■節子への挽歌5011:生きている意味と生きる意味
節子
今日は「自分にとっての生きる意味」をテーマにしたサロンです。
難しい、しかもめんどくさいテーマなので、何人集まるかわかりませんが、このサロンを呼びかけた時には、箴言やエピソードなどを集めて、最初に私から少し話をさせてもらう予定でした。私に「生きる意味」を与えてくれていたのは節子だったという話もするつもりでした。
しかしこの数日、そうした準備をしようといろいろと考えているうちに、そういう話をやめることにしました。
いろいろと考えているうちに、サロンでこのテーマを選んだことの意味が、自分でもわからなくなってきたのです。
サロンを企画した時の「意図」は、人は利他的であり、支え合う存在、という方向に話を持っていこうと思っていました。
生きているのは「自分」のためではなく、「他者」のためでもなく、「特定の誰か」のためではないかということを議論しようと思っていたのです。
しかし、考えているうちに、どうもうまくまとまらなくなってきました。
そして、私がかつて考えていた「私の生きる意味は節子」という命題の意味が揺らいできたのです。
この挽歌のどこかにも、そういうことを書いた気がしますが、それを探して読む気もしなくなった。
事実、節子がいなくなったのに、どうして私は生きているのか。
もちろんいかように説明はつけられますが、考えすぎたせいか、これまでの思考が無意味なような気さえしてきたのです。
もともと私は、物事を素直に受け止めるので、生きていることも素直に受け入れられます。その意味を問うことなど、あまりしたことがない。
ただ「生きている意味」と「生きる意味」とは違います。
そうした原点にまた引き戻されてしまいました。
生きている以上、生きる意味があるに違いない。
そこからもう一度考え直してみようと思います。
今日はどんな議論になるでしょうか。
どんな人が集まるかによって決まってくるでしょうが。
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