定(丸山真男 1960年5月3日憲法記念講演会における講演)

5月3日の湯島での憲法サロンの資料です。
5月10日までアップさせてもらいます。

出典は、岩波新書「憲法を生かすもの」(憲法問題研究会編 1961)に収録されている、丸山真男さんの「現代における態度決定」と題する196053日の憲法記念講演会における講演記録の一部です。

〔不作為の責任〕

 先日私は『ロベレ将軍』というイタリー映画を見ました。第二次大戦中のドイツ軍占領下のイタリーを背景にとりまして、抵抗運動のあるエピソードを取り扱ったものであります。もちろんここでストーリーを詳しくお話しすることはできませんが、私がそのなかでとくに印象づけられた場面の一つとして、刑務所のなかのシーンがあります。そこでは戦争中間商売をやっていた男が、抵抗運動者やユダヤ人といっしょにつかまって、今やまさに処刑されようとしている。死刑になるか強制労働にやらされるか、あるいはドイツに送られるかという準戸際のところであります。その閣商売をやっていた男は恨

めしそうに、同室の囚人たちに対して、さかんにこういうわけです。自分は何もしなかったのにこういう目にあった、ユダヤ人でもない、抵抗運動もしたことはない、それなのにこんなにひどい目にあういわれはない、私は何もしなかった。何もしなかったと、ヒステリックに叫ぶわけであります。それに対して元銀行員であったところのレジスタンスの指導者が静かにいうわけであります。「私はあなたのいうことを信ずる。しかしまさに何もしなかったということがあなたの罪なのだ。なぜあなたは何もしなかったのか。5年も前から戦争が行われている。そのなかであなたは何もしなかったのです」。これに対してその男が「それじゃあなたは何をしたのですか」と聞くと、そのファプリチオという抵抗者は、「私はとるに足らない仕事をしました。ただ義務を果そうと思っただけです。もしみんながそれぞれ義務を果していたならば、たぶんわれわれはこんな目にあうことはなかったでしょう」ということを語ります。

 ここには私の先ほどから話していた問題の核心が、非常に短いが鋭い形で触れられていると思います。つまりそれは不作為の責任という問題です。しないことがやはり現実にたいするコミットになる。不作為の費任というものが、鮮明に提起されていると思うのであります。私が同時にこのやりとりに感銘しましたのは、銀行員あがりの抵抗者が、自分の命がけの行動について、何らヒロイックな陶酔に陥っていないで、自分はじつにつまらないことをしただけのことだ。平凡人が平凡な社会的義務を遂行したにすぎない、といっていることです。

 今日は、もちろんあの映画の背景になっているような時代ではありませんし、私たちのおかれている環境もその苛烈さにおいては到底ああした異常な状況と比べものになりません。しかし今私が簡単に述べましたようなテーマは現代に生きる人々すべてに、多かれ少なかれ突きつけられている問題だと思います。ああいう文字通り毎日毎日が、死に直面した抵抗運動が、平凡な社会的義務の遂行であるならば、われわれがいろいろな現代の問題に対して、日々なしている決断や行動などは、その何方分の一にも当らないつまらないことです。しかもその何方分の一にも当らないつまらない社会的義務というものを、もし私たちがしないなら、その不作為の結果が積り積ったところでは、やはりあの映画に劣らないところの悲劇が生まれて来ないとは必ずしもいえないのじゃないかと思うわけであります。

 たとえば最近の請願ということにしましても、一人一人の請願などということは、なんにもならない、そんなことではとても現代の大きな政治は動かないというようなことを耳にします。なるほど請願を一人がするという、そのこと自体の豊はきわめて軽いかもしれない。しかしそんなことをしてもつまらないと考えて結局みんながなんにもしなかったら、逆にそのなんにもしないという現実がどんどん積みかさなって、それ自体社会を一定の方向に押しすすめてゆきます。大きなこと、つまらないことといっても、私たち個人個人の行動などは、とてつもなく巨大な、国際的規模にわたった今日の政治的現実にたいしては大した違いはありません。しかしどんな微細なつまらない事でさえも、できるだけ多くの人がするかしないかは非常に大きな違いを生んで行きます。

政治行動というものの考え方を、なにか普通人の手のとどかない雲の上の特殊なサークルで、超人的な人間によって行われる仕事と考えないで、または私たちの平凡な是生活を断念してまったく別の世界にとびこむことのように考えないで、私たちのこく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほんの一部であっても持続的に座を占める仕事として、こく平凡な小さな社会的義務の履行の議として考える習慣-それがどんな壮大なイヂオロギー、どんな形式的に整備された制度にもまして、デモクラシーの本当の基礎です。ギリシアの都市国家の直接民主政の伝統といったものは、あるいは私たちの国に欠けているかもしれません。しかし私たちの思想的伝統には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治家の政治活動という考え方になります。政治行動というのは政治の世界に「出家」しなければできないものではありません。もし政治活動を政治家や議員のように直接政治を目的とする人問、あるいは政党のように直接政治を目的とする団体だけに限ったら、その瞬間からデモクラシーというものは死んでしまいます。ちょうど宗教が坊さんだけの事柄ということになったら、宗教の生命力が失われるのと同じです。デモクラシーの発展ということは、この観点から見ますならば、つまりそれは職業政治家によって構成されている特殊の世界、俗にいわれる政界によって政治が独占されている状態から、それがだんだん解放されてきた過程であります。ということは、デモクラシーというものは一つのパラドックスを含んでいるということです。つまり本来政治を職業としない、また政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられるということであります。議会政治もまた決してその例外ではありません。議会政治とは決して議員政治という意味ではありませんし、いわんや国会の立派な建物が厳然とあることが議会政治の健在の証明でもありません。デモクラシーのなかった戦争中にも、国会のなかで翼賛議会は毎回開かれていました。

 エドマンド・パークという思想家を御存知だと思いますが、これはイギリスにおける保守主義の典型的な思想家・哲学者であります。私は間違えていっているのではありません。保守主義の哲学者であり、政治家であります。彼がこういっております。

 「もしこれらの代議士たちが、何らかの目に余る悪名高い法令とか、重大な改革によって、法の柵を踏みにじり、勝手な権力を行使するように見えたときは、いつ何どきたりとも、人民という団体自体が介入しなければならない。それ以外に代議士たちに、いつも公共の利益に対して、相応の考慮を払う態度を維持させる方法というものを、私は見出すことができない。こういう人民の直接介入ということは、じつはもっとも不愉快な救済策である。けれども、それ以外の方法では、憲法の真の原則を保持することができないというようなことが明瞭であるような場合には、それは許されて然るべきことである。」

イギリスの議会政治の基礎づけをした、保守主義の思想家によってそういうことがいわれている。これがつまり議会政治のコンモンセンスであります。人民が「何時たりとも」そういう行動をとるということは、突然できることでなく、人民が日々に、寸暇を割いても、自分たちの代表者の行動を監視しているという前提があってはじめてできることです。毎日毎日をとってみれば、きわめて小さな関心と行動がじつは大きな制度の生命を動かしているわけです。繰り返し喩えていえばお葬式のときにだけ思い出すような宗教は死んだ宗教であり、そういうお寺は民衆の日常生活と隔絶した特殊地帯にすぎません。

憲法擁護ということがいわれますけれども、憲法擁護ということは、書かれた憲法の文字を、崇拝するということではありません。憲法擁護ということが政治的イッシューになっているということはどういうことか。この状況のなかで、私たちはどういう態度決定というものを迫られているか。憲法擁護ということが、書かれた憲法というものをただありがたがることでなく、それを生きたものにするということであるとするならば、それを裏返しにしていえば、憲法改正ということ-、よく改悪といわれますが法律的には別に正ということはいいという意味ではないので正といっておきます-憲法改正ということは、政府が正式に憲法改正案を発表したり、あるいはそれを国会にかけるその日から始まるわけではありません。ちょうど日本国憲法が成立した瞬間に、その憲法が現実に動いているのではないと同じように、憲法改正もすでに日々始まっている過程であります。この日々すでに進行している過程のなかで、私たちが憲法によって規定されたわれわれの権利というものを、現実に生きたものにしていくために日々行動するかしないか、それがまさに憲法擁護のイッシューであります。

 われわれはどちらにコミットすべきなのか、憲法の97条には御承知のように「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であってこれらの権利は過去幾多の試錬に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とあります。今日何でもないように見える憲法の規定の背後には表面の歴史には登場して来ない無数の人々によって、無数の見えない場所で積み重ねられていった努力の跡が艇々と遥かにつづいています。私たちはただこの途をこれからも真直ぐに堂々と歩んで行くだけです。短かい時間で意を尽しませんがこれで私の話を終ります。

 

| | コメント (0)

« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »