■節子への挽歌5012:「私の生きる意味は妻」
節子
昨日のサロンはいささか恥ずかしいサロンになりました。
結局、「私の生きる意味は妻」という話をしてしまったのです。
もう少しわかりやすく話したかったので、考えているうちにだんだん頭が混乱してきて、そのまま話してしまったのです。
そこからいろいろと突っ込まれて、さらにいろいろと話してしまいました。
ちょっとまた話し過ぎてしまいました。
人は自分一人で生きているわけではありません。
人生には必ず「伴侶」がいる。
伴侶は妻や夫とは限りません。
いわゆるパートナーであり、「人」という文字の右側の支え棒になる存在です。
しかも、その支え棒もまた私がいないと倒れてしまう。
お互いが支え合って存在できている。
そういうことを話したかったのですが、うまく話せませんでした。
話せないというよりも、考えが整理できなかったということなのですが。
サロンでは私の話が話題になりすぎて」、参加者みなさんの話はあまり聞けませんでしたが、お一人、「自分は次代につないでいくのが役割」という人がいました。先人から受け継いだものだけではなく、それに何かを加えてという意味だったと思います。
共感できる面もありますが、それがいいことかどうかはわからない。
むしろ次代につなげるのを止めるのもまた役割かもしれない。
サロンが終わってからも、いろいろと考えるヒントをもらいました。
久しぶりに私には面白いサロンでした。
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