■節子への挽歌5003:なぜか記憶から消えない思い出
節子
自治会の会長を引き受けたおかげで、いろいろな人が訪ねてきます。
社会の中の、ある役割を引き受けると、こういう形で人のつながりは広がっていくのだと改めて実感します。
人の活動は役割が支えているのかもしれませんね。
会社時代に全社的な大きなプロジェクトに取り組んだ時に、そのことを痛感しました。
その体験が、私の生き方を変える契機になったような気もします。
他動詞や受動態ではなく自動詞や能動態で生きる人生へと、です。
それがうまくいっているかどうかは大変疑問ですが。
今日は、地元の消防団の団長がやってきましたが、先日は地域の防犯カメラの件で、野田電器の野田さんが来ました。
野田さんのお名前は節子から聞いたことがあります。
それよりも、もう40年近く前に話した記憶があります。
なぜか記憶に残っています。
40年前、まだ我孫子に転居してきたばかりの時でしたが、自宅から駅に行く途中に、野田さんがやっている野田電器のお店がありました。
なぜかそこで野菜を売っていたのです。
通りがかりに、その店先に並んでいた野菜(多分地元の野菜)が目につき、それがあまりに安かったので、そこにいた野田さんに話しかけたような記憶があります。
何を話したかは全く覚えていませんし、買ったかどうかもわかりません。
しかしなぜかその時に声をかけさせてもらった記憶がずっと残っていたのです。
2回目に野田さんのお名前を聞いたのは節子からです。
節子が始めた駅前の花壇整理の活動への協力のお願いに、駅前商店会をうかがったと聞きました。
その時の商店会の会長が野田さんでした。
野田電器は駅前にはないのに、なんで野田さんが会長をやっているのかと不思議に思いましたが、なぜかその時も、あの野田さんなら会長も引き受けるだろうなと思いました。
根拠は全くありません。
前にも書いたことがあるかもしれませんが、たった10分の立ち話で、記憶がずっと残り、年賀状のやり取りが最後まで続いた人もいます。
人の出会いは、現世だけではないと私が思う理由の一つです。
それはともいかく、自宅にやってきた野田さんは私よりもずっと若かった。
それで妻が花かご会でお世話になったと聞いていますが、と話したら、それは親父の方ですね、と言われました。
今はもう引退し、お店は息子さんに継いだのだそうです。
もう40年近くたっていますから、当然の話です。
私にはあまり時間感覚がないので、そういうことにさえ気づかない。
私は、記憶力は弱いのですが、なぜか時々、とんでもなく小さなシーンを忘れずに覚えているのです。
しかも時々、なぜかそのイメージが浮かんでくる。
何か意味があるのでしょうか。
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